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yoyo

2021年のSNS

2021.02.22 15:00

今日は主に麒麟がくるの総集編を観ながら、文藝の冬季号を読んでいた。TVODの「ポスト・サブカル焼け跡派が眺める、現代日本文学風景」が特に面白かった。昨日読んだブレイディみかこさんのコラム、そして今日ツイッターで出会ったある記事、三つに共通するものがあり、しかし共通するものが上手くとらえきれず頭の中がぐるぐるとしている。手がかりとしての引用を残しておく。


リツイートという数を稼ぐシステムに、言論が誘導されているのではという点だ。その場の空気を的確に読み、多くの人々が共感できる言葉を発する能力を持ったもののみが勝ち上がれるという構造になっており、じつはそれって現実の/資本主義下の世界・コミュニケーションと変わらず、むしろよりピュアな形で再生産されている状態ではないかと思うのだ。
ハッシュタグの共有やリツイートによって生まれていく共同性の中では、個人の主体の在り方は後景化する。「わたし」という単位の中にある様々な事情やややこしさが、「わたしたち」という大きなムーブメントのなかで塗りつぶされていく。ムーブメント化して意思表明を明示化・共有化していくことと同じぐらい、「わたし」という単位の共有不可能性・交換不可能性について考えるための方法論が必要になってくるように思う。そして恐らく、タグ共有やリツイートではなく、たどたどしくてもよいから自分自身の考えを「書く」行為が、ひとつの鍵になるはずだ。

TVOD「ポストサブカル焼け跡派が眺める、現代日本文学風景」『文藝』2020年冬季号


シンパシーは速く、エンパシーは遅い。ルッキズムは早くてわかりやすいシンパシーベースだから全体主義と相性がよく、政治利用されやすい。他方で時間がかかり、知的努力を要するエンパシーは個人的な想像力だから束ねることは困難だ。

ブレイディみかこ「アナーキック・エンパシー#9」『文學界』1月号


同じものが繰り返し繰り返し高速で溢れかえるSNSに常在している我々は、自分の主体性が剥奪され、誰かのモノマネでもあるかのように、コモディティと化した言説やアイデアや表現や主張をおこなってしまう。そこから切り離されたいと願ったところで、その願いや行動自体が瞬く間にビッグデータに回収されて、同じ志を持った人間の同質性の中でエコーチェンバーが心地よく響く世界へと押し込まれてしまう。SNSにいる限り、僕らは自分自身がコモディティとして回収されることに抵抗するのは、極めて難しい。そう言わざるを得ないんです。

別所隆弘『SNS時代における「人間のコモディティ化」』

https://comemo.nikkei.com/n/n74b685535d4f


当たり前すぎますが、自らで言語化していく作業は大切で。ツイッターが普及すればするほどそう思います。そして言葉は、簡単に撮れてしまう写真なんかよりも比べ物にならないくらいタダ乗りしやすい(されやすい)表現なのだと気づきます。

濱田英明氏 https://twitter.com/HamadaHideaki/status/1362552677410824192?s=20


私たちはSNSの中では大なり小なり現実社会からの抑圧、例えばより若く綺麗にという外見主義的な価値基準や、空気を読み言葉を巧みに操るコミュニケーション主義的な人間関係から解放され、主体性を手に入れたはずだった。

しかし結局、そんな主体的に選んだとされるコミュニティ内でも、影響力のあるメディア・クラスタ・人物に追従してしまう。コミュニティ内でのマジョリティーの価値基準に自らの価値基準を預けてしまう。しかもそれを主体的に選んだと思い込んでいるから抑圧されていること自体に気づきにくい。ネットの中では、より純粋な形で、現実社会と同じ抑圧を受けることになる。

上記の引用たちは手軽で速いSNS内で、他人の言葉に自分を預けることの危うさや違和感を指摘しているという点で共通していると思う。

そしてそこから脱却するには、このメディアが言っているから、このクラスタで言われているから、この人が言っているからと妄信的に受け入れるのはやめて、咀嚼し、そして自分自身の考えを自分自身の言葉で書くことが必要だ、ということも。

この記事自体が引用ばかりなのも気が引けるけれども……。SNSの恩恵に自覚的でいたいし、違和感には敏感でいたい。こうして考えることと書くことを続けたいと思う。


今は新胡桃さんの「星に帰れよ」を読んでいる。まだ途中だけれど、上記のような、SNSがもたらす閉塞感とそこで生まれる自意識が的確に描き出されていて面白い。登場人物たちの関わりあいはどこまでいっても平行線。けれどもカテゴライズに対する反抗、価値観の違いから目を逸らさない姿勢が、閉塞感のその先にあるもののように思えて希望を感じる。