精霊会
https://kotobank.jp/word/%E7%B2%BE%E9%9C%8A%E4%BC%9A-533697 【精霊会(読み)ショウリョウエ しょうりょうえ〔シヤウリヤウヱ〕】 より
デジタル大辞泉の解説
1 ⇒盂蘭盆(うらぼん)
2 (「聖霊会」と書く)陰暦2月22日の聖徳太子の忌日に、法隆寺・四天王寺などで行われる法会。現在は4月12日に行われる。上宮太子会。《季 春》
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
別名盂蘭盆会(うらぼんえ)ともいい、先祖たちの霊を祀(まつ)る法会。盂蘭盆は梵語(ぼんご)ウランバナullambana(烏藍婆拏)の音訳で、ひどい苦しみを意味し、漢訳して倒懸(とうけん)(さかさつり)という。仏弟子目犍連(もくけんれん)がその死んだ母の倒懸の苦を救おうとして、7月15日、自恣(じし)(僧が互いに懺悔(さんげ)を行い他の僧から訓戒を受ける行事)に集まった衆僧に百味飲食(ひゃくみのおんじき)を供養したという『仏説盂蘭盆経』の故事に基づいて行われたもの。日本では606年(推古天皇14)の『日本書紀』の記事が初見。
[新谷尚紀]
『「先祖の話」(『定本柳田国男集10』所収・1962・筑摩書房)』
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世界大百科事典内の精霊会の言及
【盂蘭盆会】より
…陰暦7月15日を中心に行われる祖霊供養の法会。盂蘭盆供会,盂蘭盆祭ともいい,略して盂蘭盆と称し,広く魂祭(たままつり),精霊会(しようりようえ),お盆などといわれる。 盂蘭盆はサンスクリットavalambanaの転訛したullambanaの音写とされ,倒懸(さかさづり)の意で,《盂蘭盆経》によると,目連が餓鬼道に落ちた母の倒懸の苦しみを救おうとして,釈迦の教えに従って祭儀を設けて三宝に供養したことが起源であると説かれてきた。…
http://www.shukutoku.ed.jp/campus/event_summer2.html 【精霊会】より
年4回の宗教行事のうちのひとつで別名「魂(たま)まつり」とも呼ばれ、いわゆる「お盆」のことです。ご先祖様を思いおこし、そこからのつながりがあって今自分がここにいるのだということを考えます。またこの一年に亡くなられたご家族がいる生徒は花を一輪捧げ、追悼文を書きます。おじい様やおばあ様のほか、時にはご両親やご兄弟の名前が読み上げられ、他の生徒も命のはかなさや大切さを学び、当たり前と思っていたご家族のありがたみを感じる機会のようです。このほか宗教行事としては「花まつり」「成道会」「涅槃会」があります。
https://www.travel.co.jp/guide/article/3391/ 【聖霊会(毎年4月22日)が伝える大阪・四天王寺の不思議!】より
四天王寺最大の年中行事・聖霊会が毎年4月に巡ってくる。
聖霊会とは、聖徳太子の命日にその御霊を慰めるために催される舞楽大法要。ここ四天王寺では、僕らが歴史で習った聖徳太子、秦河勝、物部守屋という敵対する勢力が共存して祀られており、いかんともしがたい不思議がこの聖霊会には凝縮されているのだ。
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聖霊会は、聖徳太子の命日(旧暦2月22日)に御霊を慰めるために行なわれる舞楽と法要が渾然一体となった舞楽大法要だが、近年は毎年春深い4月22日に開催されている。
聖霊会当日は、六時堂の中央奥に聖徳太子摂政像の掛け軸、左右に仏舎利と鳳輦(ほうれん=太子)が安置され、唄・散華・梵音・錫杖の四箇法要と、能楽の原形とおぼしき仮面舞楽が交互に演じられる。
本来は、六時堂前の石舞台の四隅に曼珠沙華をかたどった大供花が建てられその広い露天の舞台で舞われるのですが、近年は雨天続きで六時堂の内部で行われるため、古式豊かな仮面劇の醍醐味を十分に写真では伝えられていないが、晴天の下で舞う姿はあでやかで荘厳そのもの。逝く春の旅情はいやが上にも高まる。
四天王寺は、わが国の仏教寺院には珍しく四六時中通り抜け自由で、かっては非人や乞食、不治の病に苦しむ者たちをすべて受け入れてきた。
同じ聖徳太子の寺で国宝級の宝物が目白押しの奈良の法隆寺とは全く対照的で、あけっぴろげで穏やかな空気が境内を包み込んでいる。
この寺の無限抱擁ともいえるたたずまいは、聖徳太子に象徴される仏教文化の慈悲の精神そのもので、それが聖霊会の舞楽にはこめられている。
ここで演じられる舞楽(伎楽)の仮面劇は、今でこそ厳粛そのものだが、本来は猥雑滑稽な所作を旨とし笑いを誘うものであった。
幽玄能の大成者・世阿弥の娘婿の禅竹の著わした「明宿集」には、四天王寺の舞人は大和猿楽の伝統と源流を同じくしながらもうひとつ別の流れを形成してきたことが述べられている。
崇仏派の蘇我氏や秦河勝、聖徳太子に対して排仏派として闘い滅ぼされた大連・物部守屋の事は日本史の授業でご存じだと思うが、この四天王寺は、物部守屋滅亡後その所領を没収して建てられたといわれる。
しかし、四天王寺創建にかかわる勝者たちも、やがて大化の改新により蘇我氏とともに根絶やしにされていく。そんな聖徳太子や秦河勝に対する鎮魂の思いもやがてこの寺に重ねられていくのだ。
四天王寺をおとずれるとなぜかホッとするのは、これら非情な歴史の敗者・弱者たちに対する人々の思いが、生きとし生ける者に対する慈愛の念となってこの寺固有の伝統文化に活かされてきたことによる。
もうひとつの見どころは太子殿の聖徳太子像と守屋祠
午前12時半より始まる舞楽は年々簡略化されてきたとは言え、道行から採桑老に終わる延々数時間にも及ぶもので、合い間を見て宝物館裏の奥殿・太子殿のある猫の門・寅の門で囲われた一隅をのぞいてほしい。
ここの絵堂には聖徳太子の生涯が四囲の壁に描かれ、その絵堂脇には聖徳太子と愛馬「甲斐の黒駒」像が安置されている。
聖徳太子が飛鳥と天王寺の間をこの愛馬にまたがり往還しているとき、大和河内の境である大和川の亀の瀬で愛用の尺八をとって、馬上で演奏すると、いつも一匹の老猿が現れてその音に合わせて舞ったという。そんな説話の太子と愛馬を彷彿とさせる像である。
その老猿とは信貴の山神で、その姿を天王寺楽人に命じて作らせたものが今に伝わる「蘇莫者(そまくしゃ)」。この舞楽は天王寺の舞人のほかは舞わないとされており、いわば天王寺固有の舞で聖霊会の時には必ず上演されてきたものである。雨脚の激しさに僕は見落としてしまったが、今年こそは是非観てみたいものだ。
仲睦まじい聖徳太子像と物部守屋祠
聖徳太子と甲斐の黒駒像の裏には、なんと僕たちが仇敵であると教えられてきた物部守屋の祠が安置されている。脇には元禄七年の銘の刻まれた石灯籠まで寄進されており、代々祈りが捧げられてきたことが知られるのだ。
守屋は仏教の法敵とされているが、聖徳太子の仏教興隆を影で支えた人物としてここには蘇っているのである。この一角は、普段は固く閉ざされ、4月22日と10月22日しか入ることができない。聖霊会へ行かれたら何はさておいても是非訪ねておくべきところだろう。
雅楽の粋を伝える雅亮会の演奏
大阪天王寺の専属の楽人は秦氏を名乗っていたことから、この舞楽を「秦姓の舞」と呼んできた。その伝統を今に伝える天王寺楽所雅亮会の存在は大きい。
聖霊会では、舞楽は左方(東)、右方(西)の二列に分かれて進行するが、雅楽も左右両楽舎に別れて演奏される。これら赤と緑の衣裳を身に着け交互に演奏する東西の楽人集団の競演もこの日はふんだんに聴くことができ、このライブ演奏に立ち会うだけでも十分に値打ちのある1日となるだろう。もし四天王寺を訪れるなら、4月22日の聖霊会の日がオススメだ。
おわりに
四天王寺は、湖底だった大阪平野の西方を南北にかぎる岬(上町台地)の端に位置し、平安時代以降は、西方浄土を願う人々の信仰を集めた。
段落2の写真の発心門とされた石の鳥居の中心に春秋の彼岸には太陽がかかり、そのまま西の海に沈むので貴賤を問わず日想観の修行が盛んだったところだ。
聖霊会は年に1度の行事だが、平野をはさんで東の生駒山と西の上町台地は有史以来の太陽信仰を基盤とするわが国の宗教文化が花開いたところ。この聖霊会を皮切りに是非、この界隈の散策をお勧めする。