行く春や鳥啼き魚の目は泪ー句解
https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12519938772.html 【行く春や鳥啼き魚の目は泪-句解8】より
○日本古典文学全集41「松尾芭蕉集」(校注・訳者:井本農一、堀信夫、村松友次:小学館)、紀行・日記編「おくのほそ道」では、芭蕉の『行く春や鳥啼き魚の目は泪』の句について、次のように句解している。
行く春や鳥啼き魚の目は泪
(春はもう逝こうとしている。去り行く春の愁いは、無心な鳥や魚まで感ずるとみえ、
鳥は悲しげになき、魚の目は涙があふれているようである。)
●芭蕉が「おくのほそ道」の旅に出立したのは、原文では、弥生三月二十七日の日のこととあるから、ちょうど、「行く春」と「来る夏」とが混在する時期になる。「曾良旅日記」を参照すれば、離別の時間は、おそらく午後になったと思われる。ところは奥州街道第一の宿、千住である。ここまで、「むつましきかぎり」が見送りに来ている。その人々が最後に、「途中に立ち並びて、後影の見ゆるまではと、見送」ってくれたとある。その時、「矢立ての初め」として詠んだ句が、『行く春や鳥啼き魚の目は泪』の句である。
●前詞にもあるように、その時、芭蕉の感慨は、「前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ」状態であった。感に堪えずに、自然と芭蕉の口から出た句が上記の句と言うことになる。
●上記の句解を読むと、誰もが一種異様な戸惑いを覚えるのではないか。句解にあるのは、行く春を惜しみ、悲しむ鳥や魚が描かれているだけである。そこには離別する芭蕉の悲しみも、見送る人々の泪も見えない。そんなおかしな話はないだろう。この句解は、肝心なものを遺失してしまっている。誰もがそう思うに違いない。
●しかし、上記の句解は、正確に芭蕉の句を訳しているし、正確に句解している。問題は、むしろ、芭蕉の「おくのほそ道」の方にある。素直に、『行く春や鳥啼き魚の目は泪』の句だけを取り上げて、正確に解釈したら、上記の句解のように表すしかないのである。
●では、芭蕉は、なぜ、こういう表現をしたのであろうか。芭蕉ほどの文章の達人がそんな、誰にでも認知されるようなつまらない錯誤を犯すはずはない。実は、芭蕉はここで、アウフヘーベンと言う高等技術を駆使したに過ぎない。それに気付かない限り、ここの句解は難しい。
●この芭蕉の、「おくのほそ道」の『旅立ち』前詞に続けて、「行く春や」の句を読んだら、何か違和感を抱くようでなくては、まともにこの文を理解することは出来ない。そして、次にその違和感の原因を探り、解消しようとしないかぎり、真の「おくのほそ道」理解など、到底出来ない相談である。
○そういう意味では、日本古典文学全集41「松尾芭蕉集」は、正確に『行く春や鳥啼き魚の目は泪』の句解をしている。ただ、「おくのほそ道」の『旅立ち』で、芭蕉が意図したことがそれだけだったと考えるのは早計であろう。芭蕉には、そのように、人々に違和感を抱かせることによって、始めて気付くことの出来る、アウフヘーベン的高等技術を、ここに駆使しているのではないか。それを理解しないかぎり、この句は鑑賞出来ないように造作されている。最近、この句はそういうものだと思えてくるようになった。そういうふうに思うまでには随分と時間がかかった。
https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12519938779.html 【行く春や鳥啼き魚の目は泪-句解9】より
○続けて、現代語訳 日本の古典18「松尾芭蕉集」(訳者:山本健吉:河出書房新社)に、「おくのほそ道」矢立ての句を見てみたい。
行春や鳥啼き魚の目は泪
(春の行く季節に、自分も遠く旅立って行く。行く人も送る人も、離別の悲しさはひとしおだが、行く春の悲しさに、無心の鳥も啼き、魚も目に泪しているようである。)
●比較するために、前回紹介した日本古典文学全集41「松尾芭蕉集」矢立ての句も併記すると、行く春や鳥啼き魚の目は泪
(春はもう逝こうとしている。去り行く春の愁いは、無心な鳥や魚まで感ずるとみえ、
鳥は悲しげになき、魚の目は涙があふれているようである。)
●比べて見ると、よく分かるのだが、日本古典文学全集41「松尾芭蕉集」より、現代語訳 日本の古典18「松尾芭蕉集」の方が、一歩踏み込んだ句解となっていることが分かる。
●前回紹介した「日本古典文学全集41「松尾芭蕉集」矢立ての句では、現在を「行く春」と認識し、そこから春愁を導き出し、「無心な」鳥魚までもが、春愁によって、悲しみ啼いているとする。春愁啼鳥であれば、何と言っても大伴家持の名歌であろう。
春の野に霞たなびきうら悲し この夕かげに鶯鳴くも(4290)
●「日本古典文学全集41「松尾芭蕉集」矢立ての句解は、何ら離別に言及しない。それもそのはずで、元来、「行く春や」の句に、離別の情は全く存在しない。だから、その意味では、この句解は正しい。
●それに対して、現代語訳 日本の古典18「松尾芭蕉集」は、『自分も遠く旅立って行く。行く人も送る人も、離別の悲しさはひとしおだ』と明確に離別の情を特記する。句の何処にも離別の文言など存在しないのに、どうしてそれが可能なのだろか。単に前後の文脈から推測して挿入したのではない。そんな勝手我が儘なことは許されない。
●現代語訳 日本の古典18「松尾芭蕉集」が、そうしたわけは「行く春」の表現にある。もちろん、「行く春」は、弥生三月の別称であり、晩春・暮春の謂いであるが、決してここではそれだけを意味しているのではない。その契機となっているのは、当然句の前後にある詞書きになる。句の直前の一文は、「千住と言ふ所にて船を上がれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻の巷に離別の泪を注ぐ。」で、句の直後は、「是を矢立の初めとして、行く道なほ進まず。」とある。だから、句の「行く春」と言う表現は、単に季節が「行く」意味を提示しているだけではない。芭蕉自身が「(旅に)行く」ことも意味していることになる。ある意味、「行く春や」は「ユクトキヤ」とでも読むべき語句なのである。そう読まないかぎり、地の文と句とは、意味上無関係になってしまう。敷島の道では、これを掛詞と言う。
●『行く春や鳥啼き魚の目は泪』の句を鑑賞することは、このようになかなか難しい。ただ、この句が「奥の細道」と言う俳諧紀行文中の一句であることを考慮すれば、日本古典文学全集41「松尾芭蕉集」の句解より、現代語訳 日本の古典18「松尾芭蕉集」の句解の方が、より適切であると言えよう。
○だからといって、現代語訳 日本の古典18「松尾芭蕉集」で、『行く春や鳥啼き魚の目は泪』の句解は十分かと言うと、全く不十分であると言わざるを得ない。なぜなら、上記の句解では、思想も俳趣もほとんど感じられない。芭蕉にとって、思想も俳趣も存在しない句など、無意味である。そんなつまらない句など、芭蕉が作るはずもない。それに、この句は、何と言っても、「奥の細道」の矢立ての句である。芭蕉が渾身の力を込めて作った句なのだから。
https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12519938787.html 【行く春や鳥啼き魚の目は泪-句解10】より
○松尾芭蕉「奥の細道」旅立ちの図は、次のように活写されている。この図会を正確に読み解くことは意外に難しい。ここでは、句のみに限定して述べてみたい。
弥生も末の七日、曙の空朧々として、月は有明にて光をさまれるものから、富士の峰幽かに見えて、上野・谷中の花の梢、またいつかはと心細し。睦まじき限りは宵より集ひて、舟に乗りて送る。
千住と言ふ所にて船を上がれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻の巷に離別の泪を注ぐ。 行く春や鳥啼き魚の目は泪
是を矢立の初めとして、行く道なほ進まず。人々は途中に立ち並びて、後ろ影の見ゆるまではと見送るなるべし。
●岩波古典文学大系本45、「芭蕉句集」頭注(校注:大谷篤蔵:岩波書店)には、次のように句解する。 春も過ぎ行く頃、惜春の情にたえかねて鳥はなき、魚は目に一杯泪をたたえている。それはまた芭蕉たちの別離を悲しむ姿でもある。惜別の情を魚鳥に託した。陶淵明「帰田園居」の第一「羈鳥恋旧林、池魚思故淵」などの句によるか。『安達太郎根』に下五「目に泪」とするは杜撰。
●日本古典文学全集41「松尾芭蕉集」(校注・訳者:井本農一、堀信夫、村松友次:小学館)、紀行・日記編「おくのほそ道」では、芭蕉の『行く春や鳥啼き魚の目は泪』の句について、次のように句解している。
春はもう逝こうとしている。去り行く春の愁いは、無心な鳥や魚まで感ずるとみえ、鳥は悲しげになき、魚の目は泪があふれているようである。
●現代語訳 日本の古典18「松尾芭蕉集」(訳者:山本健吉:河出書房新社)に、「おくのほそ道」矢立ての句を見てみたい。
春の行く季節に、自分も遠く旅立って行く。行く人も送る人も、離別の悲しさはひとしおだが、行く春の悲しさに、無心の鳥も啼き、魚も目に泪しているようである。
○この「旅立ち」の文は、もちろん、離別の情を切々と訴えたものになっているのだが、「行く春や鳥啼き魚の目は泪」という句は、その中で、惜春の情を詠じていて、極めて異質な感がする。もともとここには、「鮎の子のしら魚送る別哉」の句があったのを、芭蕉が「奥の細道」を書いたとき、差し換えたものである。文の流れとしても、場面的にも、ずっと「鮎の子のしら魚送る別哉」の句の方がかなっている。それをわざわざ「行く春や鳥啼き魚の目は涙」という句に改めたからには、芭蕉自身にそれだけの自負があったからに他ならない。
○それは、やはり句の大きさ・普遍性にあるのではないだろうか。
鮎の子のしら魚送る別哉
行く春や鳥啼き魚の目は泪
並べて鑑賞すれば明らかだが、「鮎の子の」句には、挨拶と季節感が溢れている。それに対して、「行く春や」句が詠むのは、あくまで行春であり、感傷癖に過ぎない。「奥の細道」矢立ての句に、芭蕉が採用したのは、後者「行く春や」句の方であった。「鮎の子の」句の、芭蕉に馴染み深い隅田川界隈の風情を抛擲して、「行く春や」句の普遍性を採ったと言える。
○ある意味、芭蕉の選択は正しい。それほど「行く春や」句は秀逸である。この句には、それまで誰もが描いたことの無い俳諧紀行文を創作しようという芭蕉の意気込みがうかがえる。それは俳諧集「猿蓑」の序文(冒頭)、
俳諧の集作ること、古今に渡りて、此の道のおもて起くべき時なれや。
幻術の第一として、その句に魂の入らざれば、夢に夢見るに似たるべし。
久しく世に留まり、長く人に移りて、不変の変を知らしむ。
五徳は言ふに及ばず、心を凝らすべきたしなみなり。
の「俳諧の集」を「俳諧紀行文」に改めるだけで、そっくりそのまま「奥の細道」の序文にすることが出来ることからも明らかである。芭蕉が「行く春や」句に期待するのは、「幻術」であり、「久しく世に留まり、長く人に移りて、不変の変を知らしむ」方便なのである。残念ながら、「鮎の子の」句には、それがない。
○「行く春」は、永遠のテーマであって、未曾有の俳諧紀行文「奥の細道」矢立ての句に、如何にも似つかわしいテーマである。それは、また次年に、「行春を近江の人とおしみける」(「猿蓑」元禄三年)とも表現される。この時、芭蕉の眼には、当然、
春草の 繁く生いたる
霞立つ 春日の霧れる
百敷きの 大宮処 見れば悲しも
と言う風景が見えている。こういう風景が見えない限り、芭蕉は語れない。
○芭蕉が『行く春や鳥啼き魚の目は泪』で見た「行く春」とは、一体何であろうか。
武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大きなる河あり。それを隅田川と言ふ。【中略】皆人侘びしくて、京に思ふ人無きにしもあらず。さるをりしも、白き鳥の嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。【中略】
名にし負はばいざ言問はむ都鳥我が思ふ人はありやなしやと
「行く春」とは、必ずしも季節だけを指すのでもあるまい。それは往時を指示するものでもあるわけだ。芭蕉が「鳥啼き魚の目は泪」と続けるのにもわけがある。隅田川であれば、故事に則り、やはり鳥を案内し、惜別の情を詠まずにはいられない。
○こういう手法は、別に芭蕉の発明でも何でも無くて、敷島の道では、歌枕と言う。歌枕には作法があって、ある歌枕では、必ずその歌枕特有の事物を詠い、その歌枕特有の風情を織り込むようになっている。例を挙げると、歌枕「姥捨」では、必ず『田毎の月』を詠み、『なぐさめがたき』風情を表現するように決まっている。
○芭蕉は、それに倣って、歌枕「隅田川」で、『鳥』を詠み、『思ふ人無きにしもあらず』風情を詠ったに過ぎない。
○それをそっくりそのまま掲載するのであれば、特に芭蕉が登場する必要などない。何よりもまず、「幻術の第一として、魂を入る」必要性がある。それが「行く春や鳥啼き魚の目は泪」句の表現となった。「魂を入る」とは、俳諧にすることに他ならない。そうした時、「白き鳥の嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる」鳥は、「啼鳥」となり、『思ふ人無きにしもあらず』風情は、離別の情に化けた。他にも、両者に「魚」が存在することも留意しておく必要があろう。
○もっと化けたのは、主人公そのものに他ならない。かつて、「身をえうなきものに思ひなした」若い貴公子は、ここでは、年老いた世捨て人となっている。何のことはない。『行く春や鳥啼き魚の目は泪』は、「伊勢物語」の『東下り』を、完全にその下敷きにしているのである。
○芭蕉は、旅立ちの文で、何故か一言も隅田川に言及しない。格好の文芸素材が目の前にあるのに、手をこまねいているような芭蕉ではない。それをすれば、「行く春や」句が、完全に死んでしまうことをよくわきまえているからである。芭蕉の用意周到さがうかがい知れる句となっている。
○まだまだ、この句の説明は、半分も済んでいないのだけれども、字数が気になるので、次回に繋げたい。
https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12519938793.html 【行く春や鳥啼き魚の目は泪-句解11】 より
○前回、伊勢物語・東下りの話をしたが、それは日本古来の風雅である敷島の道を踏まえた表現であった。しかし、奥の細道矢立ての句、「行く春や鳥啼き魚の目は泪」が案内するのは、それだけではない。漢詩文の世界をも見事に踏まえている。
○中句「鳥啼き」がそれに当たる。僅か三文字に過ぎないこの句は、結構、奥行きが深い。多くの本が、杜甫の「春望」の一節、『感時花濺涙 恨別鳥驚心』や、「文選」の古詩、『王鮪懐河岫 晨風思北林』、「古楽府」の『枯魚過河泣 何時還復入』、陶淵明の「帰田園居」の『羈鳥恋旧林 池魚思故淵』などを紹介するが、本来のそれぞれの詩意からすれば、「行く春や鳥啼き魚の目は涙」の句意とは、随分と隔離しているのが気になる。
○「鳥啼き」だけを採用するなら、「啼鳥」だろうから、何と言っても次の一句ではないか。
春暁 孟浩然 春眠不覚暁 処処聞啼鳥 夜来風雨声 花落知多少
○ここにあるのは、春の朝であるけれども、遠くでけたたましく啼いている春の鳥はウグイスであろう。ウグイスはもの寂しく鳴いているのではない。明るく陽気で澄んだその声を、「啼鳥」と表現しているのである。その証拠に、「処処」(あちらこちら)から鳥の啼き声は聞こえてくる。寝坊の主人公と好対照に描かれているのが、この生き生きとしたウグイスの啼き声である。気怠くもの憂い主人公は、元気で溌剌としたウグイスが嫌いで、鬱陶しく、疎ましく感じている。
○「行く春や」の句でも、鳥は元気そのものである。春であるから、ウグイスの声は、始終、あちらこちらから聞こえてくる。だから「鳥啼き」と表現されている。決して、それは、「鳥鳴き」でも、「鳥泣き」でもない。
○念の為に申し添えて置くと、ウグイスを「経読み鳥」と珍重したのは、平安朝の知識人であって、風流を愛でる文化人ではない。もともと、ウグイスは「ホーホケキョ」とは鳴かない。その証拠に、「万葉集」では「ホーラヒトク」と鳴いている。おそらくホトトギスと同じく、地方地方によって、その鳴き声はさまざまであったろう。決してウグイスは昔から「ホーホケキョ」と鳴いていたのではない。
○もう一つ、「啼鳥」を紹介しよう。
江南春 杜牧 千里鶯啼綠映紅 水村山郭酒旗風 南朝四百八十寺 多少樓臺烟雨中
○ここに見えるのも、広大な江南の春の情景である。その風景一面にウグイスの声が木霊している。天外の長風も酒屋の旗を靡かせている。長閑な春は何処までも続いている。
○中句「鳥啼き」は、こういう広大で、明るい春の世界を提示しているのではないか。従来指摘されている主な説は、以下の通りである。
春の行く季節に、自分も遠く旅立って行く。行く人も送る人も、離別の悲しさはひとしおだが、行く春の悲しさに、無心の鳥も啼き、魚も目に泪しているようである。現代語訳 日本の古典18「松尾芭蕉集」(訳者:山本健吉:河出書房新社)
春はもう逝こうとしている。去り行く春の愁いは、無心な鳥や魚まで感ずるとみえ、鳥は悲しげになき、魚の目は泪があふれているようである。日本古典文学全集41「松尾芭蕉集」(校注・訳者:井本農一、堀信夫、村松友次:小学館)、
春も過ぎ行く頃、惜春の情にたえかねて鳥はなき、魚は目に一杯泪をたたえている。それはまた芭蕉たちの別離を悲しむ姿でもある。惜別の情を魚鳥に託した。岩波古典文学大系本45、「芭蕉句集」(校注:大谷篤蔵:岩波書店)
○ここには、「行く春の悲しさに、無心の鳥も啼き、魚も目に泪しているよう」とか、「去り行く春の愁いは、無心な鳥や魚まで感ずるとみえ、鳥は悲しげになき、魚の目は泪があふれているよう」とか、「惜春の情にたえかねて鳥はなき、魚は目に一杯泪をたたえている」とあって、鳥と魚は対にして扱われている。
○しかし、本当にそうだろうか。芭蕉が表現するのは、あくまで「鳥啼き魚の目は泪」である。「鳥(が)啼き」はするけれども、「魚の目は泪」しても、決して「魚(が)泪(する)」わけではないし、「魚(が)目に泪(する)」わけでもない。芭蕉は中句を「鳥啼き」とし、下句を「魚の目は泪」として明記することによって、中句と下句には、それぞれ全く違う別の概念をこの句に持ち込もうと画策しているのではないか。でなかったら、これほど表現に差異があること自体、不自然である。
○ある意味、「魚の目は泪」は滑稽である。「魚の目は泪」の意味するところの、「魚の目が泪する」のを、芭蕉は本当に見たのであろうか。それとも、「魚の目の泪が光っている」のを知っているのであろうか。係助詞「は」を考慮した場合、句意としては、「魚の目は泪」の意味するところは、「魚の目が泪する」か、「魚の目の泪が光っている」のいずれかであろう。その点、上記の『現代語訳 日本の古典18「松尾芭蕉集」(訳者:山本健吉:河出書房新社)』の、「魚も目に泪しているようである」という訳はいただけない。
○こういうふうに考えない限り、おそらく『行く春や鳥啼き魚の目は泪』の句の真意は理解できない。結構面倒であるけれども、芭蕉がそれこそ一所懸命に創作した句がそれほど簡単に理解出来るはずもなかろう。長くなったが、もう少し続けたい。
https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12519938802.html 【行く春や鳥啼き魚の目は泪-句解12】より
○前回、「魚の目は泪」の意味するところは、「魚の目が泪する」か、「魚の目の泪が光っている」のいずれかであろうと紹介したが、両者を比較して、より適切な表現は、「魚の目の泪が光っている」の訳であろう。この方が芭蕉の意を表した表現に近い。
○それは、芭蕉がどういうふうに、この情景を捉えているかに拠って明らかにされる。芭蕉はこの風景をどのように認識したのであろうか。前回、「ある意味、『魚の目は泪』は滑稽である。」と書いたが、それは、あくまで従来の諸本の訳に対する諷刺であって、芭蕉は間違いなく正確に、「魚の目は泪」風景をみているのである。
○では、普通に目にする代表的古典案内書は、これをどのように訳しているか、紹介したい。
山本健吉は、日本の古典18「松尾芭蕉集」(河出書房新社)で、―佞旅圓季節に、自分も遠く旅立って行く。行く人も送る人も、離別の悲しさはひとしおだが、行く春の悲しさに、無心の鳥も啼き、魚も目に泪しているようである。と訳し、井本農一は、日本古典文学全集41「松尾芭蕉集」(小学館)で、⊇佞呂發逝こうとしている。去り行く春の愁いは、無心な鳥や魚まで感ずるとみえ、 鳥は悲しげになき、魚の目は泪があふれているようである。と訳し、大谷篤蔵は、岩波古典文学大系本45「芭蕉句集」(岩波書店)で、 春も過ぎ行く頃、惜春の情にたえかねて鳥はなき、魚は目に一杯泪をたたえている。
それはまた芭蕉たちの別離を悲しむ姿でもある。惜別の情を魚鳥に託した。と訳している。
○それぞれの「魚の目は泪」の部分訳だけに限れば、
ゝ獷睫椶凡イ靴討い襪茲Δ任△
魚の目は泪があふれているようである
5獷鰐椶飽貲孺イ鬚燭燭┐討い
となるわけであるが、まず、´は、「魚の目は泪」の表現を正確に捉えていない訳である。「魚の目は泪」の表現で、「魚」は主語に成り得ない。△世韻構文を踏まえた訳となっている。
○次に、芭蕉が「魚の目は泪」と認識した「魚」は、芭蕉に、何時、何処で、どんな魚が、どういうふうに認識されたかについて、考察してみたい。それは、上記の訳から、魚だけの表現を抜粋することによって得られるはずである。
々圓春の悲しさに、無心の魚も目に泪しているようである。
去り行く春の愁いは、無心な魚まで感ずるとみえ、魚の目は泪があふれているようである。
惜春の情にたえかねて、魚は目に一杯泪をたたえている。惜別の情を魚に託した。
これらの訳はすべて、芭蕉に、何時、何処で、どんな魚が、どういうふうに認識されたかについて、一切言及していない。と言うことは、上記の句解は、この魚の実体は存在しなかったと判断したのであろうか。単なる芭蕉の創作と見なしたのかも知れない。
○これは、全く俳諧を解しない人の説であると言うしかない。俳諧は、詰まるところ、即物詩だという概念が見失われている。俳諧は、物に拠って表現されるのであるから、その物を徹底して凝視しようとしない限り、真の訳や鑑賞は不可能であろう。そういう厳しい世界に芭蕉は生きてきた。その芭蕉の立地するところを放棄して、芭蕉の訳など出来ない相談である。実体のない観念を芭蕉はひどく嫌っている。
○「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の句を創作した時、芭蕉はふるえるような感動を覚えたに違いない。そういう感動が、どうも上記の句解からは伝わってこない。単なる訳で、字数制限もあって、存分に筆も振るえなかったかもしれないが、せめて、その端緒だけでも表すべきだろう。
○芭蕉は、実際、「魚の目は泪」を見たのである。何時、何処で、どんな魚が、どういうふうに認識されたかを示すと、次のようになる。
○時間は、おそらく元禄二年(1689年)三月二十七日の午後で、場所は、奥州街道第一の宿、千住の旅籠か料理屋であろう。この日、朝早く深川を発った芭蕉一行は、数隻の舟をチャーターし、分乗して隅田川十匸緡の千住を目指した。午前十時過ぎには千住に到着したと「曾良旅日記」にもある。
○「蕉翁句集草稿」に拠ると、旅立ちの際、芭蕉が実際創作した句は、
鮎の子の白魚送る別れかな
であると言う。だから、実際、芭蕉は「魚の目は泪」を見ている。魚はもちろん白魚である。それも旅籠か料亭の席であろう。隅田川春の風物、白魚をここまで来て食さない方が不思議である。席は、もちろん芭蕉の送別会の席である。料理に出たと言うより、むしろ芭蕉一行が求めたものとするのが自然である。風流を自認する人々であれば、なおさらそうであろう。
○送別の宴に酒はつきものである。送る人々も送られる人々も、存分に飲み食いしたことは、容易に想像される。その席上で、矢立ての句として披露されたのが、「鮎の子の」の句である。俳諧が最も重視する挨拶が存分に尽くされた申し分無い秀句である。切れ字が最後なのも良い。
○芭蕉が「魚の目は泪」で、本当に表現したかったのは、畢竟、「照一隅」の一点光の生命の輝きに他ならない。中句「鳥啼き」で鳥瞰した世界を、ドーンとズームアップさせて、ピンポイントにした風景が下句「魚の目は泪」なのである。間違いなく、ここに存在するのは、「魚の目は泪」と表現出来る光景であって、その意味するところは、「魚の目の泪が光っている」であることが分かる。
○随分長々と、「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の句について書き綴っているが、まだ、その表現にしか言及していない。なかなか芭蕉は難しい。
https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12519938808.html 【行く春や鳥啼き魚の目は泪ー句解13】より
○ある意味、句解というのは、やり出せば、面白くて、興味が尽きず、いくらでも発展し続けて、切りがない。だから、結局、何処かで妥協するか、手を打つしかないのである。この話も、もうそろそろ、この附近で、決着をつけたい。
○松尾芭蕉の俳諧紀行文、「奥の細道」『旅立ち』、矢立ての句、「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の句解は次のようになる。
松尾芭蕉は、この句において、時間と空間をフルに活用して、格調高雅・意趣卓逸な句を作ろうと企画したのである。何しろ、未曾有の俳諧紀行文、「奥の細道」をこの世に打ち立てようというビッグな計画であるから、最初の句、矢立ては、どうしても至高の句でなくてはならない。実際には、芭蕉は一応、千住で、「鮎の子の白魚送る別れかな」と言う秀句を捻出した。けれども、どうにもそれでは、古今東西、誰もを唸らせるほどの出来栄えではないことは、芭蕉自身が十分承知していた。おそらく、「奥の細道」の旅の間、この矢立ての句をどうするかについて、芭蕉は随分頭を悩ませたに違いない。
半年に及ぶ「奥の細道」の旅がようやく終焉しようとした時、芭蕉が最後にものした句は、「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」と言う句であった。この句は、「奥の細道」の結句として申し分ない。だから、矢立ての句は、「行く秋」に合わせて、「行く春」で行こうと、ようやく納得する。それから、芭蕉はあれこれ呻吟し苦吟し、「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の句に、どうにか到達し得たのである。
句の意図するところは、あくまで古今東西満遍無い世界である。そうでなくては未曾有の俳諧紀行文、「奥の細道」にふさわしい矢立てにならない。だから、冠辞は「行く春や」となった。これは読者への挨拶である。俳諧で最も肝要なのは、何と言っても挨拶である。今から描かれる未曾有の世界の始まりだから、一日で言えば朝、一年であれば春になる。それと出立とを掛け合わせれば、「行く春」しか無いではないか。ついでに、ここに切れ字も使おう。おまけに季節も入れて、冠辞だけで、挨拶も切れ字も季節も肝心なことは全部済ませてしまおうと言う摩訶恐ろしい魂胆である。
だから、冠辞は摩訶恐ろしいものとなっているのだが、それに気付かない読者も居るのではないかと、要らぬお節介ではあるけれども、一応説明するなら、「行く春や」には、まず、俳諧で最も重要な要件である「挨拶・切れ字・季節」が全部入っている。
次に芭蕉が目論んだのは、隅田川旅情である。旅の出発点である深川を流れる隅田川を旅立ちの舞台とすることは、芭蕉にとって非常に都合が良かった。旅立ちで、芭蕉は見送りの人々と共に、深川から千住まで十キロの舟旅を行う。もちろんこれは意図されたものである。日本文芸で、船旅ほど情感を醸し出すものはない。それが春のうららの隅田川が背景であれば、見目にも絶好の場面となるはずだ。ところが、芭蕉は、地の文にも句にも隅田川について一言一句も触れない。これもまた末恐ろしい話である。最も表現したいこと、最も表現すべきことを芭蕉は敢えて秘するのである。しかし、これは「秘すれば花」となって、作者が懸命に隠そうとする姿勢が文中に見え見えなのが可笑しい。それでも、読者は、笑いを堪えて真面目に作者に付き合うのが文芸の礼儀であり、作法である。
芭蕉が「行く春や」の冠辞で言及するのは、隅田川界隈トップの著名人であり、風流人である在原業平である。都鳥や言問橋で、今でもその名を知らぬ人はいない。九世紀の大歌人で、伊勢物語の主人公で、有史以来、日本一の美男子として有名を馳せている。芭蕉が良い男であったかどうかはよく分からないけれども、兎に角、東下りして隅田川のほとりで、「名にし負はばいざ言問はむ都鳥我が思ふ人はありやなしやと」と詠った歌人を失することは芭蕉には出来ない。その証拠に、伊勢物語の隅田川では、「白き鳥の嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。」と鳥と魚を記しているのに対し、芭蕉が矢立てで詠んだ句、「行く春や鳥啼き魚の目は泪」も、しっかり鳥と魚を記載する。これは決して偶然ではない。そう言う意味で、芭蕉は確信犯である。
冠辞で時代を八世紀も遡った芭蕉は、次の中句である「鳥啼き」で、途端に元禄の現代に回帰する。普通、中句は七音とするのであるが、それを芭蕉は僅か三文字、四音で済ます。句としては、もちろん破格も破格、大破格である。また、中句は僅か三文字、四音の表現なのに、その内容が随分と豊富であるのにも驚かされる。
現実に、芭蕉が千住で聞いたのは、「鳥(の)啼き」声に過ぎない。しかし、その意のあるところは別にある。それは、それを「鳥啼き」と表現することによって、読者に、八世紀の中国の詩人、孟浩然の「春暁」の『処処聞啼鳥(処処に啼鳥を聞く)』の一節を想起させることにあった。併せて、同じく八世紀の詩人、杜牧の「江南春」の『千里鶯啼綠映紅(千里鶯啼いて綠紅に映ず)』まで思い浮かばせることが出来たなら上出来だろう。この両詩にあるのは、春のウグイスの喧噪に近い啼き声である。その声は春じゅう、あちらこちらから、それこそ千里に渡って聞こえてくる。ウグイスの鳴き声は詰まるところ、春の絢爛豪華爛漫豊潤な様の形容に他ならない。
これまで諸本は、すべて「鳥啼き」を「魚の目は泪」と対にして考えている。しかし、芭蕉の句として熟慮すれば、明らかにそれは誤りであると言わざるを得ない。大体が、「鳥啼き」と「魚の目は泪」とでは、その表現に随分と差異が見受けられる。そのことについて、諸本は何ら説明しない。おかしな話である。仮に「鳥啼き」と「魚の目は泪」が対であるなら、当然、その表現も対にするはずだろう。表現が対でないと言うことは、「鳥啼き」と「魚の目は泪」の表現の違いは、両者が対概念ではないことの証拠である。杜撰な句解はよくない。説明出来ないのなら、それは分からないのと一緒である。対であるとすれば、どうして両者の表現にこれほどの差異が生じたのか、説明を要するはずだ。
その点、中句を「鳥啼き」と表現し、下句を「魚の目は泪」として、対ではなくて、対立概念とすれば、句としても大きくなるし、芭蕉独特の微細な視点まで付帯するし、句解としては今まで以上に明快に説明することが出来る。多分、これが芭蕉の玄妙な着眼点である。中句「鳥啼き」は僅か三文字でも、随分大きく重たい句となっている。
下句、「魚の目は泪」こそ、これまで識者を随分悩ませてきた元凶である。これまで満足にこの下句を解説し、説明し得た人はいない。何より、多くの人には、芭蕉が「魚の目は泪」をどういうふうに実見したかがよく理解出来ない。皆、魚を河に泳がせている。河に居る魚の目を見ることも容易ではないが、その目の泪を見ることは誰にも出来ない相談である。何のことはない。実は、本当は魚は陸上に居るのである。それも旅籠か料亭の配膳の上に鎮座坐している。
その根拠となるのが矢立ての初案、「鮎の子の白魚送る別れかな」の句になる。この句は、当座の挨拶によくかなっていて、なかなかの秀句なのだが、芭蕉はそれをバッサリ切り捨てる。思い切りが良いと言うか、勿体無い話である。理由は句の大きさにある。未曾有の俳諧紀行文、「奥の細道」の矢立ての句としては、句が小さく、品格が落ちる。格調高雅・意趣卓逸でなくては矢立ての句とすることが出来ないのである。
芭蕉が見た「魚の目は泪」は、実は送別の宴会場で、配膳にあがった白魚に他ならない。もちろん、白魚はこの季節、隅田川の風物である。鎌倉の初鰹をこよなく珍重した風流人らがこの時期、千住まで来て、白魚を所望しないわけがない。だから、芭蕉は「魚の目は泪」と、極限まで微細に渡って面倒なくらいの説明を加えることが出来たのである。白魚は生きたままか、死んだばかりの状態でなければ食することは出来ない。すぐに痛んでしまう繊細な食材である。当時、冷蔵庫も冷凍装置も存在しないから、現地千住でなくては食することの出来ない、食の極致が白魚であった。その小さなかわいい白魚の、そのまた小さなかわいい目に、なぜか芭蕉は注目するのである。そこには小さなかわいい春が凝縮され、小さいかわいい生の営みが凝縮されている。畢竟、「魚の目は泪」とは、小さなかわいい春と生の営みとに流す俳人芭蕉の泪なのである。それがこの句の俳趣となっている。
中句「鳥啼き」が春の絢爛豪華爛漫豊潤で、広大な世界を描くのに対し、下句「魚の目は泪」は、小さくかわいいながらも、確実に存在する微細な春の生の営みを紹介するとともに、そういうかわいい生き物を食しないでは生きていられない人の悲しい性をも描く。
冠辞は途方もない時間を、中句は広大な空間を、そして下句は微細な生の営みをと、三句三様の風景はいずれも趣き深く、味わい深い。「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の句が、途方もない句であることがお分かりいただけたであろうか。この句を創作し得た時、芭蕉はうち震えるような感動を覚えたに違いない。同様に、この句を鑑賞した読者も、芭蕉と同等の感動を共有し得ない限り、とても芭蕉の句を味わったことにはならない。詰まるところ、俳諧の楽しみとは、作者と読者との魂の振動の共有である。芭蕉の魂は、俳諧として万人の眼前に存在するのに、誰もその魂との振動を共有しようとしない。実にもったいない話である。