問いと、写真と、アートと。
こんにちは。TORUMIRU編集長のさっとんこと、龍輪諭です。前回の記事では簡単なご挨拶をさせていただきました。少し堅苦しい感じになってしまったので、ヒトミカイト(仁美、海人)の二人の空気感にあわせて、もう少し優しい感じにしていきたいと思っています。
さて、初回のテーマは『問いと、写真と、アートと。』という、なんとも抽象的なテーマについて語りました。いきなり堅苦しいテーマになってしまったのですが、このなんとも伝わらない「マニアックな感じ」が良いよね、ということでこのテーマに決まりました。
このテーマに決まったのは経緯がありまして、それはカイトくんがInstagramにて「写真とは問いだ。」というようなことを書いていたことに、私が気になったからでした。同じようなタイミングで私自身も「アートには問いがあったほうがいい(好き)」という考えが生まれていたこともあって、この感覚を擦り合わせたいと思ったのです。「問う」ことについて一緒に考えてみようと。
そして、この「問う」という行為はこのウェブマガジンの一つの大きなテーマになり得るのではないかと感じたのです。
私たちは生きていく中で、大なり小なり目の前の現実を観ては「疑問を持つ」ということをしています。その疑問にぶつかったときに、答えが出る簡単な疑問であればいいのですが、人生はそんなにシンプルにはいきません。
たとえば「愛とは何なのか?」「理想の教育とは?」「アートは必要なのか?」など。このような疑問に向き合うことに、どれほどの意味があるか分かりませんが、私たちはこのような答えのない疑問に向き合うことが好きな人種のようです。
愛というものに答えはないのかもしれないけど、自分なりに考えて、自分なりに選択して生きていくことはできる。その選択は楽しいものであるし、考えることも有意義なものである。
そして、なによりもそのそれぞれの考えや感覚を擦り合わせること自体が人間が人間たる理由な気がしていて、答えのない疑問を擦り合わせ、照らし合わせ、お互いの理解を深めていく行為に意味があるのではないかと感じるのです。
ちょっと個人的な興味と関連するお話をさせていただきます。私は表現活動をしていて、絵を描いているのですが、過去のアートの歴史を遡ってみても、アートには「問い」が感じられるんですね。
たとえば、ジャクソン・ポロックというアメリカの画家がいます。ジャクソン・ポロックの作品には210億円という価格がついたものがあるくらい、有名な画家です。ポロックが特徴的なのは「ドリッピング」という手法で空中から塗料を滴らせながら描くというという、その作風です。
ジャクソン・ポロック(Jackson Pollock、1912年1月28日 - 1956年8月11日)は、20世紀のアメリカの画家。抽象表現主義(ニューヨーク派)の代表的な画家であり、彼の画法はアクション・ペインティングとも呼ばれた[1]。抽象表現主義の画家たちの活躍により、1950年ごろから美術の中心地はパリではなくニューヨークであると考えられるようになった。|Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ジャクソン・ポロック
従来の絵画とは、キャンバスを立てて、筆を使って描くものが当たり前だった時代に、キャンパスを床に寝かせて、筆も使わずに塗料を叩きつけるようなアクションで描く姿は衝撃的だったのでしょう。
余談ですが、このジャクソン・ポロックというアーティストはロック好きには有名で、それはストーンローゼスというバンドのギタリストがポロックにインスパイアを受けて(パクって)、アルバムのアートワークを描いたという逸話があります。そういう音楽カルチャーとの連鎖もあり、時代を超えてポロックのスタイルは世界的に広がっていきました。
はたまた、世界をフィールドに活動する日本の現代アーティストの中に、村上隆がいます。最近ではユニクロとビリー・アイリッシュとコラボをしたり、アパレルブランドのコラボなど、アートの枠からはみ出して、デザインとしても支持されています。
村上隆は日本特有のアニメーション文化をアートに昇華し、海外でも評価されることになりました。彼の作品にはその奇抜さゆえに賛否両論あり、批判の声もたくさんあるのですが、それはこれまでのアートという概念、アニメーションやオタク文化の概念を取っ払って、作品にしたという部分にあるのではないでしょうか。
また日本のアニメというもの自体が、江戸時代に発展した浮世絵文化の延長線上にあるということも、切り離してはならないポイントです。浮世絵に関しては、アートではなく世俗的で大衆的なものでしたが、それが偶然にも海外に渡り、モネやゴッホに影響を与えたことは有名なお話しです。
浮世絵が与えた海外への影響と、アニメが与えた海外への影響という関係性のリンクにはアート的な面白みが感じられます。
アートというものの価値を因数分解したときに、その時代背景や文化の交差に対して、「なにを表現するのか?」「私はなにを描いているのか?」という問いを持ち、その答えを探っていくことは、とても重要なことに思えます。
ヒトミカイトの二人は写真を撮るということに対して、生きるということに対して、暮らすということに対して、仕事ということに対して、コミュニケーションというものに対して、様々なものごとに対して「問い」を持ち、その答えを自らの人生を体感しながら常に変化しています。本人たちにはそのつもりはないかもしれないですが、その行為自体がアート的であり、その先に時代を捉えた新しい表現生まれるのだと感じるのです。
アートというものは、かつてはキャンバスの中で収められていたものでしたが、とはいえ著名なアーティストは生き方をマルっと含めて、作品とされることが多いと感じられます。
それは表現ツールが無限に広がった現代では尚更のことで、自らの生き方を突き詰めていくこと、その探究心や好奇心が結果的に外から観たらアートになっていた、ということがどんどん起こってくるのではないでしょうか。
これはクラブハウスで話していて初めて知ったことなのですが、カイトくんが写真をはじめのはつい3年ほど前のことらしいのです。なんなら、私が一眼レフを手に入れて写真を撮りはじめたときの方が早いくらい。3年の経験にも関わらず、その佇まいには迫力があり、観る人を圧倒する力があります。
また、もしかしたら歴が浅いからこそ、従来の価値観の中におさまらない「カイトくんらしさ」が作品に生きているのでしょう。生きることに問いを立て、ライフスタイルの根本から見直し、旅を続ける二人だからこそ生まれる世界観が、きっとこれからも育まれることでしょう。
文|龍輪諭
写真|和田海人