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Okinawa 沖縄 #2 Day 88 (03/03/21) 旧大里村 (2) Fukuhara & Shimabukuro Hamlets 福原/島袋集落

2021.03.04 03:22

福原集落 (ふくはら、フクバル)

島袋集落 (しまぶくろ、シマブクル)


字古堅

1908年 (明治41年) の沖縄県及島嶼町村制の際に古堅村、島袋村を統合し、字古堅となる。その後、戦後に旧古堅村 (古堅区) から福原村が独立し、字古堅は3つの区で構成されるようになった。今日はこの字古堅の3つの村の内、旧島袋集落と旧福原集落の文化財を巡る。


福原集落 (ふくはら、フクバル)

福原集落は民家は集中はしておらず、農地の間に点在している。この民家の立地状況から見ると帰農士族が造っていた屋取集落の様だが、この集落に存在している6つの門中の当世墓が首里識名にあるのは一つだけなので、屋取集落かどうかは良く分からない。調べてみると、この集落は1920年 (大正9年) 代に村立てされたとあり、比較的新しい集落だ。別の資料では古堅の屋取集落と島袋の屋取集落の一部が独立して、古堅二区と称し、戦後になり古堅から分離し、この地の名であった福原と称するようになったと書かれていた。

福原の人口は1960年では旧大里村の中で真ん中ぐらいに位置している。民家が農地に点在しているので、これほど多くの人口とは想像できなかった。福原クで走行したのは文化財を結ぶ道だけだったので、それ以外にも集合住宅などがどこかにあるのかもしれない。人口はコンスタントに増えている。那覇とは近いところでは10km程なので、ベッドタウンになっているところも多い。

民家の増加を年代別に見ると、1919年の地図には福原はまだ村としての形はできておらず、集落は見当たらない。1975年には、民家が目立つ地区が3つもある、2000年以降も民家は増加している。

福原集落の北側から文化財を巡る。この福原集落は比較的新しいので御嶽や殿は存在しない。5つの井戸が文化財として紹介されている。資料から読み取ると、それぞれの井戸は集落にあった6つの班がそれぞれ個々に御願している。この班は同一門中で構成されているようだ。福原集落には6つの門中が存在し、それぞれが班を構成している。

南風原集落で行われている年中祭祀は下記の通りで、屋取集落なので祭祀は正月の初ウガミのみ。


福原集落訪問ログ


江戸井泉 (エドガー) [未訪問]

集落の北方に江戸井泉 (エドガー) があると「南城市の御嶽」には書かれていたので、地図に示された場所まで行き牛舎までは見つけた。畑の中を探したが、それらしきものは見つからなかった。かつては、この井泉は照屋ハルヤーと呼ばれた6班 (照屋門中) に拝まれていおり、若水等を汲んだという。現在でも拝まれているならば香炉があるはずなのだが、やはり香炉も見つからない。現在、農業用水として使用されているそうだ。


産井泉 (ウブガー)

江戸井泉 (エドガー) から集落中心地に向けて南に進むと産井泉 (ウブガー) がある。川乃端津波古井泉とも呼ばれている。津波古ハルヤー (津波古門中) と呼ばれた4班が拝む。若水等を汲んだという。


福原公民館

産井泉 (ウブガー) からさらに南の高台に公民館がある。昭和34年に初代公民館は建てられている。


照川 (テルガ-)

福原公民館がある高台から北西の道を下ると、道路の脇に、畑地に照川 (テルガ-) という井泉がある。呉屋 (ゴヤ) ハルヤー (呉屋門中) と呼ばれる3班が拝んでいる。現在は農業用水として利用している。


呉屋井泉 (グヤガ-)

公民館の南西に資材置き場があり、その入口に呉屋井泉 (グヤガ-) がある。この井戸も呉屋門中の3班が拝み、正月の若水等を汲んだという。


福地井泉 (フクチガ-)

集落の南東方向にかなり離れた畑に井戸の拝所がある。畑地にある井泉で福地井泉 (フクチガ-) とよばれている。この井泉は1班が拝んでいる。水や正月の若水を汲む井泉だったという。1班がどの門中なのかは書かれていない。2班と5班が拝む井戸も紹介されていないが、どこにあるのだろう。紹介されていなかった残りの3つの門中は銘苅、大城、照喜名だ。


次は島袋集落に移動。


島袋集落 (しまぶくろ、シマブクル)

集落は緩やかな斜面に囲われた摺鉢状になっている東にある島袋之嶽の丘陵がそのまま北側と南側に続き西に下っている。民家は北側に集中して緩やかな斜面に南向きに建てられている。これは昔の琉球では典型的な集落の造りだ。民家の区画は規則正しい碁盤状では無く、不規則な区画になっているので、三山時代から琉球王朝前半に形成された様に思われる。古島からこの場所に移って来た時代や理由については資料には無かったが、琉球王朝による強制移住は18世紀の薩摩侵攻以降に行われ、移住させられた傾斜地は碁盤目状に区画されているので、それ以前に自主的に移って来たのではと思う。琉球村々世立始古人伝記によれば世立初は勝連同村より来る内間大主在所根所。地組始は大里西原村より来る与那城大屋子在所島袋 (代) と言う。

島袋地区の人口の増加は著しく、本土復帰後、急増加し、その後緩やかに増加が続き、2015年以降、再度、急増加している。1960年では人口は少ない方之グループだったのが、現在では3番目に多い地区になっている。人口増加率では、稲嶺地区に次いで2番目に大きい。大里村は住宅地区が開発されたことが大きな要因で航空写真地図を見ても、集落の周りには住宅が多くみられる。

大里村史 通史に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: 島袋之嶽、仲村渠之殿 (所在不明)、タタラ嶽 (在 嶺井)、タケキヨラ嶽 (所在不明)
  • 殿: 島袋巫火神、幸地之殿外間之殿、上新垣之殿 (所在不明)、中新垣之殿 (所在不明)、下新垣之殿 (所在不明)、タラ之殿 (在 嶺井)

島袋集落で行われている年中祭祀は下記の通り。主要なウマチーでは嶺井集落の拝所を御願している。嶺井集落とのつながりが強いようだ。多くの祭祀では4つの門中の神屋が御願されている。この4つの門中が村の中心的役割を果たしていたと思われる。


島袋集落訪問ログ


島袋之嶽

現在の集落から外れた東側に小山があり、その頂部に島袋之嶽がある。琉球國由来記の島袋之嶽 (神名:シマネトミノ御イベ) に相当すると考えられている。島袋之嶽は、島袋ノ口によって司祭されていた。島袋ノロはこの島袋集落のみ管轄していた。

御嶽への道は綺麗に整備され、そこを進むと御嶽に着く。しかし祠や香炉は無く、ガジュマルの大木の根元を拝んでいる。香炉や祠が無いのは何故だろう?


幸地之殿

島袋之嶽から丘陵の麓に下る道がある。そこを進むと広場にでる。コンクリート製の祠が建てられている。琉球国由来記の幸地之殿と考えられている。島袋ノロによって稲二祭 (ウマチー) が司祭されていた。


外間の殿

幸地之殿から更に麓への道があり、そこを進むと、ここにも広場に出て、四つの拝所がある。

その一つは外間腹門中と関係がある拝所で、琉球国由来記の外間之殿に相当するとみられている。ここも島袋ノロによって稲二祭 (ウマチー) が行われた。


謝名殿

外間之殿の向こう側には謝名殿がある。川ヌ前ヌ殿、儀間腹ヌ殿とも呼ばれている。


井戸跡

この付近には3つの井戸跡があると書かれていたので探してみた。ひとつだけ見つかった。謝名殿の奥の木の根元に枯葉で覆われていた。枯葉を取り除き写真撮影。


山根の殿

集落東方の小山にある拝所。小山にある数々の拝所を巡拝する際、最後に拝むという。


島袋古島

この拝所群がある丘陵の南側は島袋集落が始まった場所で古島だ。もともとは大里村の北にある嶺井からこの古島に移住してきた。その後この古島内でもう一回移住し、そして現在の集落の場所に移住し。合計三回村を移したとある。御嶽や殿がある丘陵の麓は数軒の住宅が建っている。新しいお洒落な建物だ。最近建ったのだろう。その前は一面畑になっている。

ここの畑の中には一回目の移住場所 (写真上) と二回目の移住場所 (写真下) にそれぞれ井戸が残っているそうだが、畑の中を探すが見つからなかった。(井戸の写真は資料から借用)


一回目の移住古島場所


二回目の移住古島場所

ここから島袋集落に向かう。集落の南から見てみる。



島袋公民館

集落の南端の高台に公民館がある。公民館の前はゲートボール場と公園になっている。昔は何だったのだろう? アシビーナか? サーターヤーか? 


名不詳の井戸跡

公民館から集落に下る途中に二つの井戸を見つける。「南城市の御嶽」では名は不詳となっていたが、香炉も置かれて御願されている。


学校井泉 (ガッコ-ガ-)

公民館の北東、集落の東の端にかつての共同井泉があり、住民の飲料水や豆腐作り等に使われた。この場所には大南尋常小学校があり、学校でも使用された。それで、この井戸は学校井泉 (ガッコ-ガ-) と呼ばれている。


山根の神屋

学校井泉 (ガッコ-ガ-) から少し西に進んだところに山根腹の元屋の屋敷がありその敷地内に神屋がある。門中の神屋である。山根腹は三元腹ではないが、現在では、山根腹も含めて四元腹とも呼ばれるようになっている。


産井泉 (ウブガー)

山根の神屋から更に西に進み、集落のほぼ中央に産井泉 (ウブガー) がある。この井戸では産水を汲んだので産井泉 (ウブガー) と呼ばれている。1964年に水道が整備されてからは農業用水として使用されている。井戸は網フェンスで囲われている。大里村の水が残っていまだに使用されている井戸はこの金網フェンスで囲われているものがほとんどだ。井戸の前には石の祠が置かれている。


外間 (ホカマ) の神屋

産井泉 (ウブガー) の近くに外間門中の屋敷がある。この敷地内にも神屋がある。外間門中の元屋という。ここで神屋を見ていると、家の中から人が出て来た。声をかけると、いろいろと話をしてくれた。この外間腹は、島袋の村立てをした三家の三元腹の内の一つで最も大きな門中で、平良、国場、高嶺など7つの地域に分家がいるそうだ。ウマチーの際はこの家に集まって祖先を拝んでいるそうだ。それ以外にはこの家で拝んではいるが、外間門中以外はこの上柳井には入れないしきたりになっていると言っていた。あらためて、沖縄での門中の繋がりが強いことがわかる。


火の神

外間 (ホカマ) の屋敷の前に空き地があり、その草むらに火ヌ神と呼ばれる拝所があるそうだが、草が深く、どれが拝所なのかは分からない。火の神は通常、三つの石で竈の形をあらわし、祀っているのだが、どうもここの拝所はそのような形にはなっていないようだ。なぜか火の神と呼ばれてはいるのだが、綱ヌ神が祀られているという。9月未日の種子取り (タントゥイ) で拝まれている。空き地には神屋が建てられていた。


幸地 (コウチ) 腹門中神屋

集落の西の端に幸地腹門中の神屋がある。比嘉 (フィージャ) の神屋とも呼ばれている。幸地腹は三元腹の1つだそうだ。現在の門中リストでは幸地腹ではなく比嘉腹となっている。ノロは通常、この集落の新垣腹から出たが、島袋の最後のノロは幸地腹門中の女性だったそうだ。幸地腹は、玉城字垣花の恩納 (ウンナ) 門中となんらかの関係があるというが、島袋では詳細は伝わっていない。恩納門中では、幸地腹は恩納の支流であると伝わっている。


幸地腹門中神屋の向かいの拝所

比嘉 (幸地腹) 門中の神屋の向かいにある拝所。清明祭で拝まれている。9月9日の、金ヌ御願でも拝まれているそうだ。


川ヌ前の神屋

集落北の丘陵の上には川ヌ前の神屋がある。 川ヌ前は、三元腹のうちの一つの謝名 (ジャナ) 腹門中の元屋だ。


龕屋の跡

川ヌ前の神屋は集落の端にあり、その北側は島袋、古堅、嶺井の境界で、そこにはかつては龕屋があったそうだ。今は龕屋はなく、空き地になっている。龕はこの袋、古堅、嶺井の3つの集落の間で一年交代で管理されていたそうだ。


石獅子 (未訪問) / ヒャクドメー (未訪問)

川ヌ前の神屋の北側は雑木林の丘になっている。この雑木林の中に、石獅子とヒャクドメーと呼ばれる拝所があると書かれていた。この林の中に入る道はあり、中に進んだが、異議で覆われて、それ以上中に進むことができない。石獅子はかつては村落祭紀で拝まれていたが今は拝まれていないそうだ。ヒャクドメーは 3月未日に行われる百度参りで拝まれているそうなのでそう呼ばれてる。


資料に掲載されていた石獅子とヒャクドメーの写真を借用


タキグサイ (未訪問) / ウンナシン (未訪問)

集落北方にはキグサイとウンナシンという拝所があるのだが、ここも雑木林で覆われて中への入り口が見つからず断念。ウンナシンは宜保の古屋敷で民家の敷地にあるそうで、 9月9日の、金ヌ御願で拝まれている。タキグサイについては、詳細は不明だそうだ。

これで見学は終了したが、今日は4つの拝所は見つからなかった。他の集落に比べて、御嶽屋殿以外の小さな拝所はなかなか維持が大変なような印象を受けた。


参考文献

  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • 大里村史通史編・資料編 (1982 大里村役場)