花鳥風月
https://www.lib.tokushima-u.ac.jp/m-mag/mini/133/133-2.html 【○M課長の図書館俳句散歩道 (花鳥風月の巻)】 より
俳句は世界で一番短い詩でありながら,その小さな体の中に大きな宇宙を持っています。
200万人とも300万人ともいわれる俳句人口は,英語などの非日本語による3行詩として「HAIKU」と称される世界にも広がっています。
毎年,募集がある「伊藤園おーいお茶俳句大賞」は,平成26年は過去最高の176万句の応募があったそうで,その頂点になった俳句が8歳のこどもさんの句「りょうはしに ぶらさがりたい 三日月だ」でした。
また,ノーベル文学賞を受賞された川端康成先生は,ストックホルムで行われた受賞記念講演で「美しい日本の私」と題して話され,「春は花 夏ほととぎす秋は月 冬雪さえて冷(すず)しかりけり」という道元禅師の歌を冒頭にあげ,日本人の美意識を世界に発信された名講演であったことは有名です。
俳句において「花鳥風月」を諷詠することは,人間を自然とのかかわりにおける存在として認識させてくれるとともに,自然と対話することが人間にとっていかに心のよりどころとなることを,あらためて紹介したいと思います。
芭蕉の「おくのほそ道」は,まさに「花鳥風月」の旅でした。元禄2年(1689年),46歳の芭蕉は「有り明けの月は淡い光ながらも遠くかすかに富士を,近くは上野・谷中の花の梢を眺めつつ,再び見ることが叶うものかと思いつつも松島の月も心に掛かりて」として随伴の曾良のふたり,江戸をあとにしました。
行く春や 鳥啼き魚の 目は泪
深川の旅立ちに矢立のはじめとして詠んだ句です。杜甫の詩 「春望」の一節,「時に感じては花にも涙をそそぎ,別れを恨んでは鳥にも心を驚かす」を引用した離別の泪の句で始まりました。
世の人の 見付けぬ花や 軒の栗
白河の関を越え,みちのくに入った芭蕉は須賀川の等窮宅を訪ね,数日間滞在しました。
目立たない栗の花がこの庵の軒に咲いているが,このゆかしい風情が庵主のわび住まいに誠にふさわしいものと思われいっそう心ひかれます。栗という字は西に木と書き,西方浄土にちなむ木です。世の人はこの花のよさを知らないけれども,それを愛でる宿の主の人柄を称賛したのです。栗の花は,特有の匂いを放つ緑白色の長い房状の花です。
石山の 石より白し 秋の風
石川県小松の那谷寺を訪れた芭蕉はその景色の美しさに感激しました。
那谷寺の岩山は白く枯れた感じがします。秋の風に色を着ければ白,この地の奇岩は殊に白いのです。
名月や 北国日和 定なき
芭蕉が敦賀に泊まったのは8月14日。「明日の十五夜の天気は」と宿の主人に訊ねると「変わりやすいのが北陸路の常で,明日の天気はわかりません」との答えでした。次の15日は敦賀の名月を楽しみにしていたというのに主の言葉どおり雨。なるほど,北国の天気は変わりやすいものだと残念がる芭蕉の顔が浮かびます。
「おくのほそ道」は全行程約2400キロ,約150日間の行程。芭蕉と曾良の二人,わずか50余句に織り込まれた「花鳥風月」を愛でつつの旅でした。
正岡子規の弟子であった高浜虚子は,夏目漱石の「吾輩は猫である」「坊っちゃん」などの小説の寄稿を受け俳句文芸誌「ホトトギス」を飛躍的に発展させました。
彼は,俳句を「客観写生」「花鳥諷詠」の詩であるという理念を掲げています。
花鳥と共におり,風月と共に居る,これが人間の一面の姿でもあります。俳句というものは花鳥諷詠の文学であります。これは我国にひとり存在するところの特異な文学であります。花鳥諷詠の文学(詩)が存在しているということは,我が国民の誇りとすべきものであります。
そして,俳句は「極楽の文学」になるという事も言っています。
「俳句は花鳥諷詠の文学であるから勢ひ極楽の文学になる。如何に窮乏の生活に居ても如何に病苦に悩んでゐても,一度心を花鳥風月に寄する事によつてその生活苦を忘れ,仮令一瞬時と雖も極楽の境に心を置く事が出来る。俳句は極楽の文芸であるといふ所以である。」
(『俳句への道』)
高浜虚子の「花鳥風月」の句を紹介します。
咲き満ちて こぼるゝ花も なかりけり
大きな桜の樹木の枝に,その枝が見えないほど咲き満ちた花。風のない満開の桜は,やがて春風が吹いて,見事な花吹雪へと時は過ぎていきます。
ゆるやかに 水鳥すすむ 岸の松
ゆっくりと岸辺の松の木にむかって水鳥が進んでいます。水面に浮かぶ水鳥と水面に映える松,そして水面に広がる波紋の情景のコントラストが見事です。
春風や 闘志抱きて 丘に立つ
大正2年俳壇に復帰した際に詠んだ句。俳句のスタイルで相容れない同門の河東碧梧桐への対抗意識が込められているといわれています。
暖かく吹き抜ける春風の季節の今,静かな深い闘志を胸にいだいて丘に立っています。
はなやぎて 月の面に かかる雲
月が美しく光り輝いています。雲が月にかかっていますが,それさえも華やいで見えます。
春にただ花といえば。桜の花ですが,これは春の花を代表しているからです。
花の笑み,花に紐解く,花の鏡,花の唇,花の形見,花筏,花篝,花盗人,など花の季語は多彩で,心奪わる印象的な言葉があります。
花の季語はたくさんあり,それぞれの意味や季感がちがっています。
しばらくは 花の上なる 月夜かな 松尾芭蕉
鳥の季語も,たくさんあります。
春は鶯・山鳥・雲雀・岩燕・鳥合
夏は四十雀・郭公・仏法僧・白鷺・鵜飼
秋は百舌鳥・啄木鳥・椋鳥・雁・渡り鳥
冬は鴨・都鳥・木菟・笹鳴・冬鴎
新年は丹頂・初声・初雀・初鴉・初鶏
無季はカナリヤ・孔雀・鸚鵡・鳩・鳥籠
小林一茶の「花鳥風月」の俳句を紹介します。
山の月 花盗人を てらし給ふ
「八番日記」所収。一茶57歳の作。花盗人とは桜の美しさに惹かれて枝を折り盗むことで,花泥棒と呼ばないところが風流です。月は誰でもどんな境遇にある人でも平等に照らしてくれるという一茶の美しい想いを感じることができます。
平安時代の歌人であった藤原公任に次の和歌があります。
「われが名は 花ぬす人と たてばたて ただ一枝は 折りてかへらむ」
うつくしや 昼の雲雀の 鳴し空
うつくしや 雲雀の鳴きし 迹の空
2句とも文化9年(1812年),一茶50歳の作です。天空の一点にとどまって囀る雲雀の姿や雲雀が空から下りてしまってもどこまでも深く澄み渡る空の広がりを小さな雲雀を使って巧みに詠んでいます。
春風や 牛に引かれて 善光寺
牛に引かれて善光寺参りとは,人に連れられて偶然にある場所に導かれるということわざの意味ですが,仏さまが牛に姿を変えて,信仰心のない強欲な老婆を寺に導き,仏さまの慈悲に触れて自分の行いを改めたという逸話があります。
涼風の 曲がりくねって 来たりけり
裏長屋の奥のわが家には,涼風も曲がりくねって,ようやくたどり着きます。自分の貧しい境遇をさらりと風刺しています。
秋風に あなた任の 小蝶哉
あなた任せのあなたとは,阿弥陀如来のことで,仏さまにまかせるほかないという意味です。
一茶といえば蠅や雀の俳句が有名ですが,蝶の句もたくさんあります。
有明や浅間の霧が膳(ぜん)を這(は)ふ
夜が明けても,まだ空に月が残っています。早立ちのために食膳につくと,浅間山の方から霧が流れてきて膳のあたりを這っています。
一茶にとっての「花鳥風月」は美しい自然でなく,まさに生活であり,苦難の人生そのものでした。しかし自然との対話による彼の心は清らかです。
青春は未来への希望と不安の中で迷うことばかりですね。
そんな時は図書館で好きな本を開きながら,ほんのすこしリラックスをしてはいかがでしょうか?
そして四季折々の季節を感じながら,「花鳥風月」に思いを馳せてオリジナルな和歌や俳句を作ってみませんか?
あなた自身の世界に,おもいがけない波紋や風紋が広がって,ちょっぴりしあわせな気持ちになると思います。
青春は 自分探しの 迷い道 本を開けば 春の風吹く