Sat Chit Ananda
サーンキヤ学派はインド哲学の学派の一つで、カピラ仙によって開祖されたとされ、
世界の根源として、精神原理であるプルシャ(真我・自己)と、
物質原理であるプラクリティ(根本原質・自性)という、2つの実体原理を
想定した二元論であり、ヨーガ哲学はこのサーンキヤ学派に基づいています。
世界が生まれる前、宇宙には精神原理であるプルシャ、物質原理であるプラクリティの
二つの原理が存在しており、プルシャによるプラクリティの観照をきっかけとして、
世界はプラクリティから展開して生じたとされています。
プルシャとは純粋な精神エネルギーで、その存在は平穏であり永遠であり、
それ自身には思考はなく、自他を分けて認識する自我もない。
世界を照らし続けるただただ純粋な傍観者「見る者」にあります。
プラクリティは物質的な世界全ての根本、物質原理で、「見られる者」であり、
Sattva純質・Rajas激質・Tamas鈍質、という3つのグナ(性質)によって
構成され、プラクリティ単体で存在しているときは、この3つのグナのバランスが
とれて安定しているが、プルシャがプラクリティに気づき観照された結果、
プラクリティに乱れが生じ、様々な形へと展開されていったというのが、
サーンキヤ哲学の要となります。プルシャがプラクリティに気づいた、
プルシャがプラクリティと出会ったことによって、世界が現れたということは、
世界に私たちが現れたのではなく、私たちに世界が現れたということになるのです。
プルシャによって気づかれたプラクリティは転変していきます、
物質原理であるプラクリティから生まれたのが、Chittaという心の仕組みで、
Buddhiブッディ(覚)- 心の最も内側にある精神の根本原理・知性、
Ahankaraアハンカーラ(自我)- 自と他を区別し我と思う意識、
Manasマナス(思考)- 心の最も外側にある思考や感情・外と交流する心の手綱のようなもの、
というこれらの3つを合わせた心の総称をChittaと呼びます。ヨーガスートラ第1章2節の、
「योगश्चित्तवृत्तिनिरोधः ॥२॥ ヨーガとは、心の働きを止滅することである」
ここで説く心とは、これらの3つを合わせた、心の総称Chittaのことになります。
そしてプラクリティによって生まれたChitta(心)によって世界は展開していき、
物質世界は生まれていきます。Buddhi(覚)からAhankara(自我)が生まれ、
自我と外の世界を区別するためにManasマナス(思考・感情)と5つの感覚器官
(目・耳・鼻・舌・皮膚)が生まれ、外の世界と関係するための5つの行動器官
(把握器官/手・歩行器官/足・発声器官・生殖器官・排泄器官)が生まれ、
感覚器官に対しての5つの対象(色唯・声唯・香唯・味唯・触唯)が生まれ、
感覚の対象から世界を構成する5つの粗元素(空間・風・火・水・地)が生まれます。
宇宙全体も私たち自身も物質的なものは全て5大から創られており、
プルシャ、プラクリティ、ブッディ、アハンカーラ、マナス、5感覚器官、
5行動器官、5つの対象(5唯)、5つの粗元素(5大)、これら全てを足した25の原理で
世界が出来ていると考えられているのがサーンキャ哲学、数論学派となります。
要約すると、サーンキヤ哲学の理論では宇宙(世界)はプルシャ(精神原理)とプラクリティ
(物質原理)の2つの原理から成立ち、
そこから宇宙全体の意識→心→感覚器官→行動器官→物質という展開が
起きたということになります。
そしてこの展開の中で生まれていった、人間の根本的な自我意識のアハンカーラや、
思考・感情のマナス、5つの感覚器官、対象物、などによって迷妄が生み出され、
私たちの原理は、プラクリティの作り出した世界をただ傍観しているプルシャで
あるのにも関わらず、そのプラクリティの作り出した物資世界への執着が
起こるとされています。
サーンキヤ・ヨーガ哲学では、ただ宇宙や世界の成り立ちについて知ることが
目的ではなく、ヨーガを通して、プラクリティが作り出した物質世界の執着から
プルシャを解放することを目的としています。ヨーガの修行の道ではプラクリティの
転変と逆の順序を辿っていくのです。ヨーガを通して原点回帰していくということです。
ヨーガによってChitta(心)の働きを止め、プルシャを知ること。
心の働きはプラクリティから生まれたもので、全ては物質世界の幻想であり、
私たちが私たち自身だと思い込んでいる自分の心というものは、自分で自分を
照らすことは出来ない存在です。心は見られるものであり、月が太陽の光で自身を照らして
存在出来るように、プルシャに照らされて見られるもの、それがプラクリティであり、
心になるのです。プルシャとプラクリティこの2つの原理は永続して世界は
展開し続けていきます。プルシャは永久不変であり変化しません。
しかし、プラクリティは変化し続け、プラクリティの力によって
万物は繰り返し出現させられ、変化し続けていきます。
しかし万物は私たちの外にはなく、私たちの内にあるものであり、
「見る者」によって世界(見られる者)が出現し、世界は「見る者」の中に
あるということなのです。
目を開けたときに世界は現れて、瞑るときには帰滅していく。
朝・夜を繰り返すように、万物の群は例外なく繰り返し起こり続け、
昼にどれだけの展開を起こそうが、夜になると何もなかったように消えて無くなり、
全てはただ元に戻っていく。それぞれの世界が発現してしまった以上は
それは避けられない必然なのだから、ただ穏やかに夜を迎えいれて、
いつかまた訪れるかもしれない朝を待てばいいのではないでしょうか。
Ashoka