最澄と空海、そしてニッポンへ
http://web1.kcn.jp/tkia/mjf/mjf-51.html 【最澄と空海、そしてニッポンへ】より
▼最澄と円珍の弥勒信仰
平安仏教の両雄、最澄と空海も八幡神と秦氏に縁が深い。平安時代に入って、聖徳太子信仰を広めたのは最澄である。最澄は、法華経を通じて弥勒を強く信仰し、その始祖として太子を深く崇めた。思えば、ニッポン宗教にとって法華経とは実に偉大である。広汎な観音信仰もこの中にある。
最澄が延暦寺を建てた比叡山は、おそらく先住の山背秦氏の聖山であった。それを譲り受けたのだ。平安遷都の794年、王都鎮護の法要が最澄を施主として行なわれているが、ここに秦氏出の勤操、護命という二人の僧が招かれているのも、平安京が山背秦氏伝来の地であったからだ。最澄の唐留学も、秦氏と関係が深い和気清麻呂の子・弘世と真綱が桓武天皇に勧めたことで成ったものである。
804年、最澄は入唐に先立って、和気氏や秦氏出の僧勤操の勧めもあってか、弥勒信仰の盛んな豊前に立ち寄り香春岳に登っている。唐留学を終えて無事帰国した折りも再訪し、香春社に神宮寺・法華院(法華経を通じての弥勒信仰という意。神宮院)を建てている。そして帰京後は、和気氏の高尾山寺に日本最初の灌頂道場を設けている。
延暦寺の第五世座主・円珍は、唐からの帰国後、園城寺(三井寺)を開くが、その本尊は弥勒像であった。円珍没後、園城寺の寺門派は比叡山の山門派に対して天台宗正統を主張するが、この論拠の一つは最澄の弥勒信仰を円珍の園城寺が受け継いだことにあった。その園城寺の鎮守社・新羅善神堂の祭神は新羅明神と称する弥勒の化身である。そしてもう一つの鎮守は白山明神であり、その神官は秦河勝の子孫であった。
▼空海に伝授された虚空蔵求聞持法
前半生に不明な点が多い空海であるが、八幡神と秦氏を補助線にしてみると意外にも空海の別の相貌が見えてくる。若き空海は長岡京(平安京の前都。ここも秦氏の土地)で、前記の僧勤操から虚空蔵求聞持法(こくうぞう-ぐもんじほう)を学んだという。これは広大無辺の福徳・智慧を授かる秘法であった。その元は、帰国後に大安寺を開く僧道慈が入唐中(702~718年)に、インド僧・善無量三蔵から口承伝授されたものである。これを大安寺の善議-勤操を経て、空海へと伝授されたのだ。前記の僧護命も大安寺に居た。
道慈は大和国額田氏の出である。氏寺の額田寺を額安寺とし、手ずから造った乾漆虚空蔵菩薩半跏思惟像(現存)を祭ったという。額田氏は手工業者の熊凝(くまごり)氏と同族であり、その氏寺・熊凝寺は聖徳太子が発願したという。これが後ちの大官大寺の前身であり、道慈によって平城京に移されて、大安寺となった。虚空蔵菩薩と言えば、山背国法輪寺(秦氏出の道昌が開祖)のそれは漆器業や工芸職人の守護仏である。虚空蔵信仰は鍛冶・鋳造にも結び付き、山岳や弥勒信仰にもつながっている。
虚空蔵求聞持法の神髄は、錬金術にも似た神薬などの「製造法」にある。このことが手工業の守護仏であることにつながっている。インド僧・善無量は造仏などの天才であったと言い、道慈も菩薩像を造った。豊前の法蓮が「法医」として作った神薬もここに通じている。その法蓮は「虚空蔵」寺の座主であった(寺名には秦氏の手工業=非農耕民性もうかがえる)。大安寺は雑密(空海以前の密教)化した寺であり、八幡神につながっている。宇佐八幡神を石清水に勧請したのも、大安寺僧の行教であった。
▼空海、和気氏の高尾山寺へ入る
空海は806年に帰朝するが、すぐには入京せず、しばらくは九州に留まったらしい。807年、最澄が空海の師・勤操に遊行を止めて比叡山に戻るように言っているが、これは九州の空海の許へ向かったものらしい。二人は香春岳や英彦山などの秦王国を「山野遠遊」したのだろうか。その後、空海は勤操に導かれて和泉国槇尾山寺に移りここで受戒し、さらに山背国の高尾山寺へ入る。
高尾山寺は、河内国のヌテシワケ命を祭る例の高尾社近くにあった、和気清麻呂が八幡神の託宣により創建した神願寺(一名、高尾寺。高尾社が鎮守)を、子の真鍋と仲世が山背国の高尾山寺に移したもので、後ちの神護寺である。この寺は愛宕山とともに、秦氏に関わる山岳信仰の寺である。愛宕社の神宮寺・白雲寺の開祖は役小角と雲遍上人となっているが、後者は加賀白山の開祖・泰澄のことである。
どおりでか、愛宕山は「白山」権現でもある。多少遡るが、桓武天皇即位の781年、山背国への遷都を前にして愛宕権現で祭祀が行なわれている。このとき、「大安寺」僧・慶俊を本願主、和気清麻呂を祭祀奉行としている。桓武天皇の長岡・平安両京への遷都造営大夫は和気清麻呂だった。山背国の地は、秦氏の神地だったのである。和気氏は朝廷と秦氏の間を取り持つ役割を終始つとめていた。
▼東寺の鎮守は八幡社と稲荷社
空海は816年に高野山を開いた後、823年になって東寺(教王護国寺)を与えられる。空海の入京までの十余年に及ぶ「潜伏」は何なのだろうか。筆者は、桓武王朝の百済アイデンティティーの強さへの恐れを思う。裏を返せば、空海の新羅への近さだ。讃岐の佐伯氏の出というが、その実体は不明だ。以下に述べるが、空海こそ、法蓮の「嫡子」であり、ニッポン習合宗教の祖であった。
伏見稲荷社の創祀は711年である。にもかかわらず、『弘法大師伝抄』によれば、空海は筑紫(九州)で稲を荷った大夫に出会ったあと、その大夫が再び東寺に現れて稲荷山に去った。そして823年頃に空海が伏見稲荷社を造ったという。これを何を意味しているのか。九州・豊前で秦王国のイナリ信仰に出会い、すでに山背秦氏によって祭られていた稲荷社を東寺の鎮守としたということであろうか。
東寺の鎮守は二つあり、内鎮守が八幡社、外鎮守が稲荷社である。『高野大師行状図画』と『稲荷記』は、稲荷大明神は「魏国の大臣」と記す。どこから「魏」が出て来るのか。すでに述べたが、『熊野縁起』に熊野権現は北魏(あるいは唐)から英彦山へ飛来したとか、『彦山縁起』に北魏僧善正が英彦山の開山だとかあるように、「魏」は方位磁石の針のように秦王国を指し示している。
▼空海に「秘密」とはあったのか
空海は、門外不出の秘法・虚空蔵求聞持法を讃岐秦氏出の僧道昌に伝授している。道昌は、828年に例の神護寺で空海から両部灌頂と虚空蔵求聞持法を受けて、翌年から秦氏の松尾社北麓の葛井寺に参籠する。百ヶ日の虚空蔵求聞持法を修して、ついに虚空蔵菩薩を空中に感得、一木を刻して虚空蔵像を安置し、寺号を「法輪寺」と改めた(『源平盛衰記』)。法輪寺とは、聖徳太子追善のため大和国斑鳩に建てられた法輪寺(飛鳥時代の虚空蔵菩薩立像がある)の借名である。道昌は、836年には山背太秦氏寺・広隆寺の別当職に就いている。
空海の遺言『御遺告二十五ヶ条』の第十七条には「必ず兜率天に往生し、五十六億年の後、必ず弥勒慈尊とともに下生する」とある。空海は高野山を、弥勒の兜率天へ上生往生するための聖地としたのだ。「即身成仏」の空海とはずいぶんと違う。しかし後ちには、高野山そのものが兜率天内院に擬せられ、空海も弥勒の化身とされていく。これは、英彦山が兜率天とされ、法蓮が弥勒の化身とされたのと同じだ。
こうして見ると、空海の密教とは、自力の虚空蔵信仰と他力の弥勒信仰から成るものだったことが分かる。弥勒信仰は聖徳太子(タイシ)信仰となって普及していった。この信仰は、なぜか大工や鍛冶屋など手工業者の信仰なのである。しかしこれももう読者諸賢にはご明察であろう。そこに弘法大師(ダイシ)も流れ込み、太子・大師信仰となっていく。弥勒たる八幡神と秦氏がこれを裏打ちしていたのだった。天台宗と真言宗が、なぜ聖徳太子を問題にし、また山岳信仰に深く関わるのかもお分かりだろう。
最後に、法蓮の「嫡子」たる空海の習合宗教「密教」をもう一度考えておきたい。彼は何のために山野遊行をしたのか。アルの母子神を求めて、日子=太子=弥勒を求めて、常世=兜率天の出入口を求めて、神仏との回路たる鉱物を求めて…。シャーマニズム、アニミズム、道教、仏教、神道、朝鮮宗教などの坩堝(るつぼ)…。それが仏像による立体曼陀羅であり、護摩などの加持祈祷であった。秦氏の八幡神「雑密」信仰は、空海によって「純密」と姿を変えたのである。それはすでにニッポン宗教であった。しかし「秘密仏教」と言われる空海の密教に「秘密」はあったのだろうか。私たちが解体点検してきたように、空海に「秘密」なぞなかったのである。あったとすれば、私たちがニッポン人の中に流れ込んでいる「八幡神」を忘れていただけのことである。
[主な典拠文献]
大和岩雄『日本にあった朝鮮王国』白水社
鳥越憲三郎『古代朝鮮と倭族』中公新書