内的自己対話-川の畔のささめごと
https://ameblo.jp/kmomoji1010/page-4.html 【写真と俳句】 より
今年の十月一日から、ブログの記事に写真を一枚(はじめの頃は、ときには数枚のこともあったし、栗鼠の写真の時は、十数枚一挙に投稿したこともあったが)貼り付けるようにしてきた。十一月後半からは仕事が忙しくなって、写真を撮りに出かけることもままならず、素人の自分自身にさえあまりいいできとは思えない写真を掲載したこともあった。
十月は毎日撮り続けていた。その間に、ものを見る目が少し変わってきたのに気づいた。それまでなんでもないと思っていた日常の風景やそれを構成している諸部分に注意がいくようになった。ここからこう撮れば面白いな、とか、この角度からこう景色を切り取れば綺麗だ、とか、思いながら、周りを見るようになった。ある瞬間の光と影や彩りにも敏感になった。
とはいえ、そこは知識も腕もない素人の悲しいところ、思い通りには撮れない。ほとんどの場合、あとでPCで拡大して見て、がっかりする。
人の写真は本当に難しい。相手に無断で勝手に撮るわけにはいかない場合も多いという、法的な制約という問題は措くとして、その人の表情を生き生きと、あるいはその人の人柄を伝えるような写真を撮ることができたのは、これまで数百枚撮って、まぐれのように撮れていた数枚くらいだろうか。
ただ、カメラをいつも携帯し、写真を撮り続けているうちに、当たり前の日常生活の中には、こんなにも発見されることを待っている、まだ見えていない細部が包蔵されていることが、その豊かさや多様さや意外さがわかっってきた。それらの発見に驚かされ、その驚きがさらに写真を撮りたい、上達したいという気持ちにさせる。
そんなことを思っていると、写真と俳句には共通点があることに気づいた。その共通点は、前者はカメラという機械を使って、後者は言葉を組み合わせることによって、どちらも風景の一部をある観点から瞬時に切り取って見せるところにある。もちろん、写真も俳句もこの共通点にその本質が還元されるわけではない。しかし、少なくとも、両者の実践が風景への私たちの眼差しをより注意深く細やかにし、風景をある瞬間において捉えようとする志向において重なるとは言えるのではないだろうか。
https://ameblo.jp/kmomoji1010/page-2.html 【フランス語の俳句】 より
学生たちが俳句についての展示会を来年二月上旬の大学図書館主催「日本文化週間」のために準備していることは、十二月七日の記事で話題にした。彼らが作成するパネルの原稿の締め切りが一月五日である。提出前に私がその内容を確認し、場合によっては修正し、その上で原稿を図書館の担当者に送ることになっている。十二月半ばに学期末試験が終わってから、そして本格的にはおそらくクリスマスが終わってから、原稿作成にとりかかったのであろう。数日前から原稿が届き始めている。仕上がりにはばらつきがあるが、まったく授業外のプログラムのために休暇中に時間を割いてよくやってくれていると思う。
今回の展示では、日本の俳諧史・俳句史の解説と代表的な俳人とその何句かの紹介とに内容を限定しているが、フランスにおけるフランス語の「俳句」(« haïku » と綴る)について調べてみるのも、別のテーマとして面白そうである。
その手掛かりとなりそうな一冊が、Le Livre de Poche から二〇一〇年に刊行された L’Art du haïku. Pouer une philosophie de l’instant という本である(初版は前年に別の出版社から刊行されている)。著者名として Bashô, Issa, Shiki とあり、翻訳者と解説の筆者として Vincent Brochard という名前が、序文の筆者として Pascale Senk という名前が、それぞれ見開き第一頁に掲げてある。
全部で二四十頁ほどの小著ではあるが、なかなか興味深い構成になっている。まず、全体の六分の一強を占める序文の中で、心理学者で仏語俳句の実践者である筆者が、自らの俳句との出会いとその実践について語り、他のフランス人俳人たちの紹介と仏語俳句を多数引用しつつ、俳句の要諦を示そうとしている。この序文の補遺として、フランス俳句協会(現在では、フランス語圏俳句協会 Association Francophone de Haïku と改称されている)などいくつかの仏語俳句サークルのアドレス、俳句に関する若干の仏語サイトと多数の英語サイトのURLが挙げてある。それに続く百ページ余りの主要部分は、俳句の翻訳者である筆者による俳諧と俳句についての解説である。その後ろに芭蕉、一茶、子規を主にした、六十頁余りの俳句集が置かれ、さらにこの三俳人の短い伝記的紹介が続き、用語集と文献表によって締め括られている。
本書の特徴は、序文の筆者も翻訳・解説者も、俳句の実践を一つの生きる技として捉えているところにある。明日の記事では、序文から少し引用しつつ、その内容の一部を紹介しよう。
https://ameblo.jp/kmomoji1010/ 【生きる技としての俳句】 より
フランス語であれ、英語であれ、日本語以外の言語で作られた短詩を、それがいくら俳句の音数律や句切れや季語などを尊重したものであっても、俳句として認めるかどうかは、意見の別れるところだろう。おそらく大半の日本人は、外国人が日本語以外の言語で俳句を真似て作った短詩が「俳句」と呼ばれることに抵抗を覚えるのではないだろうか。
外国語による俳句的短詩の実践を「俳句」と呼ぶことは、外国語による解説書を読んだだけで自己流で座禅を組むことを「禅」と呼ぶことと同じほど、その本質から遠ざかっている、という批判もあるだろう。
しかし、ここではそういう文学的経験の正当性に関する議論には立ち入らない。ただ、俳句あるいは俳諧の何がそれほどまでに外国人を惹きつけるのかだけを、昨日紹介した本に拠って、フランスの場合に限って、瞥見しておきたい。
まず、同書が出版物としてどのジャンルに属しているかが一つの手がかりになる。同書は、Le Livre de Poche の中の « spiritualités » というカテゴリーの中に括られている。つまり、文芸書としてよりも、広い意味での宗教的・精神的体験に関する書籍の一つとして出版されているのである。フランス語での俳句に関する出版物は、優に数十冊はあり、その大半は文芸書として出版されているが、その場合でも、俳句の精神を説明するのに禅をはじめとして宗教的要素に重きを置くのが一般的傾向である。
つまり、俳句の中に、自分の生活を新しい眼差しで見直すことを可能にしてくれるものが、さらには、生き方を変えてくれるものが見出だせるというところが強調されることが多い。あるいは、俳句の実作によって自分の生活が変わったことが実際の経験として語られ、その中でも文学的経験のいわば精神的効用が特に重視されている。
俳句の短さがその実作を誰の手にも届くところにあるものにしていることも俳句の魅力の大きな部分を占めていることは、日本語の場合と変わらない。もちろん、それは、俳句が簡単に作れるということを意味しないことは、少しでも自分で実践してみればわかることだ。それでも、俳句のサークルなどに属して、自作を合評してもらうことで、様々なことに気づかされ、句作に上達し、それが自分の普段の暮らし方まで変えていくことがある。そのような例が同書の序文にもいくつか紹介されている。
フランス語による haïku の実作者たちの多くは、最終的に日本語で俳句を作ることを目指しているわけではない。芭蕉や蕪村や子規などに学びつつ、あくまでフランス語の中で、俳句的精神あるいは俳諧的精神を実践しようとしている。その実践の内実がどのような言葉で分節化されているかを示している一例として、同書の序文の小見出しを順に列挙してみよう。
L’esprit haïku : une invitation à plus de vie
La voie des haïkistes
Saisir les instants précieux
S’ouvrir pleinement au réel
Exprimer son monde intérieur
Faire taire l’intellect
Se détacher
Aimer le trivial
Vivre dans la simplicité
S’incliner devant la nature
Accepter l’impermanence
Épurer
Atteindre l’équilibre
Partager
最後の節 « partager » で、筆者は、「分かち合う」ということは、単にある同好会の合評の席で互いの作品を批評し合うという次元にとどまるものではないと考えている。
互いの俳句に耳を傾けることで、言葉を聴くことそのことが訓練され、言葉を包む沈黙の豊かさにより注意深く敏感になる。言葉がそこから生まれて来る黙せる自然を共に前にして、より謙虚になる。自分の中の無駄なものを削ぎ落とそうとする。ものへの執着から離れようとする。そして、その分だけ、より生き生きと各瞬間を生きられるようになる。
そのような俳句的精神に基づいた社会を筆者は夢見ている。私もその夢を共有したいと思う。