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13th hour garden

水蓮花を摘んで (三)

2016.10.22 14:44

廃寺に辿り着いた小鉄は、昨日と同様に山門をくぐり、雑草の茂った境内を通り過ぎて本堂の裏手へ向かった。だが、そこには狭霧の姿が見当たらず、どこへ、と思い小鉄は水蓮の池に眼を転じた。

すると、池の手前のほう、水蓮の咲いている場所まで少し距離がある辺りの水面に、小さな茶色の頭が見えた。狭霧は首のあたりまで水に浸かりながら、水蓮の場所に向かって進んでいた。

「狭霧!」

名前を呼ばれて振り返ると、狭霧は片手を上げて小鉄に向かって大きく振った。だが、岸のほうへは戻らず、再び水蓮のほうを向いて進み始めた。

水蓮の池は、狭霧の身長では辛うじて頭が出るくらいの深さだった。それにも関わらず、水蓮に近づこうと一心に前に進む狭霧に、小鉄はぞくりとした。

危ない、と声を掛けようとした瞬間、狭霧の頭が池の表面から消えた。

「狭霧!」

慌てて、小鉄は池に飛び込もうと駆け寄った。

が、次の瞬間、びしょ濡れになった狭霧の頭が池の中から飛び出した。

「大丈夫―!」

狭霧はそう叫ぶと、そのまま水蓮の側まで行き、ピンク色の水蓮を一輪折り取ってから引き返してきた。

狭霧が池に沈んだ瞬間、小鉄は心臓が止まる思いだった。狭霧が無事なのが分かると、小鉄は池の端でへなへなと座り込んだ。

岸に上がってきた狭霧は、全身ずぶ濡れの姿で、水を払い落そうと子犬のように頭を振った。その手には、ピンクの水蓮を大事そうに持っていた。

「狭霧、大丈夫か?水は飲まなかったか?」

小鉄は狭霧に駆け寄り、両肩を捕まえて聞いた。血相を変えた小鉄に狭霧は少し驚いた様子だった。水浸しの自分の恰好を見下ろしながら答えた。

「大丈夫だよ。ちょっと滑っただけだから。それより・・・」

狭霧は小鉄の顔に向かって片手を伸ばした。狭霧の手が自分の右耳の当たりの髪を掻き上げるのを小鉄は感じた。それから、狭霧は手にした水蓮を慎重な手付きで持ち上げると、そっと小鉄の髪に差した。

― え・・・?

「はい!」

狭霧は水蓮を差し終えると、髪に花を飾った小鉄を眺めて満足そうに笑った。

狭霧の行動に意表を突かれて、小鉄は一瞬呆然となった。

― このために、池に入ったのか・・・?

誰にも言わず、一人でこの場所へ来た狭霧。長柄との約束を反故にしてまで、水蓮に魅せられたのは狭霧自身なのだと思っていた。だが・・・

反応のない小鉄の態度を狭霧は誤解したらしかった。

「大丈夫だよ!俺はちょっと汚れたけど、水蓮は汚れてないから!」

熱心な口調で言う狭霧に、小鉄は自分の感情を抑えきれなくなるのを感じた。

小鉄は狭霧の背中に腕を回し、その身体を強く引き寄せた。急に抱きしめられて、狭霧は戸惑ったようだった。

「小鉄?濡れるよ・・・?」

自分の腕の中で身じろぎをする小さな身体を、小鉄は固く抱きしめた。濡れた布地を通して伝わってくる狭霧の体温が、この上もなく貴重なものに思われた。失うことなど考えられない。

やがて、小鉄は狭霧の身体から腕を解くと言った。

「・・・ごめん。狭霧があんまり無茶をするから、ちょっと驚いたんだ」

小鉄の言葉に、狭霧は少々不満そうに口を尖らせた。

「無茶なんかしてないよ。小鉄の心配のしすぎだよ」

「そうだな。・・・水蓮をありがとう」

小鉄がそう言うと、狭霧は一瞬眼をぱちくりとさせ、それから嬉しそうに笑った。

「さあ、戻ろう。・・・長柄がお前を探していた」

その言葉を聞いた途端、狭霧は長柄との約束を思い出したらしかった。

「いけね。俺、長柄と約束してたんだ」

そう叫ぶと、狭霧は引き返そうと走り出した。慌てて小鉄もその後を追って走り出しながら、声を掛けた。

「狭霧!戻ったら着替えるんだぞ!」

「いいー!途中の川で洗うから!」

狭霧は振り向きもせず答えると、どんどんと先へ進んでいった。

「駄目だって。待てよ、狭霧―!」

小鉄は狭霧に追いつこうとして、走るスピードを速めた。と、その髪から狭霧が差したピンクの水蓮が落ちそうになった。小鉄は水蓮を受け止めて片手に持ち直すと、狭霧の後を追いかけた。



「ヘンだな。水蓮の花を見ても、あの池のことなんか今まで一度も思い出したことなかったのに」

狭霧は首をかしげると、小鉄の顔を見て言った。

「・・・お前が一緒にいるからかな」

その言葉に、小鉄は眼を見開いた。

まさか、狭霧はあのことを覚えているのだろうか。

だが、狭霧は特に何かを思い出したようなそぶりも見せず、それ以上何も言わなかった。

「・・・気にいったなら、買ってやろうか?」

「え?」

「その水蓮、欲しいんじゃないのか?」

小鉄の言葉に、狭霧は、ああと得心したような表情で、

「いいよ、俺は、ちょっと昔を思い出しただけだから。花なんか・・・お前のほうが似合うだろ」

狭霧自身は何の気なしに言ったらしい言葉だったが、小鉄は息を呑み、思わず狭霧の顔を見つめた。遠い昔、自分の髪に触れた小さな手の感触が一瞬蘇った。

狭霧は、自分の言葉に引っかかったようで、何かを思い出そうとするような表情をしていた。やがて、首を振ると、小鉄を見て言った。

「なんか、今思い出しかけたんだけど・・・あの水蓮の池で、何かあったような気がする。お前、分かるか?」

狭霧は覚えていない。何故かほっとしながら、小鉄は返事をした。

「・・・いや。思い出せない」

「そっか。なら、大したことじゃないかもな」

狭霧は身体を起こすと、先に歩き始めた。小鉄もすぐに追いついて横に並んだ。

狭霧は可愛らしいピンク色の薔薇の花束を持った小鉄が気になる様子だった。並んで歩く小鉄を呆れたような表情で見て言った。

「お前、よくそんな花束持って平気で歩けるよな」

「良かったら、持ってみるか?」

小鉄が聞くと、狭霧は慌てて首を振った。

「冗談言うな。そんなもの照れもせず持てるのはお前くらいだろ」

本気で焦っているような狭霧に小鉄は思わず微笑した。

・・・お前があのことを思い出したら、薔薇の花束を持つよりもっと困った顔をするだろうな。

小鉄の笑みを見て狭霧は口を尖らせた。

「・・・お前、やっぱ何か隠してるだろ」

「知りたいか?」

小鉄は狭霧の言葉を逆手に取って聞いた。狭霧は一瞬虚を衝かれたようだった。少しだけ考える様子を見せたが、すぐに首を振った。

「・・・いや、いい。やめておく。お前がそんな顔をしている時はろくなことじゃない気がする」

勘が良くて、その上用心深い。狭霧はなかなか手ごわい。

そのとき、小鉄の胸に、いたずらめいた思いつきが浮かんだ。

別れ道に来たので、狭霧は「じゃあな」と言って自分の帰る方向に足を向けようとした。

「狭霧。ちょっと待て」

呼び止められて、狭霧が足を止めた。小鉄は薔薇の花束の中から開き始めたばかりの一輪を折り取った。狭霧の肩を捕らえて振り向かせると、その学生服の胸ポケットに、素早くそれを差した。

「ちょっ、小鉄、これ何だよ?」

「ははは、似合うぞ」

慌てて胸ポケットから花を取って、狭霧は小鉄に返そうとしたが、小鉄は笑いながら身を躱すと、背を向けてさっさと行ってしまった。

遠ざかっていく小鉄の後ろ姿を見送りながら、狭霧は咲き初めた薔薇を片手に持ったまましばらくその場に立ち尽くしていた。

「どーしろっていうんだ、これ・・」

ピンクの薔薇を見て狭霧はつぶやいた。小鉄がやったみたいに胸ポケットに差すなんて論外だが、かといって捨てるのも躊躇われた。

― こんなの持って帰ったら、絶対おっさんに笑われるよな。ったく、小鉄のやつ・・・

子供の悪戯みたいだ。そう思い、狭霧は意外な感じがした。

いつも落ち着いていて、同い年でも自分よりずっと大人びているのだと思っていた。だけど・・・

狭霧の唇に笑みを浮かんだ。そして、薔薇を片手に持ったまま、狭霧は帰り路を歩き始めた。ピンクの薔薇をぶらぶらさせて歩きながら、さて、どうやって坂口に見られないように家に入ろうかと考えた。

                                       (了)