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生涯学習が当たり前の時代の学びの本質とは

2021.01.12 04:15
今、生涯学習に取り組む人が多くなった。

いや、正確に言うと、人生100年時代が近づく中、学習を適宜行わないと、豊かで幸せな人生がおくれないかも。というちょっと受け身で切迫感すら漂いだした。

 

本来の学びとは何か?

これは、人間の永遠のテーマかもしれないし、

答えはないのかもしれない。

 

まず、自分自身の事を書くと、私は今が一番能動的にボジティブに学んでいると思う。

 

自分が知りたいことを知る。人生の仲間に教えてもらったキーワードや本の名前。言葉であれば必ず調べて、その意味を知る。そして、その言葉を使う仲間の想いや感性を共有する。

本であれば、すぐに注文して、すぐに読む。自分で探した本よりも必ず最速で読む。

 



 

なぜかと言われても、そんな感覚で行動してきたから、ますます、そういう感じが強くなってきた。だから、毎日が予想外の連続になる。

学びの範囲や方向性が決まっているわけでもないし、いつまでに何かやらないといけないわけではない。

 

実際、子供の頃から、学びには期限や制約があった。算数なら算数の教科書があって、一学期はここまで、二学期はここまでと言う風に、学年一律に学ぶ。この仕組み自体を否定する気もない。

また、私にはまったくこういう制度はあっていなかったが、今の自分に悪影響があったわけではない。

私は小学校の頃は、注意散漫精神ガタガタ病と担任の先生から通信簿に書かれたことがあり、とても落ち着きがなかったと思う。

今も変わらないが、良い風に言えば、好奇心旺盛となると思う。

今更言うまでもなく、私は、大学まで一貫して、決められた授業が面白いと思ったことは数えるほどしかない。例えば、中学校の時の数学だと、簡単に言うと、その日学ぶ公式があって、先生が丁寧に説明を始める。それがつまらなくて、私はさっさと、公式を読んで理解して、いつも、別の事をしていた。

 

他人は遊んでいたというかもしれないが、私は多分、何か別の興味があることをしていたと思う。高校生の時は、英語の授業がこれまたつまらなくて、先生の似顔絵を描いていたら、見つかって、廊下に立たされた。別に不良していたわけではないが、先生から見たら授業を無視しているような要注意人物として職員室で話題になったりした。

 

自慢でも何でもないが、私は、受験勉強のための授業がそもそも嫌いで、ある意味、大学受験の高校3年は、わざと、悪友と授業中に遊んだりした。まじめな同級生からしたら、ふざけている組だった。もちろん,私たちは、人には迷惑はかけなかったつもりだが。

 

結局何が言いたいかと言うと、決められた枠で何かを学ぶことが嫌いで、全て自分で学ぶという意識だけは強かった。

これが災いして、すでにブログでも書いたことがあるが、ゴルフにしても何から何まで我流で通して失敗したことも多々ある。

 

話は、冒頭の生涯学習に戻るが、こんな私が今からの人生で考えていること。

それは、学び方は使い分けだと思っている。

子供の時と同じように我流でこなすテーマは今も常に沢山ある。

経営も勉強しないわけではないが、何年も真剣にしていれば、理論は別として、本質的な事は身につく。だから、私は経営については我流である。

 

その一方で、社会貢献や社会問題の解決などを成し得ようとしたら、これは我流では通らない。

 

周りを冷静に見ればありがたいことに、エキスパートや達人の方々が沢山いる。

こういう方々に学べる環境にある幸せを今噛みしめていて、あとは、如何にだれにどういう風に教えてもらうかの選択である。

 

だれかに用意されたものでもなく、時間も場所も誰から学ぶかも自分で自由に計画できる。

しかも、その計画は毎日変わる。

こんな日々で今後を過ごそうと思っている。

 

できれば、子供たちにもこういう感覚の私塾ができればとも昔から思っていた。

それは、一言で言えば、当人にとって必要な時に学ぶ。そんなしくみである。

 

以上