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祈年祭・新嘗祭

2018.02.27 03:47

https://www.isejingu.or.jp/ritual/annual/kinen.html 【祈年祭・新嘗祭】 より

春には祈年祭で豊作を祈り、秋には新嘗祭で収穫に感謝

『日本書紀』に天照大御神が斎庭の稲穂を天孫瓊瓊杵尊に授けられたことが記され、そこに日本の始まりが位置づけられることは大きな意味を持ちます。春に豊作を祈り、秋の収穫に感謝する稲作を中心とした営みを、日本人は2000年以上繰り返して来ました。天皇陛下から国民に至るまで神を祀ることは日本の大切な文化です。

令和3年の予定

祈年祭 2月17日(水)

■外宮(豊受大神宮)   大御饌 午前4時    奉幣 午前7時

■内宮(皇大神宮)    大御饌 午前11時    奉幣 午後2時

新嘗祭 11月23日(火・祝)

■外宮(豊受大神宮)   大御饌 午前4時    奉幣 午前7時

■内宮(皇大神宮)    大御饌 午前11時    奉幣 午後2時

青字:用語説明を表示します

祈年祭の由緒と沿革

祈年祭は春の耕作始めにあたり、五穀豊穣を祈るお祭りで、「としごいのまつり」とも呼ばれます。「とし」とは稲の美称であり、「こい」は祈りや願いで、お米を始めとする五穀の豊かな稔りを祈ることを意味します。稲の育成周期が日本人の一年といえます。

農耕が生活の中心であった時代、豊作を祈ることは国家の安泰、国民の繁栄を祈ることに他なりませんでした。そのため祈年祭は国家規模で執り行われ、平安時代の『延喜神名式』によると、神宮を始め全国2,861社の神々に幣帛が奉られていました。特に神宮には天皇が勅使を差遣されてお祭りを行われており、朝廷の崇敬のほどが窺われます。

神宮神田で収穫された新穀

新嘗祭の由緒と沿革

新嘗祭は「しんじょうさい」ともいい、「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくことを意味し、収穫された新穀を神に奉り、その恵みに感謝し、国家安泰、国民の繁栄をお祈りします。

現在、このお祭りは毎年11月23日に宮中を始め、日本全国の神社で行われていますが、特に宮中では天皇陛下が自らお育てになった新穀を奉るとともに、御親らもその新穀をお召し上がりになります。収穫感謝のお祭りが11月下旬に行われるのは全国各地での収穫が終了する時期に、御親祭を行われたためと考えられています。

神宮では神嘗祭で新穀が奉られるため、新嘗祭はありませんでしたが、明治5年に勅使が差遣されて行われたのが始まりです。

内宮奉幣 第二鳥居前で幣帛を祓い清めます


https://www.isejingu.or.jp/about/estate/ 【神宮の御料と御料地】 より

神宮のお⽶と野菜 神宮の御塩 神様の⾐「神御⾐」 神宮のあわび・干鯛・土器

神々に捧げられる 神饌となる御料、由緒ある御料地で⾃給⾃⾜

神饌など神々へのお供え物を御料、そして御料を調達する場所や施設を御料地と呼びます。

神宮には、神嘗祭を中心に年間1500回に及ぶお祭りを滞りなく行うため、神宮神田、神宮御園、御塩浜などの御料地があり、神様に捧げられる品々は古儀を尊重して清浄に調製されます。尚、各御料地とも立ち入ることはできません。

神様のお⾷事 「日別朝夕大御饌祭の神饌」

朝と夕の二度、日々奉られる神饌は御飯三盛、御塩、御水、乾鰹、魚、海藻、野菜、果物です。それらの神饌や神饌を盛りつける素焼きの土器も神宮で作ります。

日別朝夕大御饌祭   神宮のお⽶と野菜 神宮神田 三重県伊勢市楠部町

神宮御園 三重県伊勢市二見町溝口

神田・御園ともに一般の方の見学はできません。

五⼗鈴川の⽔をいただき、神宮神⽥と神宮御園で清浄に育つ

神宮神田の歴史は古く、2000年前に倭姫命がお定めになったとの伝承があります。神田では五十鈴川の水をいただき、神宮のお祭りにお供えされる御料のうるち米ともち米が清浄に育てられ、その年にとれた新米は神嘗祭で大御神に奉られます。

神宮御園では季節に応じた野菜果物を栽培し、その品目は多種にわたります。

神宮神⽥について

神田では多くの品種を育て、また田植えは時期をずらして行います。それは、天候不順や台風などの被害を最小限にとどめるためです。

神田では、稲の育成の節目に豊かな稔りを願うお祭りも行われます。4月には神田下種祭、5月には神田御田植初、9月には抜穂祭が古式ゆかしく行われます。

5月上旬 神田御田植初  9月上旬 抜穂祭

神宮御園について

神宮御園では、神宮のお祭りにお供えする野菜・果物を栽培しており、その品目は50種類ほどあります。

お供えされる野菜や果物は、お祭りによってその品目と数量が決められています。また、盛りつける土器の大きさも決められているので、それにあった大きさに育てるよう細心の注意がはらわれます。

毎年春分の日には御園祭が行われ、豊かな稔りと農作業に携わる人々の作業の安全が祈られます。

収穫された野菜や果物

神宮の御塩 御塩殿・御塩汲入所・御塩焼所 三重県伊勢市二見町荘 御塩浜 三重県伊勢市二見町西 お祓いにも⽤いられる御塩、御塩浜・御塩殿で作られる

神宮では生命の源である米・塩・水は太古から大御神の大切なお供えとされてきました。その中でも御塩は、お供えとして捧げられるだけでなく、お祭りの前のお清めの塩としても用いられ、欠かすことのできないものです。

神宮では五十鈴川の河口近く、二見浦で御塩を作っていますが、これは内宮御鎮座当時、倭姫命がお定めになったと伝えられています。

神宮の御塩作りについて

諸外国の多くが岩塩であるのに対して、わが国の塩は国土の四方が海に囲まれていることを活かし、海水から採取したものが主流です。海水から効率よく塩を採ることが追及される中、神宮では昔ながらの入浜式塩田法を用いて作られていますが、その工程は1.採鹹作業、2.荒塩作り、3.御塩焼固の三つに分けられます。

1. 採鹹作業

毎年7月下旬の土用の頃、御塩浜で鹹水と呼ばれる高濃度の塩水を採取します。御塩浜は海水と淡水が混じる場所にあり、その理由は海水に少し淡水が和合した方が良い塩ができることによります。鹹水は約1週間かけて採取されます。

2. 荒塩作り

採取された鹹水は御塩汲入所に運び、すぐ隣にある御塩焼所において鉄の平釜で炊き上げて荒塩にします。この作業は交代で火を焚き続けながら、一昼夜かけて行われます。

3. 御塩焼固

毎年10月5日に御塩殿神社において御塩殿祭が行われ、御塩焼固の安全と日本の塩業の発展が祈念され、その後5日間にわたって焼固が行われます。荒塩は御塩殿で三角錐の土器につめて焼き固め、堅塩に仕上げます。御塩焼固は10月と3月の二度行われます。

神様の⾐「神御⾐」 神服織機殿神社・八尋殿 三重県松阪市大垣内町

神麻続機殿神社・八尋殿 三重県松阪市井口中町

神御⾐祭で奉られる「神様の⾐」、機殿の二神社で織り上げる

神様の衣を「神御衣」といいます。神宮では毎年春と秋、天照大御神に和妙と呼ばれる絹と荒妙と呼ばれる麻の反物に、御糸、御針などの御料を添えてお供えする神御衣祭が行われています。そしてお祭りに先立ち、和妙は神服織機殿神社、荒妙は神麻続機殿神社のそれぞれの八尋殿で奉織されます。

機殿について

神服織機殿神社と神麻続機殿神社が鎮座する辺りは、古くから紡績業と関係が深く、神様に奉る絹や麻を奉織する服部神部と呼ばれる人々が住んでいたと伝えられます。

周辺の下御糸・上御糸・中麻績・機殿・服部などの地名からも、その関係の深さを窺うことができます。

機殿の由緒は古く、皇大神宮御鎮座当時に、五十鈴川のほとりに宇治の機殿を建て、天上の儀式にならって大御神の和妙を織ったことが伝えられ、その後、天武天皇の御代に紡績業の盛んな現在の地に移されたようです。

現在では神御衣祭を控えた5月と10月に神宮から神職が参向し、それぞれの八尋殿で奉織が行われます。奉織の前後には神御衣奉織始祭、神御衣奉織鎮謝祭が行われます。

八尋殿で織られる和妙 

神宮のあわび

御料鰒調製所三重県鳥羽市国崎町一般の方の見学はできません。

「あわび」は一般的には「鮑」、「蚫」と書きますが、神宮では『延喜式』に則って「鰒」と書きます。

鰒調製所の歴史は古く、その起源は約2000年前に倭姫命が志摩の国を巡られていた時、国崎の海女が鰒を差し出したことから御贄処として定められたと伝えられます。

国崎の鎧崎にある木造平屋建ての調製所は、潔斎場と呼ばれる身を清める所があり、作業は清浄を期して行われます。また調製所のさらに高い所には鰒干場があり、現在でも昔の手振りそのままに、身取鰒、玉貫鰒が調製されています。

神宮の干鯛

御料干鯛調製所 愛知県知多郡知多町大字篠島 一般の方の見学はできません。

鯛はお祭りにお供えされる神饌の中でも、とりわけ大切なものの一つです。干鯛は、生鯛の内臓を取り除き、塩水につけた後、晴天の日に2日間ほど乾燥させたもので、平安時代の天皇の食膳品目にも見ることができます。

神宮では篠島で伝統と由緒のままに調製された干鯛が、三節祭と呼ばれる大切なお祭りにお供えされます。

神宮の⼟器

土器調製所 三重県多気郡明和町蓑村 一般の方の見学はできません。

土器調製所は多気郡明和町蓑村にあります。この付近は神代の昔、高天原から埴土を移したという伝承があり、良質な粘土に恵まれ、皇大神宮御鎮座当時から土器を作ってきたと伝えられます。

現在でも土器調製所では、様々なお祭りに使用される素焼きの土器を年間約60,000個調製しています。神宮では一度使われた土器は再使用せず、細かく砕いて土に返すことになっています。


https://www.isejingu.or.jp/about/mythology/ 【神宮の神話】より

「斎庭の稲穂」今野可啓 神宮農業館蔵

天岩⼾神話

天照大御神の弟神である素戔嗚尊は、高天原の大御神を訪ねました。大御神は荒々しい性格の弟にその忠誠心を問いただしたところ、素戔嗚尊は、高天原にある水田の畔と溝を壊し、春の種まきや秋の収穫を妨げ、また大御神の神聖な御殿を汚し、さらに布を織る機屋に皮をはいだ馬をなげこむなど、乱暴の限りを尽しました。

そのため、大御神は天岩戸の中にこもられると、世界は光を失いさまざまな災いがおこりました。

そこで高天原の神々は相談の末、太玉命が八咫鏡と八坂瓊勾玉を榊にかけ、天児屋命が祈りを捧げました。

そして天鈿女命が神楽を舞うと、鶏が鳴き出し、面白い舞を見て神々がどっと笑い声をあげました。そのどよめきを聞かれた大御神は、岩戸を少しお開きになると、そのお姿が八咫鏡に写りました。鏡に写る自分の姿を貴い神だと思った天照大御神は、その姿をもっとよく見ようとした時、隠れていた手力雄神がぐっと岩戸を押し開き、世界は再び光と秩序を取り戻すことができたといいます。

これは万物に光明をもたらす太陽にも例えられる天照大御神の偉大なご神徳をなぞらえた物語です。

「天照大神」伊藤龍涯 神宮徴古館蔵

天孫降臨

天照大御神は御孫の瓊瓊杵尊を降して、この葦原中国を治めさせようとされました。その際に瓊瓊杵尊は大御神から八咫鏡・草薙剣・八坂瓊勾玉を賜りました。これは三種の神器と称され、皇位のみしるしとして代々伝えられることになります。

瓊瓊杵尊は猿田彦神を先導として八百万神を従え、高天原から天の八重棚雲を押し分けて九州日向の高千穂の峰に天降られたといいます。

また瓊瓊杵尊は、大御神から天上の清らかな稲を地上で作るように託されました。

日本は昔から「豊葦原瑞穂国」といわれます。これは豊かな収穫の続く、みずみずしい稲のできるすばらしい国という意味です。

また、このとき天照大御神は瓊瓊杵尊に「この国は天地と共に永遠である」との祝福のお言葉を仰せ下されました。このお言葉は「天壌無窮の神勅」といわれ、皇室と日本の限りない隆昌をことほぐ言葉として、長く国民の信念を培ってきました。これは神代の昔からつづく皇室をいただく日本国の原点を象徴する名言といえます。