フランス芸術と歴史の融合 無伴奏ソナタ5番にみるイザイの生きた時代
私の大好きなヴァイオリニスト&作曲家、Eugène Ysaÿe ウジューヌ・イザイ。
パリ音楽院のマスター入試や卒業試験など、
ここぞという大事な試験やコンサートで、彼の作品を演奏してきました。
イザイの無伴奏ヴァイオリンソナタ5番を軸に、
彼の音楽家としての在り方、そして彼が生きた時代について触れ、イザイの魅力をお伝えしたいと思います。
| 大ヴァイオリニスト イザイ|
今日における最も完璧なヴァイオリンの名人なだけなく、芸術家という定義における全ての意味合いを兼ね備えた偉大な芸術家
と称賛されたイザイ。彼なしでは19世紀後半~20世紀のフランスヴァイオリン界の発展はなかったといっても過言ではありません。
1858年にベルギーのリエージュに生まれたイザイは、
ヴュータン、ヴィエニャフスキという現代のヴァイオリンスタイルの基盤を作った2人の大ヴァイオリニストに師事し、ベートーベンの行った音楽改革と共に生まれたフランコベルギー派の伝統を引き継ぎました。
ヨーロッパだけではなく、ロシアやアメリカなど世界中をツアーで回る時代を代表する大ヴァイオリニストの演奏活動の拠点となったのは、フランスでした。
ベルリンフィルの前身のオーケストラで若くしてコンサートマスターを務めた後、25歳のイザイは演奏活動の拠点をパリに移します。
そしてこのパリでの様々な作曲家、音楽家との交流がイザイの人生に大きな影響を与えました。
イザイは、バッハやベートーヴェンといった過去の作曲家そして歴史や伝統への尊重を常に持っていて、それが彼の演奏活動や創作活動にも反映されています。そして同等に、同じ時代に生きた芸術家たちとの横の繋がりや交流を大切にしたことも、彼の音楽家人生を象る重要な要素です。
例えば、
⚫︎様々な室内楽パートナーとの活動(プーニョやルビンシュタインなど複数のピアニストとのデュオで行ったコンサートツアーやシリーズ)
⚫︎イザイカルテットの活動
⚫︎師匠ヴュータンやヴィエニャフスキ、そして クリックボーンなどのイザイの弟子とのつながり
⚫︎作曲家とのコラボレーション
⚫︎サロンでの芸術家との交流
が主にそれを表しています。
そして、イザイに献呈される形で、今日私たちヴァイオリニストにとって重要なレパートリーとなっている名曲が生み出されてきました。
⚫︎フランク ヴァイオリンソナタ
⚫︎ショーソン 詩曲
⚫︎ショーソン ヴァイオリンとピアノと弦楽四重奏のための協奏曲
⚫︎ルクー ヴァイオリンソナタ
⚫︎ドビュッシー 弦楽四重奏
etc.......
もしイザイという人が存在しなかったらこれらの曲が生まれていなかったと思うと、
フランスのヴァイオリン界はイザイなしには、こんなにも発展しなかったのではないでしょうか。
同時代の芸術家たちとの交流を大切にした、イザイの才能への敬意や友情から書かれたこれらのヴァイオリン曲は、イザイがどれだけフランス音楽の発展に大きな影響を及ぼした存在かを示しています。
|イザイの生きた時代|
1858年に生まれ1931年に亡くなったたイザイですが、その頃のフランスの音楽はどのような流れにあったのでしょうか。
19世紀半ば頃まで、ヨーロッパの純粋音楽はドイツが絶対!というよう風潮にありました。交響曲や室内楽曲といった純粋音楽が聴衆に浸透していたドイツ圏に対して、フランスではオペラや劇音楽、そして声楽曲に脚光が傾いていました。
歌詞や演劇要素の入ったこれらのジャンルの作品は、わかりやすく大衆受けしやすいため盛んでしたが、
フランスの作曲家の書いた純粋音楽が、一般聴衆が足を運ぶコンサートのプログラムに並ぶことがほとんどなかったのです。
そんな中、フランス人の作曲家であるベルリオーズが、純粋音楽に文学的な要素を混ぜた標題音楽“幻想交響曲“を書き、フランスロマン派の代表作となった作品はのちの作曲家たちに大きな影響を与えました。
しかし、聴衆からの評価は得られず、依然としてフランスの音楽は、まだ世間には浸透しませんでした。
そんな中、転機が訪れます。
普仏戦争に負けたフランスが、国としてナショナリズムを掲げていた1871年に、フランスの作曲家たちが、自国の音楽が発展していかないフランス音楽界の現状を打破しようと、国民音楽協会という音楽団体を設立しました。
国民音楽協会は、“Ars gallica (フランスの芸術) “を標語に掲げて、その時代の存命のフランス国籍所有者に限られた、この団体の会員であった作曲家作品を披露していく場となりました。
フランス作品しか取り扱われることのない国民音楽協会のコンサート、これに聴衆が足を運び、当時のフランス作曲家たちの音楽(フランク、サン=サーンス、フォーレ、ドビュッシーetc...) が広まっていきます。
これが成功を収め、フランス音楽がどんどん発展していき、室内楽や交響曲などのフランスの純粋音楽も、一般のコンサートのプログラムに並ぶようになりました。
そこでイザイも頻繁にフランスの当時の作曲家たちの曲(フランク、ダンディ、フォーレ、サン=サーンス、ドビュッシーetc)を演奏し、交流を深めました。
その後19世紀後半、自然の模倣や情景描写にフォーカスを当てた印象派や、人間の心理や夢想、観念など目に見えないものを表現しようとする象徴派の画家や詩人が筆頭し始め、
フランス音楽もこれらの要素を取り入れたものが目立ってきます。これが、詩や絵画や文学といった他分野の芸術の繋がりによって、互いにインスピレーションを受けながら発展していったフランス音楽や芸術の大きな特徴の一つです。
例えば、象徴派の詩人マラルメの詩をもとに書いた牧神の午後への前奏曲や、神話や自然をテーマに用いたピアノ前奏曲集といった、ドビュッシーの音楽が詩的なカラーを持つことで有名ですね。
1883年にイザイはパリにやってきましたが、その頃のパリはモネやルノワールといった印象派絵画の流れから、マラルメやヴェルレーヌと行った象徴派の詩人が台頭していた時代でした。
なので、象徴派の詩というのはイザイにとってパリの生活を象る大切な要素でした。
独自の音楽の発展を掲げていた真っ最中のパリにて、新たな人生を始めたイザイ。
そんな中、このイザイというヴァイオリニストの存在は、様々な作曲家に大きな影響を与え、共にフランス音楽界を盛り上げいきました。
いま私たちが、フランス音楽といったら思い浮かべ演奏するような楽曲たちが生まれ発展してきた、激動の時代のパリを生きたのがイザイなのです。
|イザイ 無伴奏ソナタ5番|
それと同様に過去の作曲家への敬意がどのように彼の創作に影響したのかも注目すべき点です。
イザイはヴァイオリニストとして、特にバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータを自身のレパートリーとして大切にしていました。
【別記事】イザイとバッハ (こちらにイザイがどのようにバッハに関わってきたか詳しく触れています。合わせてこちらも参考にお読みいただけたら幸いです。)
彼はバッハの楽曲、ましては無伴奏のヴァイオリン曲なんかまだほとんど未知の世界だった当時のフランスのコンサートで、聴衆にバッハを広めていった先駆者のような存在です。彼のバッハ演奏は、徐々に時代を風靡していきました。
バッハというこの歴史の中の大作曲家、そして彼の大曲、無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータへの敬意から、イザイは6つの無伴奏ヴァイオリンソナタを創作をしました。
この作品には、イザイの色にアレンジされた、バッハのスタイルや旋律がいたるところに顔を見せています。
そして6つのそれぞれのソナタは、同時代に活躍した6人のヴァイオリニストに献呈されたことから、6人のそれぞれ異なる音楽的、技巧的特徴も曲中に反映されています。
つまり、イザイのソナタには、“バッハから得た影響“、“献呈された6人のヴァイオリニストの特徴“、“当時のフランス音楽界の流れ“が取り入れられており、
これらの様々な要素(歴史、敬意、影響、横のつながり、時代の風....)を融合させ、
バッハの時代からイザイの時代までの音楽、そしてヴァイオリンの発展をまとめた独創的な作品なのです。
ここでとりわけ面白いのは5番。私のお気に入りの一曲です。
なぜこの作品が面白いのかというと、
前述したバッハの影響に加え、”献呈者 マチュークリックボーンの影響” 、”ドビュッシー風のフランス芸術界の流れ、詩的要素” という2つの要素が色濃く出ていて、より独創的なカラーを持つ作品だからです。
この作品が献呈されたのは、マチュー・クリックボーンという人物。
クライスラーやエネスコなど、他のヴァイオリニストに比べるとほとんど知られていない人ですよね。
クリックボーンは、ベルギー人のヴァイオリニストで、イザイの愛弟子兼イザイカルテットの2nd ヴァイオリン奏者という、
この6人の中ではイザイと最も多くの時間を共にしたであろう、とても親しい間柄だった人です。
では、具体的に5番のソナタに反映されているクリックボーンの要素とは....?
|クリックボーンとヴァイオリンテクニック|
クリックボーンは、イザイがブリュッセル音楽院で教鞭をとり始めてから初めて "première prix" と言われる首席のような成績を収めた一番弟子であり、
この生徒のテクニックの高さについて、イザイはこのような言葉を残しています。
c’est un artiste ; très bon musicien ; grande et belle technique d’archet et de doigts ; bel avenir ; homme sérieux
左手も弓の扱いにおいても、素晴らしいテクニックを持ち合わせ、音楽性にも長けた、真面目で将来の有望できる芸術家です。
(2019 Marie Cornaz « À la redécouverte d'Eugène Ysaÿe »より)
その後、イザイによって創設され、ドビュッシーの弦楽四重奏などが献呈された、イザイカルテットのメンバーとして活動を共します。
弟子であったクリックボーンの演奏者としての技量を、イザイがどれだけ買っていたかがわかります。
クリックボーンは教育者としても活躍し、いくつかのヴァイオリンメソッドに関する教本やエチュードの本を出しています。
その中に « Les Maitre du violon » というクロイツェルやカイザーなどのヴァイオリン教本からいくつかのエチュードを抜粋し、ヴァイオリンの技術向上に必要な練習ツールをまとめたような本があります。
クリックボーンのこうした一面も、イザイはもちろん汲み取っていたのでしょう。
この5番のソナタには、フラジオレット、左手ピチカート、アルペジオ、重音など、小技のような様々な種類のテクニックが散りばめられており、クリックボーンのエチュード教本コレクションの中に出てくるパッセージに似たテクニックがたくさん使われています。
例えば、以下のいくつかのパッセージをご覧ください。
▼上段(青)イザイ 無伴奏ソナタ5番より 抜粋
下段(赤)クリックボーンの教本より 抜粋
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なんとなく、音型や使うテクニックが似ていませんか?
このソナタは、シーンが次々に移り変わっていくような彩鮮やかなキャラクターの登場が特徴的で、ほかの5つのソナタに比べてテクニックの多彩さが目立ちます。
ヴァイオリンという楽器の多様性を引き出すようなパッセージは、クリックボーンの鮮やかなテクニックや理念に共通し、5番のソナタに反映されたクリックボーンのもつ要素の一つと言えるでしょう。
クリックボーンの演奏者としての顔、教育者としての顔、そしてヴァイオリンテクニックの教育へ信念を、イザイの手を加えて散りばめたのです。
|フランス芸術界とイザイ|
そして、このソナタのもう一つの特徴は、当時のフランス芸術と詩的な影響です。
これは、イザイと親交の深かったドビュッシーからの影響が大きく表れています。
イザイとドビュッシーはショーソンの家で出会い、
まるで兄弟のように深い親交を持ちました。
マラルメやピエール•ルイスといった象徴主義の詩人・作家の作品を好み、ともによく書店に足を運んでいたようです。
のちに親交が断絶してしまうことがありながらも、その後もお互いの芸術面への尊敬は絶えず示し続け、インスピレーションを与え合いました。
ドビュッシーは異国の響きに常に興味を持ち、
ロシア音楽の発掘、そして万国博覧会で出会った東洋の音楽や芸術への興味を作品に取り入れました。そんな彼の新しい色彩や試みに感銘を受け、イザイは自身の作品にも取り入れました。
イザイのソナタ5番の中には完全5度、4度などの音程が多用されていますが、これはドビュッシーが多用した5音音階を連想させ、まるで教会の鐘の響きがする和声です。
▼イザイ ソナタ5番 第一楽章 “l’Aurore“ 冒頭
五度やオクターブの響きや、レーミーシー(re-mi-si)という五音音階で構成されたこの旋律が
ドビュッシーのピアノ曲、前奏曲集の “沈める寺” (La cathédrale engloutie) にどこか似ています。
この完全5度や完全4度という音程は、もともと教会音楽で正しい音程とされていたものであり、グレゴリオ聖歌にも多用されていた響きです。
ドビュッシーは、このような中世やカトリック教会を連想させる、教会旋法を使ったフレーズや和声を沢山取り入れました。
それが彼の特徴の一つであり、その作風は当時のフランスでは独創的であり、新しい風を常に吹かせていたのがドビュッシーなのです。
▼ ドビュッシー 前奏曲集 第一巻より “沈める寺“ 冒頭
▼ドビュッシー自身の演奏 “沈める寺“
|象徴派、印象派|
最後に、このソナタに反映された詩的要素とイザイの関わりについて。
1870年にフランスとベルギーで出現した象徴派ですが、イザイはその作品たちを好み、彼はこの象徴派の真っ盛りな時代の中を生きてきました。
それが1914年、第一次大戦中にヨーロッパを離れアメリカに滞在し戻ってきた頃には、
芸術や社会状況が変化し、アフリカなどの植民地の芸術要素を取り入れた新しいものや、ピカソの絵画が台頭していて、イザイのよく知る象徴派の動きが流行の第一線ではなくなっていました。
そんな時代の変化に戸惑いを感じていたようですが、
イザイは、彼の生きた時代の象徴とも言える、そしてドビュッシーの影響を色濃く表す、この詩的要素をこのソナタに反映させました。
第一楽章に“l‘Aurore (日の出、曙光)“という表題がついており、言葉のイメージを音楽にするというこの象徴派の詩的要素が現れています。
また、この自然の要素を音のイメージで表すことが、どこか印象派の絵画のような表情も持っており、
ジャポニズムに影響を受けたように“自然の要素を芸術に取り入れて、フランス芸術の発展を目指す”ことが掲げられていた19世紀後半のフランス芸術界の動きを連想させます。
日の出という、自然を象徴にした言葉を表す詩的な影響と、その音から印象派絵画的な情景が脳裏に広がるような、2つのイメージが同時に浮かぶ曲です。
また第二楽章には “Danse Rustique(田舎の踊り) “という題がついています。
この2楽章、出だしはとてもリズミカルなダンスですが、曲の中にちょこちょこと1楽章に出てきたようなドビュッシー的な旋律や響きが顔を出し、様々な色彩のパレットを持つのが素敵な楽章です。
この詩的な自然のイメージという点で共通する曲で、
ドビュッシーの管弦楽作品に“夜想曲(ノクターン)“という3曲で構成された作品があり、
それぞれに “雲” “祭り” “シレーヌ” という題がついています。
もともとこれに、ヴァイオリンソロパートを加えてイザイに献呈する構想があったそうですが、結局のところ管弦楽のみになりました。
イザイのソナタ5番は、このドビュッシーのノクターンの題や詩的な雰囲気にどこか似ていて、イザイがドビュッシーの音楽性からインスピレーションを得たことが伝わります。
イザイのヴァイオリンソナタ5番、どんな魅力が詰まった曲なのか、少し興味が湧いてきましたか?
ここまで触れてきた要素をまとめた私の演奏を動画にしたので、イザイの世界に少しでも浸っていただけたら幸いです。
|変容の時代を生きたイザイ|
ベートーヴェンがもたらした様々な音楽の革新的な試みに、ヨーロッパ中が沸いていた19世紀前半。
イザイは、現代のヴァイオリン奏法の基盤を作り、ベートーベンと共に現代使われている弓の形を完成させたヴュータンに習い、イザイの音楽人生は、このベートーヴェンの流れを受け継ぐところから始まりました。
そんな流れを受け継いだイザイですが、
彼の人生の晩年には、ストラヴィンスキーやシェーンベルクといった前衛的な音楽が登場し、イザイは時代の移り変わりを身をもって味わいました。
ベルエポックが終わりを迎えた1914年以後、
今の時代にいると、まるで言葉を話せない外国人のような気分になる(1989 Maxime Benoît-Jeannin « Eugène Ysaye »より)
と語っています。
めまぐるしい発展経過にあったフランス芸術界を生きながらも、その時その時の時代の流れと、自身の独創性を常に融合させ、唯一無二の芸術家としての存在を築いた人です。
だからこそ、その変容や発展の歴史を一つの作品に残したいという思いが人一倍強く、6つの無伴奏ヴァイオリンソナタが書かれたのでしょう。
もし今の時代にイザイが生きていたら、
現代の芸術界そして音楽界のカラーを
どのように取り入れるのでしょうか。
バッハ、フランス芸術、前衛、そしてこの現代の要素が加わったイザイの独創作品を是非見てみたいな、と興味が膨らみますね。
私がイザイの音楽に惹かれる理由、伝わりましたでしょうか?
高いテクニックが要求される難曲ですが、
ただ超絶技巧性を見せることが目的となってしまうのではなく、速いパッセージや細かい音価の中にも、イザイの人生が詰まったような、深い音楽性が込められています。
勉強するたび、演奏するたびに、
そこに隠されたイザイの計り知れないアイデアや想いを発掘できるこの作品。
そんなイザイの無伴奏ソナタに、これからもずっと大切に関わっていけたらと思います。