花と月をこよなく愛した歌人の漂白・西行を辿る
https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/09_vol_124/feature01.html 【世を捨て吉野に庵を結び花を詠む】より
23歳で栄達の道も妻子も捨て、世俗と決別して出家した西行。吉野の山に隠棲し、高野山に庵を結び、生涯の多くを漂泊の旅に費やした。
花を月を歌に詠み、奔放で自由、そして率直な心象の吐露は、800余年の時代を超えていまも現代人の心に響く。旅と歌に生きた西行の足跡を吉野、高野山に辿った。
上の千本から見た北部の眺め。わずかに吉野川が見え、その向こうの山並みは高取山。山を越えると明日香である。
春とはいえ吉野山に分け入ると、まだ山の冷気が身に沁みる。山道は寂漠として道行く人の姿もない。この道を800年以上前に西行も辿ったであろう。黒染めの衣に笈[おい]を背負い、人跡まれな残雪の吉野山を行く姿が「西行物語絵巻」に描かれている。西行は桜を訪ね、「花に心をかけて詠ぜんがため」に、山中に草庵を結び住んだ。
吉野山花の散りにし木の下に とめし心はわれを待つらむ
吉野は桜の歌枕、そして桜といえば西行。とりわけ吉野の桜を愛しみ、吉野の桜を詠んだ歌は60首余もある。和歌における吉野の桜は西行の発見だといわれるほど、西行と吉野の結縁は強い。ただ、歌心は内省的で、咲く花の美しさを酔狂に賛美するのでなく、我が身の葛藤と複雑な心象を映している。
俗名は佐藤義清[のりきよ]。僧名を円位[えんい]、西行は西方浄土に因む法号である。藤原鎌足に連なる家系で奥州藤原家とは縁戚である。現在の和歌山県紀ノ川沿いの田仲庄の領主の家に生まれ、18歳で左兵衛尉[さひょうえのじょう]となり、鳥羽院の北面の武士として仕えた。鳥羽院の御所の北面を警護する役職だが、北面の武士は武勇はもちろんのこと、学芸に優れ、眉目秀麗であることがなによりも条件とされた。平清盛は北面の武士の同期であった。
ところが、官位も妻子も捨てて、23歳の年に突然出家する。理由は、親友の不意の死に無常を悟ったとか、皇位をめぐる政争への失望感、鳥羽天皇の中宮待賢門院[たいけんもんいん]との失恋が動機ではと種々の説があるが、西行は自分について何も書き残していないために、どれも推測の域を出ない。それゆえに謎めいているが、遁世して都の郊外に庵を結んだ後に向かったのが吉野である。吉野山は、奈良時代に役行者[えんのぎょうじゃ](役小角[えんのおづぬ])が開山した山岳信仰の霊場である。その役行者が蔵王権現の姿を桜の樹で彫り、本尊として以来、桜は吉野の神木となっている。
吉野の峰々は高くはないが、修験道場であるために谷は深く、険しい。尾根はのたうつ巨大な龍の背のようにはるか大峰山へと続いている。現在では尾根道は舗装され、狭い道路の両側に「吉野造り」と呼ばれる、懸崖にせりだして建てられた独特の家々が肩を寄せ合うように連なっている。尾根を登って行く順に、下の千本、中の千本、上の千本、さらにその先が奥の千本と呼ばれ、桜は山裾から順に開花していく。満開の頃は壮観で、一目千本と形容されるが、実際は10万本以上もあり、まるで雲と見まがうほどである。
仁王門、蔵王堂を過ぎ、宿坊の続く坂道をさらに登って行くと吉野水分[みまくり]神社、金峯[きんぷ]神社へと至る。人が訪れるのはふつうこの辺りまでで、西行庵は奥の千本からさらに奥へと進んでいった先の、沢からせり上がった急な斜面のわずかな平地にぽつりと建っている。三畳ほどの広さの粗末な寓居である。辺りは森閑として、聞こえるのは樹々の枝を過ぎる風の音と、野鳥の涼やかな声だけだ。西行は3年をこの庵で暮らし、山林流浪の行として、自然に身を晒し、経文を唱えるように歌を詠んだ。
金峯神社からさらに30分ほど山道を登った、奥の千本の急な斜面のわずかな平地に西行庵はある。
https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/09_vol_124/feature02.html 【月を友に自らと向き合った高野山】より
西行の足跡は高野山にもある。28歳の年、半僧半俗の平安の歌人、能因の詠んだ歌枕を訪ねて陸奥に赴き、その足で一族の祖である奥州平泉に藤原氏を訪れた。その長旅から帰って西行は高野山に草庵を結んで移り住み、以来、30余年の長きに及んで高野山で過ごしている。
いうまでもなく、高野山は弘法大師、空海が開いた真言密教の聖地だ。標高800mほどの山上に築かれた仏教都市である。そびえ立つ朱色の大門をくぐり、東の奥の院までのおよそ4kmの道の周りに、100を超える寺院が建ち並んでいる。大門からほど近くにある「壇上伽藍」は高野山の中心で、根本大塔の朱色の多宝塔がそびえ、金堂、御影堂、大会堂、不動堂、愛染堂などの諸堂が点在する境内は厳かな空気が張りつめ、自ずと背筋が伸びる。
寺伝では、西行が修行を行ったという「三昧堂[さんまいどう]」が境内の一隅にある。その御堂の前には西行が植えたと伝わる、何代目かの西行桜が春には花を咲かせる。三昧とは心を一点に集中させて修行することだが、この三昧堂については異論も多い。随筆家の白洲正子氏は、西行が高野山に入ったのは、自己と向き合うためで、高野山の中心であるような「晴れがましい場所を庵室に選んだとは信じられない」といい、むしろ壇上伽藍から離れた「桜池院[ようちいん]」あたりが西行の美意識にふさわしいだろうという。
官位も名声も、そして世も捨てた西行である。人生の無常を内に秘め、すべてを虚妄と断じてひたすら自己と向き合い、ものの哀れを知る心を探ろうとした。評論家の小林秀雄氏は、西行の出家は厭世とか遁世でなく「自ら進んで世俗に対する嘲笑と内に湧き上がる希望の飾り気のない表現」だと指摘する。歌もまた、技巧に走らず、形式に縛られない。放胆で自在で、言葉はむき出しの素直さだ。だが的確に本質をとらえている。出家しても特定の宗派に属さず、法師を身分としたこともやはり西行の美意識ともいえる。
西行はひたすら仏法のみに身を投じたわけではなく、清廉の人であったわけでもない。頑健な体格と優れた武勇を備え、荒ぶる魂を自制できず多感な煩悩に苦しんだ。
いつの間に長き眠りの夢さめて 驚くことのあらんとすらむ
いつになれば長い迷いから覚めて、万事に不動の心を持つことができるのだろうと思い悩み、迷いや心の弱さを高野山の修行を通して悟りに至ろうとした。
しかし、高野山に腰を据えてはいたが、折々に京へ歌会などに出かけ、西国や四国にも旅をしている。そうした風雅を解す数寄人としての一面が世俗的な西行という人間の魅力といえる。
そんな西行が高野山で友としたのが「月」である。
深き山に心の月し澄みぬれば 鏡に四方のさとりをぞ見る
世の中の憂きを知らで澄む月の 影は我が身の心地こそすれ
群青色の夜空に映える月を仰ぎ、山上の庵で過ごす西行の寂寞たる思いが伝わってくる。西行には月は我が身の心の内を映し出す鏡であったのだろう。
https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/09_vol_124/feature03.html 【西行を慕い、妻子が暮らした天野の里】より
高野山縁起は、開山にまつわる1200年前の話を伝え残している。伽藍を建立する地を探して弘法大師が山中をさまよっていると、2匹の犬を連れた異様な風体の狩人と出会い、山の王のもとに導かれ、その王から拝領した広大な地が高野山だという。狩人は「高野ノ明神(狩場[かりば]明神)」といい、王は「丹生[にう]明神」であった。
丹生明神を祀る総社が、高野山麓の和歌山県の天野に鎮座する「丹生都比売[にうつひめ]神社」だ。丹生は「朱」を意味する。この縁起は、丹生(水銀)を採掘していたと思われる天野に住む一族の支援を受けて弘法大師が高野山を開山したと読み解くことができる。四方を山に囲われた小盆地の天野は、白洲正子氏が「天の一廓に開けた夢の園」と形容した隠れ里として知られている。この天野の里に、西行にゆかりの深い女性たちが都から移り住んでいた。
紀ノ川流域の九度山から高野山へは、町石[ちょういし]道と呼ばれる参詣道(旧高野街道)を辿るが、高野山が女人禁制の頃は高野山の麓、参詣道の途中の天野まで女性の立ち入りが許された。待賢門院に仕えた中納言の局も、高野山の西行を慕ってここに居を構えた。そして西行出家後、家に残した妻は西行が高野山にいることを知り、尼となって天野の里へと移ってきた。養女に出されていた娘も成人して出家し、京から母の元へと移ってきた。母娘は天野で睦まじく暮らしこの地で生涯を終えたと伝わる。高野山と都とを頻繁に行き来していた西行だから、道中、妻子の元に立ち寄り、幾度となく家族団らんの時を過ごしたにちがいない。
雑木林のなかに、西行妻娘の墓とされる小さな石塔が、花を供されて仲良く並んで立っている。昔から里人が誰ともなく花を供え、手を合わせるのだそうだ。西行堂はその石塔の近くにあるが、後年、西行を慕って里人が建てたものを再建したものである。西行が耕作したと伝えられる「西行田」(狭間田)も今では痕跡もない。
30余年住んだ高野山を離れた西行はさらに漂泊する。伊勢に庵を結び、2度目の奥州への長旅に出た。その間に平清盛は没し、都の政情はますます混乱を極め、人心は荒廃していった。西行は変わらず我が身と向き合い、人の世の無常とあわれに悟りを見い出そうと自嘲しつつ山林流浪の行をし、歌を詠み続けた。
京都・栂尾の明恵[みょうえ]上人の伝記は、歌に託す西行の思いをこう記している。「一首読み出でては一体の仏像を造る思ひをなし、一句を思ひ続けては秘密の真言を唱うるに同じ、我此の歌によりて法を得ることにあり」と。
西行はその晩年を河内の国、現在の大阪府南河内郡河南町弘川にある龍池山弘川寺で過ごしている。修験道の先駆者、役行者が開いた寺院で、空海ゆかりの名刹である。この寺で西行は、73歳で長い漂泊の生涯を閉じた。桜をこよなく愛した西行の臨終にふさわしい、桜を詠んだ有名な歌がある。
願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ
西行が詠歌で願ったとおり、旧暦2月16日に入寂した。墓のある弘川寺は、春には境内の桜が華麗に花開く。生涯に詠んだ歌は2000首を超え、現在もなお多くの日本人の美意識の琴線をふるわせている。