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ほろほろと山吹ちるか瀧の音

2018.02.18 13:14

https://haiku-textbook.com/horohoroto/  【【ほろほろと山吹散るか滝の音】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!】 より

「五七五」の17音を定型とする俳句は日本が誇る伝統芸能の一つです。

わずか17音で綴られる物語は日本語ならではの文芸であり、その美しさは日本のみならず世界中の人々から高く評価されています。

今回は数ある名句の中でも「ほろほろと山吹散るか滝の音」という松尾芭蕉の句をご紹介します。

本記事では、「ほろほろと山吹散るか滝の音」の季語や意味・表現技法・鑑賞など徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてくださいね。

この句は、貞享5年(1688年)に「松尾芭蕉」が詠んだ一句です。

この句は、『奥の細道』の旅の2年前に書かれた俳諧紀行『笈の小文』に収録されています。

季語

こちらの句の季語は「山吹(やまぶき)」で、季節は「晩春」を表します。暦でいうと4月にあたります。

山吹色の語源ともなる山吹は、細くしなやかな枝に黄金色の花を多数咲かせる植物で、その風情は万葉集以来、たくさんの詩歌で詠まれてきました。

意味

この句を現代語訳すると・・・

「滝が激しく岩間に轟々と鳴り響き、岸辺に咲きほこる山吹の花は風もないのにほろほろと散る」という意味になります。

つまり、轟々と激しい音を立てて岩間を流れ落ちる滝を背景に、黄金色の山吹が川岸に咲きみだれ、ほろほろと散っていく様子がとても美しいことを詠っています。

この句が詠まれた背景

この句は、芭蕉が『奥の細道』の旅に出発する2年前に書かれた『笈の小文』に登場する一句です。

『笈の小文』は貞享4年(1687年)10月に江戸を出発し、東海道を下り、尾張・伊賀・吉野・和歌の浦などを経て、須磨・明石を遊覧した際の道中に詠んだ俳句を交えて記録した紀行文です。

この句は、吉野川の上流にある西河(奈良県吉野郡川上村大字西河)の滝を訪れたときに詠まれたもので、吉野は桜だけでなく山吹も有名であることがこの句から伺えます。

各地を旅する芭蕉は、風もないのに「ほろほろ」と散りゆく山吹に自分の人生を重ね、そのはかなさを美しく詠んだ一句です。

「ほろほろと山吹散るか滝の音」の表現技法

この句で使われている表現技法は・・・

擬態語「ほろほろ」 詠嘆の「か」 体言止め「滝の音」になります。

擬態語「ほろほろ」

この句では、山吹が散っていく様子を「ほろほろ」と表現しています。

「ほろほろ」という言葉は、古くから黄葉の落ちる姿や、衣のほころび、山鳥の鳴き声を表現する際に用いられてきました。

「ほろほろ」という形容は、この句の感動のポイントである「山吹ちるか」と呼応し、読み手の五感を刺激する効果があります。

詠嘆を表す助詞「か」

「山吹散るか」の「か」は詠嘆を表す助詞と捉え、芭蕉は轟々と岩間から激しく流れ落ちる滝の音を聞いて、「この滝の轟きで山吹も散ることだろうよ」と滝の音の強さを詠嘆していると解釈することができます。

句の中では「ほろほろと」と「山吹散るか」とが響き合うことで、花のはかなさを見事に表現しています。

体言止め「滝の音」

「体言止め」は俳句でよく使われる技法の一つで、読み手にイメージを委ね、動詞や助詞が省略されることによってその句にリズムを持たせる効果があります。

この句は語尾が「滝の音」で終わっています。

語尾を「滝の音」で締めくくることによって、滝の音がいつまでも耳に残っている様子を読み取ることができます。

「ほろほろと山吹散るか滝の音」の鑑賞文

「流れ落ちる滝の音が激しく響きわたる中、岸辺に咲いている山吹は風もないのにほろほろと散ることだろうよ」と詠んだこの句は、「音」に焦点を当てた新しい感覚の俳句だといえます。

轟々と激しい音を立てて流れ落ちる「滝」と音もなくほろほろと散りゆく「山吹」を見事に対比させた一句であるといえます。

語尾を「滝の音」で締めくくることによって、滝の音がいつまでも耳に残っている様子を読み取ることができます。

また、風もないのにほろほろと散るはかない山吹の姿に旅に生きる自分の人生を重ね合わせ、「自分の人生もこの山吹のようにはかないものだ」といっているようにも捉えることができます。(略)


https://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20040502&tit=20040502&today=20040502&tit2=2004%2594N5%258C%258E02%2593%25FA%2582%25CC%2520title= 【『増殖する俳句歳時記』検索: 20040502】より

ほろほろと山吹ちるか瀧の音  松尾芭蕉

季語は「山吹」で春。『笈の小文』所収の句で、前書に「西河(にしこう)」とある。現在の奈良県吉野郡川上村西河、吉野川の上流地域だ。この「瀧(たき)」は吉野大滝と言われるが、華厳の滝のように真っ直ぐに水の落下する滝ではなくて、滝のように瀬音が激しいところからの命名らしい(私は訪れたことがないので、資料からの推測でしかないけれど)。青葉若葉につつまれた山路を行く作者は、耳をろうせんばかりの「瀧の音」のなか、岸辺で静かに散っている山吹を認めた。このときに「ほろほろと」という擬態語が、「ちるか」の詠嘆に照応して実によく効いている。「はらはらと」ではなく、山吹は確かに「ほろほろと」散るのである。散るというよりも、こぼれるという感じだ。吉野といえば山桜の名所で有名だが、別の場所(真蹟自画賛)で芭蕉は書いている。「きしの山吹とよみけむ、よしのゝ川かみこそみなやまぶきなれ。しかも一重(ひとえ)に咲こぼれて、あはれにみえ侍るぞ、櫻にもをさをさを(お)とるまじきや」。現在でも川上村のホームページを見ると、山吹の里であることが知れる。「ほろほろと」に戻れば、この実感は、よほどゆったりとした時間が流れていないと感得できないだろう。その意味では、せかせかした現代社会のなかでは、もはや死語に近い言葉かもしれない。せめてこの大型連休中には、なんとか「ほろほろと」を実感したいものだが、考えてみると、この願望の発想自体に既にせかせかとした時間の観念が含まれている。(清水哲男)


https://go-kawakami.oit.ac.jp/soramitsu/episode05/?ja 【芭蕉、春の川上村にて】より

ほろほろと 山吹ちるか 滝の音

ー現代語訳ー

滝の音が大きく響く中、その滝のほとりに咲く山吹の黄色い花が、ほろほろと散っているよ

貞享五年(1688)三月下旬、松尾芭蕉(1644~1694)は吉野を訪れました。『笈の小文』によると、三月十九日に故郷の伊賀上野を出発し、初瀬(長谷寺)、多武峰、龍門と歩みを進めています。この句の前書には「西河」とあり、川上村西河にて詠まれたことが分かります。晩春、暖かく差し込む日の光の中で、鮮やかな黄色の山吹の花が咲き誇っていたことでしょう。一方で、大きく響く滝の音。静と動の対比が見事な一句です。

この句の後には「蜻めいの滝」、「布留の滝」、「布引の滝」、「箕面の滝」と、滝の名およびその簡単な説明がそれぞれ付されています。「蜻めいの滝」は現在の「蜻蛉の滝」にあたり、芭蕉の足跡が川上村のそこここに残されていることが分かります。

さて、「吉野」と「山吹」の組み合わせは、紀貫之「吉野川 岸の山吹 ふくかぜに 底の影さへ うつろひにけり」(『古今和歌集』巻二・春下・124番・「よしの河のほとりに山ぶきのさけりけるをよめる」)*2にすでに見られます。「吉野川の岸の山吹は風に吹かれて散ってしまった、川底に映っていた花の影さえも散ってしまったよ」という歌意のこの和歌は、晩春の切なさを感じさせる歌でもあります。おそらく芭蕉もこの和歌を念頭に置いたのでしょう。芭蕉の句「ほろほろと」の背景には、平安時代から続く美意識が隠されているのかもしれませんね。

芭蕉が詠んだ滝はどこ?

ところで、この「滝」の所在は大きく二説に分かれ、いまだ結論が出ていません。

一説は、滝ではなく、「吉野の大滝」すなわち「大滝」の吉野川の急流を指すという説。もう一説は「蜻蛉の滝」を指すというものです。芭蕉と同時代の地誌『和州巡覧記』でそれぞれを確認してみましょう*3。「西河」は、「是吉野川の上也。大瀧とも云。(略)此滝は急流にて大水岩間を漲落る也。よのつねの瀧のごとく高き所より流落にはあらず」とあり、一般的な滝のように高いところから流れ落ちるものではないことが分かります。一方、「蜻蛉の滝」は「此瀧は岩間より漲落る瀧也。十二間許もあらんか」とされ、21~22mほどの滝であると記されています。

芭蕉の石碑

天理大学附属天理図書館蔵「ほろほろと 発句画自賛」(許六画、元禄六1693年)には、後者をイメージさせるような滝と、滝の前で鮮やかに咲く山吹が描かれ、蜻蛉の滝を詠んだと解釈していることが窺えます*4。

芭蕉が憧れた吉野の桜

さて、『笈の小文』は次のように記され、吉野の旅を締めくくります。

よしのの花に三日とどまりて、曙・黄昏のけしきにむかひ、有明の月の哀なるさまなど、心にせまり胸にみちて、あるいは摂政公のながめにうばはれ、西行の枝折にまよひ、かの貞室が「是ハ是ハ」と打なぐりたるに、われいはん言葉もなくて、いたづらに口をとぢたる、いと口をし。おもひ立たる風流いかめしく侍れども、ここに至りて無興の事なり。

ー現代語訳ー

桜の花盛りの吉野に三日間滞在し、朝夕の気色を眺め、有明の月が趣深い様子などが、心に迫り、胸いっぱいになる。あるいは摂政公の和歌を思い出しては心を奪われ、西行の枝折の歌に心が迷い、あの貞室が「これはこれはとばかり花の芳野山」と詠んだ句を思い出すにつけても、自分は表現すべき言葉もなく、むなしく口を閉じたままとなってしまった。大変残念なことだ。せっかく、花の吉野の句を詠もうと思っていた風流も、ここに至っては興ざめなことである。

これまでに吉野を詠んだ歌人・俳人のオンパレード。まずは摂政公。「摂政公のながめにうばはれ」とは、第四話でご紹介した九条良経「むかしたれ かかるさくらの 花をうゑて よしのをはるの 山となしけむ」(『新勅撰和歌集』巻第一・春歌上・58番)*5を指します。続いて、西行。「西行の枝折にまよひ」は「よしの山こぞの枝折りの道かへてまだ見ぬ方の花を尋ねん」(『新古今和歌集』・春上・86番・「花歌とてよみ侍りける」)を踏まえています。歌意は「吉野山の、去年枝折りしながら入った道を変えて、今年はまだ見たことがない方向の花を尋ねよう」。奥深い吉野山の、まだ見たことがない桜への憧れが詠み込まれている和歌です。最後に登場するのが、江戸時代の俳人・安原貞室(1610~1673)。「是ハ是ハと打なぐりたるに」は、「これはこれはとばかり花の芳野山」を踏まえた本文です。

川上村の桜

芭蕉も先人にならい、花の吉野を訪ねて、桜の一句を詠もうと考えていたはずです。けれども、一句も作れないほどに、吉野の桜があまりにも美しく、圧倒的であったのでしょう。吉野の桜と、偉大な歌人たちの歴史と。これらを前に感嘆する芭蕉の姿が浮かんできそうです。

http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2019/06/post-7681.html 【俳句の鑑賞 「滝音」・「滝の音」】より   

芭蕉の俳句「ほろほろと山吹ちるか瀧の音」をインターネットで検索すると、目についた限り全て「山吹が散る情景を詠んだ俳句」と解釈しています。

そうであれば、芭蕉は「ほろほろと山吹ちるや滝の音」と「や」(強調・詠嘆を表す助詞)を用いたのではないでしょうか? 「山吹ちるか」と「か」(疑問を表す助詞)を用いたのは、滝音を聞いて、「山吹も滝の響きで散ることだろう」と、その轟音を詠嘆したものでしょう。

この句は、従来の俳諧が「滝・清流に山吹」など、絵画や和歌の題材として「視覚」で捉えていたものを「音・聴覚」に焦点を当て、「不易流行」を具現する新しい感覚の俳句にしたものでしょう。 

歳時記(俳誌のサロン)から「滝音」を詠んだ俳句を気の向くままに抜粋・掲載させて頂きます。詳細は青色文字の季語をクリックしてご覧下さい。

(滝1)

・水楢の林の深し滝の音 (三澤福泉)

  

(滝2)

・滝音の正面にゐてしづかなり (藤井みち子)

  

(滝3)

・白糸の世にも閑けき滝の音 (渡邊誓不)

  

(滝4)

・滝の音轟き闘志甦る (泰江安仁)

  

(滝5)

・華厳の滝音に聞きしが霧隠れ (奥村鷹尾)

  

(滝6)

・滝となる前のしづけさ藤映す (鷲谷七菜子)

   

(滝7)

・滝茶屋に滝の谺を聞きゐたり (大久保久枝)

  

(滝8)

・滝までは行けず水音に耳澄ます (鈴木圭子)

  

(滝9)

・瀧宿の瀧の聞こえてくる電話  (八田木枯)

   

(滝10)

・庭下駄のまま滝音にいざなはれ (齋藤朋子)

   

(滝11)

・東山音羽の滝の静寂かな (三枝邦光)

   

(滝12)

・詩仙堂の庭の静寂や滝の音 (中川すみ子)

   

(滝13)

・落人の拓きし道や滝の音 (岩田洋子)