水蓮花を摘んで (二)
30分ほど山の中を駆けたあと、アスファルト舗装された山道に出たところで小鉄は立ち止った。小鉄のすぐ後ろについていた狭霧は小鉄にぶつかりそうになりながら止まった。
二人が辿り着いた山道はあまり使われていないのか、道の両脇から下生えが覆いかぶさっていた。狭霧が小鉄の後ろから前方を見ると、緩やかに上りながら先へ伸びている道の途中にもっと急な脇道があり、道を上った先にある木々の間にわずかに空が見えていた。
小鉄は脇道のほうに進み始めた。以前通ったことがあるのか迷いのない足取りだった。
小鉄のあとについて狭霧も脇道を上り始めた。近づいてみると、上りきったところにある木々の間の空間と見えていたものは、旺盛に枝を伸ばした木々に半ば隠された古い山門であることに気が付いた。
山門をくぐると、小鉄は一旦立ち止って狭霧を待った。追いついた狭霧は、小鉄に並んで立ち止り、辺りを見渡した。元は境内だったのだろうその場所は、一面に雑草が生え、ところどころに玉砂利を敷いた地面が見えていた。前方には本堂らしき建物もあったが、やはり傷みが目立ち、屋根瓦の一部が地面に落ちていた。
「小鉄。このお寺は?」
狭霧が聞くと、
「この間、この近くへ来て偶然見つけたんだ。多分、誰もいなくなってから何年も経っているんだろう」
小鉄はそう返事をすると、手入れする者がいないため雑草の生い茂るままになった境内の中を歩き始めた。狭霧も少し遅れて小鉄の後を追った。小鉄は本堂の横を通りすぎ、裏手に向かっていった。狭霧もそれに続いて通り過ぎながら本堂に眼をやった。風雨で破れたのだろう、木戸の裂け目から中が見えた。覗きこむと、廃寺となったときに持ち出したのか、中に本尊はなかった。
がらんどうになった本堂に気を取られて立ち止っていると、既に裏手に回っていた小鉄が呼ぶ声が聞こえた。狭霧は慌ててその場を離れて裏手へ急いだ。
本堂の角を曲がると、少し先で小鉄が狭霧を待っていた。その小鉄の背後に広がる光景を目にして、狭霧は息を呑んだ。そして、小鉄が何故この場所を自分に見せようと思ったのか即座に理解した。
本堂の裏手の地面も境内と同じように雑草が旺盛に茂っていたが、少し前方で途切れて、そこから先は満々と水を湛えた池になっていた。その池の一面に、白、黄、ピンクと、色とりどりの水蓮の花が満開に咲き誇っていた。
「うわあ・・・」
思わず感嘆の声を上げた狭霧を満足そうに見ながら小鉄は言った。
「すごいだろう。何年もの間、誰も見る人間がいないまま、この池では毎年こんな見事に水蓮の花が咲き続けていたんだ」
小鉄が言わんとするところは、狭霧にも理解できる気がした。人のいなくなった廃寺に残された水蓮の池。目の前の夢幻のような光景が人目に触れることなくひっそりと存在していた歳月を想像すると、どこか胸を締め付けられるような不思議な感傷を呼び起こした。
水蓮の池に魅せられて、狭霧は知らず知らずのうちに池に近寄ろうと前方に歩き出していた。
「危ない!」
足元をよく見ずに池の際まで近寄った狭霧の腕を小鉄が掴んで止めた。小鉄に止められて狭霧は自分があと少しで池に足を踏み入れるところだったことに気がついた。
池の縁から少し離れると狭霧は言った。
「この池深いのかなあ」
「どうかな」
小鉄が首を傾げたとき、
「狭霧さまー!小鉄さまー!」
境内のほうから二人を呼ぶ声が聞こえ、本堂の脇から一人の大柄な子供が姿を現した。
「長柄・・・」
「やはり、こちらでしたか。先ほど山でお二人がこちらの方向へ向かわれるのをお見掛けしましたので」
そう言いながら、長柄は狭霧と小鉄の側まで来た。長柄は二人より年齢は少し上なだけだが、かっちりとした身体つきは既に子供を脱して少年の域に差し掛かっていた。長柄の家の者は代々剣望家に仕えており、長柄自身もごく幼い頃から狭霧の世話係を務めていた。
「ねえ、長柄はこの池のことを知ってたの?」
狭霧が尋ねると、長柄は池に視線をやった。
「いえ、この場所に来るのは初めてです。・・・見事な水蓮ですね」
長柄は生真面目な顔つきでそう答えると、すぐに視線を戻し、
「それより、お二人とも、そろそろ講義の始まる時間です。早くお戻りにならないと」
「ああ、そうだった。・・・狭霧、戻ろう」
小鉄は狭霧に声を掛け、本堂のほうに急いで戻り始めた。
「うん・・・」
狭霧は返事をして先に行く長柄と小鉄について歩き出しながら、何となく去りがたい思いで後ろを振り返った。
「狭霧、講義に遅れるぞ」
既に本堂の横へ曲がる角まで達した小鉄が再度狭霧を呼んだ。
「う、うん。今行く」
狭霧は最後に一度だけ水蓮の池を振り返ると、慌てて二人の後を追って走りだした。
翌日の午後。修練を終えて小鉄は一人で里の外れを歩いていた。その日は長老が午後から寄合で不在のため、いつもの鍛錬ではなく、小鉄は狭霧とは別に自分の母親から特別な訓練を受けていた。狭霧は何の修練をしているのか知りたがったが、小鉄はその内容を明かしていなかった。母親から教えられる特殊な忍びの技能を学ぶこと自体にはそれ程抵抗はなかったが、それを狭霧に教えることは何となく面映ゆかった。とはいえ、いつかは狭霧にも知られる日がくるだろうが・・・
その狭霧は、先ほど覗いた屋敷の部屋に姿がなく、里のどこにも見当たらなかった。昨日のように山へ向かったのかもしれないと、小鉄がその方角に足を向けると、前方から長柄が歩いてくるのが見えた。
「長柄。狭霧を見なかったか」
小鉄が尋ねると、長柄は小鉄の側までやってきて足を止めた。
「いえ、俺も狭霧さまをお探ししてたところです。実は、薬草取りにご一緒するお約束だったんですが、狭霧さまがいらっしゃらなかったので」
長柄はそう答え、里の反対側の麓のほうを探してみるつもりだと言って小鉄と別れた。
剣望の家の者は代々本草に長け、狭霧もまた幼いころより薬草の採取や調合といった作業に親しんでいた。小鉄が独自の修練を積んでいるのと同様、狭霧は狭霧で小鉄とは別な技能を学んでいた。そのうちの一つが甲賀に伝わる忍薬を含めた和漢薬の製造に関するものだった。狭霧自身も興味があるらしく、熱心に取り組むのが常だった。
その狭霧が長柄との約束をすっぽかした?
小鉄は長柄とは反対に山へ向かって足を速めた。脳裏には、昨日の水蓮の池での狭霧の様子が浮かんでいた。池に落ちそうになるのも気が付かないほど、水蓮に魅せられていた狭霧。もし、一人であの池に向かったのだとしたら・・・
何故か胸騒ぎを感じ、小鉄は水蓮の池のある廃寺への道を急いだ。