GーWーG
GーW—G(G=貨幣,W=商品)について調べてみよう。その前に、商品流通の直接の形態は、WーGーWである。商品から貨幣に転化されて商品に再転化する運動である。商品所有者が売り貨幣を得てさらに別の商品を買う。最初のWと最後のWとではGという貨幣の価値は変わらない。手持ちの商品を交換価値である貨幣にいったん変換して、次なる商品を買うのは普通の行いである。最後のW(商品)は、W1-W2-W3-W4-W 5…Wn、とひとつではなくG(貨幣)によってどれでも買える。ただしW1〜Wnの価値は同じである。そもそもこの交換価値が欲しいために最初のWをGに転化させたのであった。では、G—WーGという運動ではどうなるか。貨幣で商品を買い、それをまた貨幣に戻す。わざわざこんなことをする者はいないように思える。なぜなら初めのGと最後Gとが同じ価値ならば、まったく意味のない運動だから。これについてマルクスは次のように書いている「この流通は、一見しては無内容に見えるというのは、同じものの繰返しであるからである。両極は同一経済形態をもっている。それに双方ともに貨幣である。したがって、何ら質的にちがった使用価値ではない」。そして「GーWーGなる過程は、その内容を、両極の質的な相違から受取るのではなく、ただその量的な相違から受取るのである。なぜかというに、その両極はともに貨幣であるからである」と述べる。両極が量的にちがうとは、GーWーG’となることだ。G’は、G+ΔG’と最初の価値を超える増加分である。この増加分のことをマルクスは余剰価値と名づける。「最初に前貸しされた価値は、流通において自己保存をするだけでなく、ここでその価値の大いさを変化させ、余剰価値を付加する。すなわち、価値増殖をなすのである。そしてこの運動が、この価値を資本に転化する」。マルクスは商品が労働力の凝縮された形態であることを何度も書いている。貨幣についてはこう述べている「価値は、あるときは貨幣形態や商品形態を採り、あるときはこれを脱ぎすてるのであるが、とにかくこの交替の間に自己を保持し、自己を拡大してゆく。このような過程の積極的な主体として、価値は、とくに一つの独立した形態を要求する。これによって、彼の自分自身との同一性が、確証される。そしてこの形態を、彼はただ貨幣においてのみもつ。したがって、貨幣はすべての価値増殖過程の出発点をなし、またその終局点をなしている」。このGーG’、つまり貨幣をはらむ貨幣、お金を産むお金、の循環過程が資本の一般定式である主張する。だが、流通そのものからは貨幣の資本への転化、余剰価値の形成を説明できないという。「まだ資本家の蛹としして存在しているにすぎないわが貨幣所有者は、商品をその価値で買い、その価値で売らなければならぬ。そしてそれにもかかわらず、この過程の終わりには、彼が投入したよりも多くの価値を引出さなければならない」。さてどうするか?マルクスの高揚した声に耳を傾けよう!「…ある商品の消費から価値を引出すためには、わが貨幣所有者はきわめて幸運でなければならぬ。その商品の使用価値自身が、価値の源泉であるという独特の属性をもっており、したがって、その実際の消費が、それ自身労働の対象化であって、かくて、価値創造であるというのでなければならぬ。そして貨幣所有者は、市場でこのような特殊な商品を発見する-労働能力または労働力がこれである」!!!
引用「」は資本論(岩波文庫)