天道信仰と対馬神道
https://hero1945.livedoor.biz/archives/50600396.html 【対馬巡礼の旅日本の古代史
神々のふるさと、対馬巡礼の旅=番外編 天道信仰と対馬神道(上)】より
1.
天道信仰について、鈴木棠三(トウゾウ)は「対馬の神道」のなかで、「天道信仰は、豆酘村の中の八丁角と俗に称せられる磐坂を中心とし、これに対応して佐護にも天道の一大中心があり、島の南北にあって相対している。この信仰の主要なる点は、神地崇拝の風の強烈なる点で、一に天道地と云えば、何によらず不入の聖地を意味する。第二にこれを母神および童神二神相添う形と信じていることで、神道家は神皇産霊尊とその御子多久豆玉神ならんとしているのである。而して、対州神社誌当時の天道信仰は或る意味で対馬神道の根幹をなしているかの観を呈していた」と述べている。
そして、天道法師の生誕話は「母が懐妊の際に強烈な日の光を浴びたことをその因とする」筋立てになっているが、鈴木棠三はその種の話はこの手の怪童伝説にはよくある話であると突き放した見方をし、「天道」は「天童」であるとの解釈を採っている。
しかし、「鶏子(トリコ)のような気が天より降りてきて」、女が懐妊し生まれ出た高句麗王朝の始祖・朱蒙の生誕伝説、すなわち、神秘な気に感精して懐妊するという北方系の「日光感精型神話」が、日神の地、対馬だからこそ天道法師の神秘性を演出する為に当り前のように拝借されたのだとする方がわたしには自然な気がするのである。
また、日神の誕生の地という天地開闢(カイビャク)という創世期から間近いところの歴史を有す対馬だからこそ、中世の怪人に対する生誕譚として「日光感精型神話」が持ち出されたのではないかと推測される。
【天童伝説】(対州神社誌「P345」より)
「天道 神体並びに社 無之
対馬州豆酘郡内院村に、照日之某と云者有。一人之娘を生す。天智天皇之御宇白鳳十三甲申歳〔673年〕二月十七日、此女日輪之光に感して有妊(ハラミ)て、男子を生す。其子長するに及て聡明俊慧にして、知覺出群、僧と成て後巫祝の術を得たり。朱鳥六壬辰年〔691年〕十一月十五日、天道童子九歳にして上洛し、文武天皇御宇大寶三癸卯年〔703年〕、対馬州に帰来る。
霊亀二丙辰年〔716年〕、天童三十三歳也。此時に嘗(カツ)て、元正天皇不豫(フヨ)有。博士をして占しむ。占曰、対馬州に法師有。彼れ能祈、召て祈しめて可也と云。於是其言を奏問す。天皇則然とし給ひ、詔(ミコトノリ)して召之しむ。勅使内院へ来臨、言を宣ふ。天道則内院某地壱州小まきへ飛、夫(ソレカラ)筑前國寶満嶽に至り、京都へ上洛す。内院之飛所を飛坂と云。又御跡七ツ草つみとも云也。
天道 吉祥教化千手教化志賀法意秘密しやかなふらの御経を誦し、祈念して御悩(ナヤミ)平復す。是於 天皇大に感悦し給ひて、賞を望にまかせ給ふ。天道其時対州之年貢を赦し給はん事を請て、又銀山を封し止めんと願。依之豆酘之郷三里、渚之寄物浮物、同浜之和布、瀬同市之峯之篦(ヘラ)黒木弓木、立亀之鶯、櫛村之山雀、與良之紺青、犬ケ浦之鰯、対馬撰女、幷(ナラビニ)、州中之罪人天道地へ遁入之輩、悉(コトゴトク)可免罪科叓(カジ)、右之通許容。又寶野上人之號を給わりて帰國す。其時行基菩薩を誘引し、対州へ帰國す。行基観音之像六躰を刻、今之六観音、佐護、仁田、峯、曾、佐須、豆酘に有者(アルハ)、是也。
其後天道は豆酘之内卒土山に入定すと云々。母后今之おとろし所の地にて死と云。又久根之矢立山に葬之と云(多久頭魂神社)。其後天道佐護之湊山に出現有と云。今之天道山是也(天神多久頭魂神社)。又母公を中古より正八幡と云俗説有。無據(コンキョナク)不可考。右之外俗説多しといへとも難記。仍(ヨッテ)略之。不詳也。」
以上が貞享三年(1686年)十一月に編纂された「対州神社誌」記載の「天道法師の由来譚」である。その4年後の元禄三年(1690年)二月に梅山玄常なる人物が「天道法師縁起」なる書をものした。原文は漢文であるが、「対馬の神道」のなかで、以下の通り、その筋書きを平易な現代文に訳しているので、やや長くなるもののここに紹介する。
「昔天武天皇の白鳳二年(壬申の乱の翌々年。674年*)に、豆酘郡内院村(今の下県郡久田村字内院)に一人の童子が誕生した。その母の素性をたずねると、かつて内院女御という方の召仕であって、或朝、旭光に向って尿溺し日光に感じて姙(ハラ)んだのが、この童子であるという。故にその誕辰に当っては瑞雲四面に棚引くなどの天瑞があった。すなわち童子の名を天道童子、また日輪の精なるが故に十一面観音の化身とも伝える。この天道童子の誕生の地を、今に茂林(シゲバヤシ)と呼ぶ。対馬では茂または茂地とは神地のことである。童子長じて三十一歳、大宝三年(703年)のことであったが、時の天子文武天皇御不予にわたらせられ、亀卜を以て占わしむるに、海西対馬国天道法師なる者がある。彼をして祈らしめば皇上の病癒ゆべしとの奉答であったから、急使を遣わして天道法師(童子)を迎えしめられた。法師は使を受けるや、さきに修得した飛行の術によって内院から壱岐の小城山に飛び、さらに筑前宝満嶽に、さらにさらに帝都の金門に飛んだのであった。ここに帝の御ために祈ること十七日、たちまち御悩は癒えた。帝は法師の法力に感じ給い、宝野上人の号並びに菩薩号を賜り、また大いに褒賞を加え、欲するところを与えんとの詔があった。法師は、対馬は西陲(セイスイ)の辺土にして民は貢物に苦しむ故に是を免ぜられたきこと、また島中の罪人にして天道の食邑の地に入り来った者は、罪の軽重を論ぜずことごとく宥(ユル)されたきことなど奏上して、勅許を得たのであった。また、古記によれば、天道菩薩の社田として筑前国佐和良郡出田に八百町歩があったというが、いつの頃よりか廃絶したと。天道菩薩入定の地は豆酘(ツツ)郡卒土(ソト)山の半腹の地に、縦横八町余を劃して中に平石を積んだのがそれである。もし汚穢(オワイ)の人が其処に到れば、踵を廻らさずして身命を失う。故に里民畏避して今に到るまで足跡を容れる者がない。」
* 「白鳳」は書紀には現れない私年号であり、中世以降の寺社縁起等によると、白鳳二年は西暦673年に算定される。
* 「大宝三年」は「対馬の神道」の703年で正しい。
https://hero1945.livedoor.biz/archives/50600431.html 【神々のふるさと、対馬巡礼の旅=番外編 天道信仰と対馬神道(下)】 より
1.不入の地、神籬磐境(ヒモロギイワサカ)の祭祀
① 龍良山(タテラヤマ)
龍良山(559m・雄龍良山(オタテラヤマ)・雌龍良山(メタテラヤマ))は古来、「天道山」と云われ、天道信仰の聖地とされてきた。故に禁伐林であったため榊・柞(ユス)など老木の繁茂する天然記念物原始林である。雄龍良山麓には八町角(ハッチョウカク)と呼ばれる天道法師の墓所と伝える場所がある。そして雌龍良山の山中には天道法師の母の墓所と称するものがあり、裏八町角と呼ばれている。対州神社誌には、「天道は豆酘之内卒塔山に入定す云々。母今のおそろし所の地にて死と云。又久根の矢立山に葬之と云」とある。
龍良山辺り
海側から龍良山方向を
ある書に「龍良山・・・558m、大字豆酘の東北に屹立し、対馬縦走山脈南端の最高峰である。旧名雄龍良または天道山といい、神山で多久頭魂神社の神籬磐境であり、頂上に烽火台の跡がある。」とある。
かように母神・子神崇拝は、対馬に深い縁故を有す神功皇后・応神天皇母子二柱を祀る「八幡信仰」にその起源を有すとも云える。
② 清浄の神地たる不入の地、浅藻(アザモ)
対馬の南端に位置する豆酘に向かって県道24号線を南下してゆく途中に「美女塚」がある。
これは昔、采女(ウネメ)制度(大宝律令)があったころ、豆酘に鶴という美しい娘がいた。母一人娘一人の仲の良い母娘であった。その鶴が采女として遠く都へと召されることとなった。鶴はその母一人を残し生まれ育った村を離れて行くのがつらく、役人に連れて行かれる途中で、「これからはわたしのような辛い思いをさせぬように、豆酘には美人が産まれぬように」と祈り、舌を噛み切って死んでしまったという。母や村人は村思い、親思いの鶴を深く哀れみ、「鶴王御前」と呼び、その命を絶ったという峠辺りに「美女塚」を立て弔ったという。対馬では実際に「豆酘美人」という言葉があり、昔から豆酘が美人の産地であったのは確からしい。
天道法師が帝から病治癒の御礼に何なりと願いを聴くと言われた際に、その一つに「対馬撰女」すなわち対馬から采女を召し出すことを免じて欲しいと申し出ている。
このことはこの「美女塚」にまつわる哀しい話が当時すでに人口に膾炙していたと思われ、また天道法師自身の母親がその素性を「内院女御」と呼ばれたことから、采女として召し出され、そうした母娘別離といった哀しい過去を背負っていたのかも知れぬと想像したりする。
内院にある美女塚には天道法師伝説と深く関わる話があるように思えてならぬのである。
さて豆酘(ツツ)村は、大きく分けて豆酘と浅藻(アザモ)に分かれている。
豆酘から浅藻への道
豆酘郵便局
鈴木棠三(1911-1992)が「対馬の神道」を表わすために対馬入りした昭和12年(1937)時点は、「現在の浅藻の村ができたのは、明治何年かに中国筋の漁民が移住して以来のことである。(中略)豆酘と浅藻の距離は一里半余りであるが、浅藻には豆酘の本村から移住した家は全くなく、「内地」からの移住者のみから成り、通婚も最近の一二の例を除く他は、国元から配偶者を連れて来ているようだ」とあり、明治まではこの豆酘村の浅藻地区は不入の地として人が住むことはなかった。
浅藻湾
コモ崎からの景色
しかし、明治初期に中国地方より漁民が移り住んで以来、人が住む土地となったが、もちろん、その移住者が死に絶えるなどということはなかった。
ただ、豆酘の村人は死人のあった忌明けには、卒塔見(ソトミ)と称して、コモ崎の上に登り、眼下に見える浅藻の入江に向けて小石を投げて、後ろを見ずに帰る風習がつい先年まで残っていた。神地としての地元民の尊敬は残されていた。
浅茅近くの卒塔(ソト)山(天道山)山腹が天道法師が亡くなった地であり、「もし汚穢の人がその地に入れば、たちまちにして神罰が降り死に絶える」との言い伝えが古来、村人により守られて来た事実は重い。
この天道信仰と対馬の神社との関係を記すと、藤仲郷の説を採用した「津島紀事」(平山東山著・1809-1810)のなかで、「浅藻(アザモ)の八丁角が延喜式内多久頭魂神社の磐境、裏八丁が高皇産霊尊の本社」と推定されている。