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主客一如

2018.02.18 14:42

https://blog.goo.ne.jp/sakamichi361/e/3bb303624fd5e8f7a34fe152cb0268ee 【主客一如】

あるお店の経営者が、お客さんに気持ち良く来店いただくためにと、毎日朝からお店をきれいに掃除されています。

いよいよ開店の時間となり、お客様を迎えるのですが、お客様にはちっともきれいなお店とは見えません。というのも、玄関の外にはごみが散らかり、蜘蛛の巣がはっていたりしているからです。

ここの店主は、一生懸命掃除をしているのですが、いつも店の内側からばかりで、時折り玄関先は掃除をしても、ドアの近くを掃除する程度です。お客様の目線に立って掃除をすることが無かったのです。

自分の側にばかりたって、ものを見るのではなく、相手の側に立ってものをみることが大事です。

 「主客(しゅきゃく)一如(いちにょ)」という禅語があります。主客とは、主人とその大事なお客様のことです。もてなす主人ともてなされる客人がひとつになる。もてなす側ともてなされる側の双方が互いの気持ちになり、立場に立つということです。

私たちは、知らず知らずのうちに自分を主として、相手を客として分けてみようとします。分け隔てるのではなく、お客さんの気持ちや立場になり切って考えることが大事となります。

別のある店のご主人は、「あまり儲けすぎるな」と教えているそうです。商売だからより多く儲けようとすると思うのですが、相手の立場にも立って考えるのです。良い商品を安く提供することで、お客様に喜んで頂く。お客様が安心できる店なら、「ここなら」とご近所さんや友人に紹介して下さる、ということです。

道元禅師は、「同事というは不違なり、自にも不違なり、他にも不違なり」と示しておられます。天から降る水は、大地に浸み込みやがて川の流れとなって海に注ぎます。どんな水でも海でまじわり、区別することなく受け入れられるのです。


https://gijutsuyamiyabiman.seesaa.net/article/a25994558.html 【「主客一如」、相手の立場で考える】より

【心の技術】禅語【主客一如】

◆禅の言葉:「主客一如」相手の立場で考えると事態は好転する

『 「上の人たちがボトルネックだから、自分の意見なんてどうせ日の目を見ることはない」と最初から投げやりになるのではなく、アイデアを上に渡して、自分が手助けしていくことで、やりたかったことは実現できるし、相手もいい気持ちになって“顔が立つ”。思考を柔軟にすれば、八方ふさがりに思えても抜け出せる道はあるものです。

 「主客一如」(しゅきゃくいちにょ)という禅語があります。主客とは、主人の主なお客様。もてなす主人ともてなされる客人が一体となる。つまり、もてなす側ともてなされる側、双方が相手の気持ちや立場になり切って、お互いの心がひとつになるということです。そのためには、お客様の気持ちや立場になり切って考えることが大事となります。

 人は自分を主体にして、相手を客体として物事を判断しようとします。しかし、禅の教えでは、主体や客体というように、自分を主体化し、相手を客体化して物事を判断しようとするのはダメです。主体と客体を分け隔てなく考えることで、自分の意見だとしても、相手にあげてもいいという考え方ができるわけです。「自分のアイデアや意見だから」という考えに縛られると、「アイデアを取られた」と思い、しゃくに触ります。しかし、「私が譲った」という考えになれば、譲ってもらえた方も「譲ってくれてありがとう」という気持ちになる。捉え方一つで、物事の進み方はまったく変わっていくのです。主人と客人が一体となるということの意味はそういうことなのです。 』


https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/principleofzen.html 【第8章 禅の根本原理と応用】より

本サイトの研究から「禅の根本原理」は次の二項目にまとめることができる 

第一原理 

禅で問題とする本来の面目(=真の自己)、法身や仏性とは、坐禅修行によって健康になった脳、特に下層脳(=脳幹+大脳辺縁系)を中心とした脳)

のことである。「見性」や「悟り」とはこれを覚知する体験である。

第二原理 

作用即性 言語動作や煩悩は真の自己の本体としての脳神経系の作用(働き)である。

それらは脳神経系を体(本体)とした作用(働き)であり、脳を体とし、

言語動作・煩悩を用と考える体用思想によって、次の図8.1によって説明できる。

図8.1 言語動作や煩悩は真の自己の本体である脳神経系の作用(働き)である。 

8.1 根本原理による馬祖道一の禅思想の説明  

馬祖道一の禅思想は <作用即性> 、<日用即妙用>、<即心即仏>、<平常心是道>

などの4つの名文句に表現されることは既に見た。

(第3章3.18を参照 )。

図8.1は<作用即性>そのものの表現である。

<日用即妙用>とは

我々の行住坐臥の日用(日々の働き)は仏性(脳)の妙(たえ)なる作用(はたらき)であるということである。

日常生活の中に悟りの本体である仏性(脳=法身)の妙用がそのまま現れているということを言う。

馬祖の弟子である在家の弟子 ホウ蘊(ほううん、?~815)は「神通ならびに妙用、すべて水をにない柴を運ぶ。」と詠っている。

その意味は「水をくんで運んだり、芝を取って運ぶ(運水搬柴(うんすいはんさい)という平凡な日常生活の動作の中に仏性(清浄なる脳)の神通とも言える妙なる働きが現れている。」という意味である。

これは図8.1に基づいて説明できる。

<即心即仏>は我々の心は仏性(清浄なる脳=健康な脳)のはたらきである。

もし坐禅修行によって本源清浄心になったなら、そのまま仏の性質を表わしたはたらきとして肯定できるという意味である。

<平常心是道>とは坐禅修行によって「本源清浄心」とも言える状態になった時、我々の平常心は仏性(清浄なる脳)のはたらきであるからそのまま道として肯定できると言っている。 

馬祖道一の法嗣百丈懐海(720~814)の言葉に「一切の語言文字、ともに皆宛転して自己に帰す。」という言葉がある。

宛転とは変化するさまを言う。

百丈懐海のこの言葉は「一切の語言文字は、結局のところ真の自己(脳)の働きに帰着する。」と言っている。

従って、百丈懐海が言いたいのはので図8.1の<作用即性>と同じことである。

このように、馬祖の禅思想を初め多くの禅思想はこの根本原理で簡単に説明できる。馬祖の禅思想はこのように単純明快である。

しかし、その根本は厳しい禅修行によって得られた「本源清浄心」に基づいていることを忘れてはならない。修行もしない我々凡人の「凡俗心」に基づいてはいないのである。

わが国の道元が「只管打坐」を強調したのは坐禅によって「凡俗心」を離れ「本源清浄心」を開発するためだったと考えられる。

(「本源清浄心」については「禅の思想:その1」を参照 )。

8.2  根本原理の応用例 

8.2.1 山岡鉄舟と臨済録:<剣禅一如>の精神 

古くから山岡鉄舟に参じていた某が、ある時、鉄舟に「臨済録」の提唱をお願いした。

鉄舟、「それは鎌倉の洪川和尚(今北洪川)について聞くが良いだろう」。

某、「いや、洪川和尚(今北洪川)の提唱はもう聞いています。ただ、先生の提唱を一度ぜひお伺いしたいのです」。

鉄舟、「それならばやりましょう」。

と言って鉄舟は某を撃剣道場へ連れて行き、彼の前で撃剣一番をした。

その後、部屋に帰った鉄舟は某に向かって、

鉄舟、「わしの提唱はどうですか?」と聞いた。

某はあっけにとられて無言であった。鉄舟はさらに、

鉄舟、「わしは剣客であるから、剣道をもって臨済録を提唱したのだ。それがわしの本分だ。わしはけっして坊主のまねなどはせん。人まねは死物だ。碁や将棋の人まねは有益かも分からんが、禅が死物となっては、畢竟、道楽仕事に過ぎん。おまえさんも、長年禅をやっているようだが、臨済録を書物とのみ思っているようでは困りますな」

と呵々大笑した。某は深く悔謝するところがあった。

(山岡鉄舟の禅」については「山岡鉄舟と洞山五位頌」を参照 )。

図8.2 剣道 

山岡鉄舟は「剣道をもって臨済録を提唱した」と言っている。これは馬祖禅の<作用即性>の禅思想を表している。

即ち、剣道の絶妙な剣技は本体(=性=脳)の自由活発な働き(作用)である。

剣道の立会いにおいては互いが100%自己の力を出し切って真剣に剣技を振るう。そこには雑念が入り込む隙間もない。一種の三昧状態(集中状態)と言えるだろう。

ただ本体(=性=脳)から出る自由活発な働き(作用)があるだけである。

それを鉄舟は「剣道をもって臨済録を提唱した」と言っているのである。それが<剣禅一如>の精神であることが分かる逸話となっている。

これは次の図8.3で示すことができる。

図8.3 鉄舟は剣技によって本体(=仏性=健康な脳=真の自己)の

自由活発な働き(作用)を示すことで臨済録(禅の本質)を提唱した。

注:山岡鉄舟:山岡 鉄舟(やまおか てっしゅう、1836~1888)は、日本の武士(幕臣)、政治家、思想家。爵位は子爵。剣・禅・書の達人としても知られる。

鉄舟は号、他に一楽斎。通称は鉄太郎。諱は高歩(たかゆき)。

一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖である。「幕末の三舟」のひとり。

幕臣として、清河八郎とともに浪士組を結成。

慶応4年(1868年)、勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着き、単身で西郷と面会した。

奇跡的な江戸無血開城への道を開いた功労者である。

今北洪川:幕末・明治時代を代表する臨済宗の禅僧(1816~1892)。

鎌倉円覚寺の管長に出世し、雲水のみならず、一般大衆に対する禅指導に力を注ぎ、

山岡鉄舟や鳥尾得庵ら明治期の著名人が参禅した。

弟子としては、渡米して禅の宣揚につとめた釈宗演や鈴木大拙らが出た。

今北洪川の設立した両忘会が標榜した在家主義は、釈宗演門下の釈宗活の両忘禅協会、

釈宗活門下の立田英山の人間禅教団へと受け継がれた。

8.2.2 茶と禅:<茶禅一味>の精神 

『茶道』は堺の茶人、武野紹鴎及び千利休等によって完成された。

その「茶の湯」の精神的基盤は、武野紹鴎や千利休が南宗寺の大林宗套和尚(だいりんそうとう、南宗寺開山、1480-1568)や第二世笑嶺和尚ら歴代の和尚に参禅することによって確立された。

中でも、千利休の師である武野紹鴎は、南宗寺の大林宗套に参禅して「茶禅一味」の言葉をもらいわび茶を深めた。千利休も南宗寺の第二世笑嶺和尚に参禅して禅に開眼した。

利休は俗世を離れて禅の修行に入ったような茶の湯の生活や、体で会得していく茶の湯の方法を確立し、茶人としての素養を深めた。

8.2.3 わび茶とその歴史(村田珠光→武野紹鴎)

室町時代後期、喫茶は庶民の間まで広まっていたが、公家・武士らが行う茶会では高価な中国製の道具である「唐物」が用いられていた。

このように高価な唐物を尊ぶ風潮に対し、村田珠光(むらたじゅこう、1423~1502)は、粗製の「侘びた」中国陶磁器(「珠光青磁」と呼ばれるくすんだ色の青磁が代表的)などの道具を使用した。

大徳寺の禅僧・一休宗純のもとに参禅した村田珠光は禅院での茶の湯に点茶の本意を会得したといわれ、侘び茶を創始して茶道の開祖となった。

  これより、村田珠光の茶がわび茶精神の始まりとされている

堺の豪商・村田珠光(じゅこう)は一休須宗純のもとに参禅したと伝えられることから

わび茶の成立には禅宗の影響は無視できない。

珠光は坐禅の眠気防止に一休から茶を薦められたのが、茶との出合いだったと伝えられる。

彼は坐禅を繰り返すうちに“茶禅一味”の悟りに達したとされる。

彼が始めた「侘び茶」は、従来の派手で形式中心の「大名茶」とは全く異なるものだった。

小さな四帖半の茶室の中では、人の身分など関係ない。

そこにあるのは亭主のもてなしの心だけである。

彼はこの心が仏だとした。まさに一休から学んだ「仏は心の中にある」であり、珠光は仏の教えを仏典を通してではなく、日常生活(茶の湯)を通して具現化したのである。

この「侘び茶」の精神は武野紹鴎(じょうおう)を経て千利休へと受け継がれて行くのである。

このような歴史から、村田珠光(むらたじゅこう)はわび茶の祖と考えられている。

「茶の湯」の精神的基盤は、武野紹鴎や千利休が南宗寺の大林宗套和尚(だいりんそうとう、南宗寺開山、1480-1568)や第二世笑嶺(しょうれい)和尚ら歴代の和尚に参禅することによって確立されたと考えられている。

  中でも、千利休の師である武野紹鴎は、大林宗套に参禅して「茶禅一味」の言葉をもらいわび茶を深めたのである。

千利休も南宗寺の第二世笑嶺和尚に参禅して禅に開眼した。

利休は、日常の俗世を離れて禅の修行に入ったような茶の湯の生活や、体で会得していく茶の湯の方法を確立し、茶人としての素養を深めたと考えられる。

茶の湯の歴史を見ると、「茶の湯の基盤」には禅の精神が 一休宗純→村田珠光→武野紹鴎→千利休へと流れていることが分かる。

これらすべての人が大徳寺に関係が深いことから、「応燈関の悟りの伝統」と 関係が深いと考えられる。

(「応燈関の悟りの伝統」については日本の禅とその歴史「応燈関の法系」を参照 )。

お茶を立て、飲む働きは真の自己の働きと考えると、「茶禅一味」の精神は次の図8.5で示すことができる。

図8.5 お茶を立て、飲む働きは本体である真の自己(=仏性=健康な脳=真の自己)

の働き(作用)である。

図8.5で示した「茶禅一味」の精神は馬祖の<作用即性>の禅思想(図8.1)と同じである。あるいは<作用即性>の禅思想に似た考え方である<日用即妙用>

などの馬祖の禅思想の影響も考えられる。

(第3章3.18を参照 )。

注:南宗寺(なんしゅうじ):戦国武将の三好長慶が父・元長の菩提を弔うため、弘治3年(1557)大林宗套(だいりんそうとう)を開山として建立した臨済宗大徳寺派の禅宗寺院。

  創建当時は壮大な寺院を造営し、著名な禅僧が来住して、自由貿易都市として栄えた堺の町衆文化の発展に寄与した。

  中でも、千利休の師である武野紹鴎は、南宗寺の大林宗套に参禅して、「茶禅一味」の言葉をもらいわび茶を深めたことで知られる。

千利休も南宗寺の第二世笑嶺和尚に参禅して禅に開眼した。

日常の俗世を離れて禅の修行に入ったような茶の湯の生活や、 知識ではなく体で会得していく茶の湯の方法を確立し、茶人としての素養を深めた。

  南宗寺は、今も昔ながらの禅宗寺院の面影が色濃く残っている。

  周囲を土塀で囲まれた静かな境内に佇めば、結界を超え仏の世界へ踏み入ったような感覚になる。境内には千利休ごのみの茶室・実相庵が復元されており、利休忌にちなんだ茶会も催される。

大林宗套 (だいりん-そうとう): 戦国時代臨済宗の僧(1480-1568)、茶人。大徳寺90世。京都出身。天竜寺の粛元寿厳(しゅくげん-じゅげん)のもとで出家し、大徳寺の東渓宗牧(とうけい-そうもく)に学んだ。

のち古岳宗亘(こがく-そうこう)の法をつぎ,天文(てんぶん)5年大徳寺住持となる。

弘治(こうじ)2年三好長慶(ながよし)にまねかれ南宗寺の開山となった。

永禄(えいろく)11年1月27日死去。89歳。京都出身。諡号(しごう)は仏印円証禅師,正覚普通国師。  

笑嶺宗訴(しょうれい-そうきん):戦国時代臨済宗大徳寺派大仙派の僧(1490-1568)。

南宗寺の大林宗套に師事し、その法嗣となり、南宗寺の第二世となった。

永禄元年大徳寺の住持となり、のち三好義継にこわれて大徳寺内に聚光院をひらいた。

永禄11年11月29日死去(享年79歳)。

伊予(愛媛県)出身。俗姓は高田。号は喝雲叟。諡号は祖心本光禅師。

8.2.4 利休の死

1591(天正19)年、2月23日、69歳の時、利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、

「京都を出て堺にて自宅謹慎せよ」と命ぜられた。

利休が参禅している京都大徳寺の山門を2年前に私費で修復した際に、門の上に木像の利休像を置いたことが罪に問われた(正確には利休の寄付の御礼に大徳寺側が勝手に置いた)。

大徳寺の山門は秀吉もくぐっており、上から見下ろすとは無礼極まりないという理由であった、とされている。

 秀吉は利休に赦しを請いに来させて、上下関係をハッキリ分からせようと思っていた。

秀吉の意を汲んだ家臣団のトップ・前田利家が利休のもとへ使者を送り、秀吉の妻(おね)、或いは母(大政所)を通じて詫びれば許されるだろうと助言した。

しかし、利休はこれを断った。

利休には多くの門弟がいたが、秀吉の勘気に触れることを皆が恐れて、京を追放される利休を淀の船着場で見送ったのは、古田織部と細川三斎の2人だけだった。

 利休が謝罪に来ず、そのまま堺へ行ってしまったことに秀吉の怒りは頂点に達した。

2月25日、利休像は山門から引き摺り下ろされ、京都一条戻橋のたもとで磔にされた。

 2月26日、秀吉は利休を堺から京都に呼び戻した。

利休は葭屋町の自邸に移った。

2月27日、前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興らの大名の弟子達が奔走したが助命嘆願は適わなかった。

大政所や北政所が「利休の為に命乞いをするから、関白様によく謝罪するように」と利休に密使を遣い勧告している。

利休は「それがし、天下に名がある者が婦女子の為に死を免れたとあっては、後世の聞こえもいかがか」と言い固辞したという史料も現存する。

 2月28日、この日は朝から雷が鳴り天候が荒れていた。

検使として尼子三郎左衛門・安威摂津守・蒔田淡路守の3人がやって来て、「切腹せよ」と秀吉の命を告げた。

利休は静かに「茶室にて茶の支度が出来ております」と述べ、使者に最後の茶をたてた後、一呼吸ついて切腹した。享年69歳であった。

切腹の介錯をつとめたのは利休の茶湯の弟子でもある蒔田淡路守で、彼が利休の首を一刀の元に斬り落とすと、利休の後妻のおりきが次の部屋から出て来て、死骸に白小袖を掛けたとされている。

 利休の首は蒔田、尼子の両人が秀吉の元に届けて切腹の状況を報告した。

秀吉は首実検さえせず、聚楽の一条戻橋の磔にされた木像の下に晒された。

首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたという。

切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図る恐れがあることから、秀吉の命令を受けた上杉景勝の侍大将・岩井信能ら3000の軍勢が包囲し、厳重に2日間警備をしたと伝えられる。

8.2.5 和敬清寂(わけいせいじゃく)と茶道

「和敬清寂」という利休の言葉は茶道の精神を一言で表しているとされる。

詫び茶の祖といわれる村田珠光が室町幕府第8代将軍足利義政(在職:1449年 - 1473年)から茶の精神をたずねられた時、「謹敬静寂」と答えたと伝えられる。

その志をついだ千利休が一字を改めて「和敬清寂」とした。

この一句四文字の真意を体得し実践することが茶道の本分とされる。

前の二文字(和敬)は茶事における主客相互の心得、後の二文字(清寂)は茶庭、茶室、茶器に関する心得をあらわしている。

和:和合、調和、和楽の意。互いに楽しもうという心。 

敬:他人を敬愛する心。

清:清潔、清廉の義。まわりも自らも清らかでありなさいという教え。

寂:寂静、閑寂の意。要らないものや雑念を捨て去ることで生まれる。

意味を述べると簡単である。

しかし多くの茶人がこの言葉を理解し実践するために道を歩み続けている。

8.2.6 「和敬清寂」の言葉のルーツと利休 

和敬静寂の言葉を日本に紹介したのは、大応国師=南浦紹明だとされる。

南浦紹明は宋に留学し、台子や風炉、釜や茶に関する劉元甫の『茶堂清規』という書物を持ち帰った。

『茶堂清規』に見える「和敬静寂」という言葉は大徳寺で一休宗純に参禅した茶道の祖村田珠光に伝わった。

この言葉はその後武野紹鴎から、その弟子利休に伝わった。

これより、この言葉の伝搬ルートは南浦紹明→ 一休宗純 → 村田珠光 →武野紹鴎 →利休と考えられる。

利休に伝わった「和敬静寂」という言葉は利休によって静→清に変えられ,最終的に「和敬清寂」という言葉になったと考えることができる。

大応国師=南浦紹明も 一休宗純も日本臨済宗の偉大な禅匠である。

(大応国師=南浦紹明については日本の禅とその歴史「応燈関の法系」を参照 )。

「和敬静寂」という言葉も禅や仏教と深い関係がある。

「和敬静寂」という言葉の中の「静寂」も禅や仏教と深い関係がある。

「静寂」という言葉を逆転すると「寂静」になる。

「寂静」は坐禅中の静かな心の状態を表している。

寂静」という言葉は仏教の三法印「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」に見える。

この「寂静」を反転させることで「静寂」という言葉にしたとも考えられる。

(原始仏教その1、仏教と寂静の道を参照)。

実際、坐禅中は情動や雑念が鎮静化すると、心は「寂静」そのものになることは誰でもすぐ体験できる境地である。

仏教の三宝である仏・法・僧の内、僧は仏教僧団のことで、和合衆(わごうしゅ)とも漢訳される。

604年、我が国の聖徳太子によって定められた17条憲法の第一条は、「和を以(も)って貴(とおと)しとなし・・・」から始まる。

日本人は古代から和(わ)を重視したのである。

六祖慧能は「六祖檀経」において、「各須らく自心の三宝に帰依すべし。自仏に帰せずんば所依の処なけん。

内外心性を調え、外他人を敬する、是れ自帰依なり。」と言っている。

(禅の思想:その1、3.13を参照 )。

これらの言葉が「「和敬」のルーツと考えられる。

最後に、利休が「和敬静寂」の一字「静」を「清」に変えた。

禅では「本源自性清浄なり」と心の清浄さを主張する。

実際、臨済録において臨済は「仏というは心清浄是れなり」と言っている。

(臨済録4:示衆11を参照 )。

「清」と言う言葉はこの清浄という言葉と関係すると思われる。

黄檗希運禅師も「本源清浄心」を説いている。

(黄檗希運の「本源清浄心」については「禅の思想:その1」」を参照 )。

また、日本の神道では「清らかな心」が最も重視される。

「清らかな心」を持つことが神道の根本教義だと言っても良いだろう。

これらの諸要因によって、「和敬静寂」から最終的に、

「和敬清寂」という言葉が生まれたと考えることができるだろう。

和敬静寂の言葉のルーツと「和敬清寂」に到るルートを次の図8.7に示す。