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近藤昇オフィシャルサイト

デジタルの中で人は永遠に存在できる時代

2020.11.09 07:25
今は記録の世紀と、先日のブログで書いた。

今から100年後、1000年後、いや、もっと先の1万年後から振り返った時、今世紀は記録の世紀として認識されると考えている。

 

偉人・賢人の活躍、知見、教えなどを知る方法は、時間を遡れば遡るほど、手段は限られてくる。私の子供が生まれた30年前ぐらいであれば、どこの家庭でも映像が残っている。私が生まれた頃であれば、シロクロの写真が少しはある時代だ。戦前になると記録はさらに限られる。

 

例えば、私が良く利用する神戸の地下道に、神戸の戦前の写真が展示されている。これはこれで、残っていることにとても感心する。明治あたりになるとどうだろうか?写真はほとんど存在しない。

 

写真が発明されたのが19世紀で、それ以前になると絵画などのアートや肖像画として残っているぐらいだろう。更に遡っていくと、屏風の絵や壁画の世界になっていく。

 

では、ノウハウや知恵が詰め込まれた書籍はどうだろうか?こちらも同じように時代を遡れば遡るほど、減っていく。

グーテンベルクの印刷革命が15世紀であり、それ以前になると書物として残っているのは手書きであり、さらに希少価値である。

要するに、昔になればなるほど、過去はほとんど記録には残っていない。

 

今は、全く違う時代の始まりの境目だ。

これを私は記録の世紀の始まりと呼んでいる。

 

今度は、時間を前に進めてみよう。

デジタル化すれば永久に残るという保証はない。テクノロジーの問題でもあり、サービスの問題でもあり、情報の権利や保全の問題でもあり、専門的に考えるととても複雑でやっかいだ。

 

一方で、今は、毎日のようにデジタル化が進んでいる。私達の仕事に限らず生活に関する行動なども私たちが知らないところで記録されている。

 

世紀単位ではなく、経営の目線で考えたとしても、記録の時代と認識した経営が必要だが、この話は別の機会にするとして、自分の生きた証が、残る可能性のある時代の生き方を考えてみる。

 

今回は、2つの視点で話をさらに進める。

一つは、エンディングノート

もう一つは、データ教について。

 

エンディングノートが密かなブームだ。1991年ごろ、世の中に広まったとされている。

70歳ぐらいを過ぎた方が、これを使っていると聞けばとても自然体に感じる。

一方、50歳手前ぐらいの人が使っていると聞くと、少し驚きである。早すぎませんか?と言いたくなる。

エンディングノートの役割は、自分が亡くなっても残された人に迷惑をかけない。このことが原点にあると思う。もちろん、遺言的なことも含めて、残った人に伝えたいこともあるだろう。

 

私は、すでに生涯現役ノートを商標登録している。

これは、永遠に生きるためのノートである。

シンプルに説明すれば、後世に残したいことをデジタルの記録に残すということだ。

今予想されているテクノロジーを活用すれば、いつまでもデジタルの中で生きることはできる。VR、ARあたりでも、そうとうリアリティでできる。

 



 

将来、亡くなったおばあちゃんと話することはそんな夢の話ではない。何やら、スピリチュルな話に感じる人がいるとしたら、それは別である。

リアリティの世界の話である。すべては実在した時のデータが源泉だ。

 

2つ目のデータ教は、一世を風靡した書籍“ホモデウス”の最終章に書かれている内容である。

いつの時代になっても、人間には精神的な心のよりどころが必要だと思う。

依存と言う部分もあるが、人間はどこかで何かにすがったり守られたりする必要がある。

 

昔は神であり、それが宗教に変わり、これからはデータになるという示唆だ。

 

今後も従来の宗教などが無くなる話ではない。日本であれば神社も永遠だと思う。

そういう世界にデータ教が加わる。こういう選択をする人は確かにいると思う。

だから、記録を残す意味が深くなる。

 

そんなことを考えていたら、最近、いよいよ、本気で生涯現役ノートをビジネスとして始めようという気持ちが高まってきた。

1000年後の私が、誰かが信じるデータ教の頼れる人になれるかも。

 

以上