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棋士の聖域

2016.10.20 13:53

将棋棋士の三浦九段が、対局中にスマホで棋譜を検索したなどとして、竜王戦7番勝負への欠場が決定。

三浦九段は全面否定、追加の罰などは与えられない者の、棋士としての信頼は大きく揺らぐこととなった。

そこへきて羽生三冠がコメントを発表



さすが羽生三冠というべきか、彼がコメントすることはマスコミにとっての意味は大きく、広く伝わることとなった。

曰く、「限りなく黒に近い灰色」ではあるが「疑わしきは罰せず」との結論だった。

羽生三冠も渡辺竜王もその他の棋士も「実質的には黒である」と宣言したようなもので、身内からそういう声があがるということは、それなりの説得力を持つ疑いがあったということだろう。

もともとぼくは将棋ファンである。

自分の棋力は幼稚園児以下だが、見ていて楽しい。

棋譜をみるというよりは、そこにある人間性を見ているタイプだ。

三浦九段の印象としては、地味ではあるが着実で重量感のある棋士といったイメージであり、こういった事件の当事者になるとは思えない人だった。

とはいえ、ぼくは一体、棋士に対して何を期待していたのだろうか。

ぼくはサッカーも好きだ。

サッカーはある意味では将棋と真逆である。敵もだますし審判もだますし、マスコミにも嘘(言えないことも多いだろうけど)をつくし、それも含めてのエンターテイメントだ。

実際、警察沙汰になるような事件を起こす選手も多いし、特に「人間として」彼らに過度な期待もしていないため、そういった面があろうといいサッカーをしてくれるならば構わないと思っている。

では何故将棋でこういった事件が起こったとき、これほどショックだったのだろう。

それはやはり、棋士に対する自分のなかでの勝手な偏見があったからだ。

彼らはズルをしない。彼らは言い訳をしない。彼らは真面目である。勝手にそう思っていたのだ。

それは、棋界全体をおおっていた空気そのものであるとも言える。対局中に勝手に部屋に帰ったり、スマホを見たり、外出したりする権利があったこと自体がおかしいというか、不思議だったのだ。

それはまさに棋士にとっての「聖域」だったのだと思う。

いつ、どこで、何をしていようとも、時間内に盤面で勝ちさえすれば、それはもう、どうしようもなく勝ちだった時代なのだ。

残念だけれど、今はそうではなくなった。

すでに将棋ソフトは、特に終盤戦においてはほぼ間違いのない手を指すことは分かっている。

仮にソフトと同じ手を指さないにしても、選択肢として考えることが出来れば、より柔軟な手を発想することもできるだろう。

今後、対局中の外食やスマホの持ち込みは制限される。

もはや仕方ないと思う。

今まで棋士が守ってきた機械よりも優れていた棋力という聖域は、こうして一つの幕をおろす。

悔しい出来事であった。