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yoyo

自律

2021.02.21 16:05

文學界1月号のブレイディみかこさんの「アナーキック・エンパシー」を読む。おばさん問題から女の承認欲求、そしてルッキズムとシンパシーの話へ。テレビやSNSといった身近なものから語られるルッキズムと全体主義の関係は実感が伴っていて説得力があった。

コラムを読んで、話題の本ばかり着飾らせてアップしている読書垢やなんとなくエモく仕上げている写真垢に対する違和感が分かる。それは価値基準を全体に預けているからなのだろう(話題の本を読むことや本を着飾らせること、エモさそのものを否定しているわけではない)。魅力は自分の価値基準から生まれる。そしてその価値基準は思考から生まれる。そして思考は愛があるからできる。

こう書けばいい感じに見えるだろうと思って書いたものを後で読み返したときの恥ずかしさ。それは思考の至らなさを突き付けられるからなのだと思う。読み返したときに、恥ずかしい、けれども頑張ってるなあと笑えるようなものを書けたらいい。


文中に『小説幻冬』の連載「限界から始まる」における上野千鶴子さんの「能動的な行為こそ、自律の証」というフレーズが引用されていた。これはフェミニズムの、というか人生における本質だと思った。女性がテーマのものに触れていると、このフレーズが姿形を変えていろんな場所で現れる。

「ドリームチーム」という最近楽しみにしているドラマがある。世代の違う三人の女性たちが共同生活をする話だ。そこで度々出てくるフレーズが「あの子になりたい人生だった」。そしてドラマのテーマは「人生の主導権を握る」。存在しない「あの子」=全体の価値基準における上流層、そんなものは幻想なのだということに気づき、憧れから脱却し、自分の幸せを考えてそこに向かって自分の足で歩いていこうとする三人の姿を見て、私も「私の幸せ」について考える。

そして今日届いた『ましまろ文學ガール』。こちらは大正時代に文学を志す女学生を描いた漫画。そこで本質は「自由への責任を持つ」というフレーズで表現されていた。自由にする、つまり能動的に行動するということは、周囲との軋轢などいろんな障害を伴う。それに対して自分自身が責任を持てるかということだ。主人公の百音ちゃんはただひたむきに頑張るだけでなく、責任を負いながら前へ進んでいく。彼女が都合の良いストーリーに幸せを運んでもらう主人公でなく、自分でストーリーを開いていく一人の女の子として描かれていて良かった。


私はインターネットの原体験があるから、今も日記や小説を書いているけれど、文章を書く=モラトリアムの延長ではないと思っている。今の自分が確かに楽しいからやっている。だから自分の口からそういうことは言わないでおこうと思った。