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2021.03.03 08:00
大宮の僕の実家はキュウリ農家だった。
家の前に10数棟のビニールハウスが並んでいた。僕と二人の兄たちはキュウリで学校に上げてもらったと言って過言ではない。
僕が二十歳の時に母が亡くなり、その十年後に父も他界した。
暑いハウス内での作業や農薬の影響も寿命を縮めた一因かも知れない。
三兄弟の中で最も時間的余裕のあった僕が中心となって農地を管理することとなった。
父の生きているうちにもっと教わっておくべきだったと悔やまれることの連続だった。
米や野菜を作るということがこんなに難しいとは・・・。しかしそれは「よし、来年こそは!」という闘志をかき立てることとなり、勉強を重ねていった。
寝ても覚めても田んぼ、畑のことを考えている・・、そんな日々だった。
自分にこんな「農業魂」があるとは思ってもいなかった。やはり「血」だろうか・・・。
大宮高校時代の友人に農山漁村文化協会に就職した男がいて、何かと農業書を送ってくるのも良い刺激となった。当時最先端の「不耕起栽培」や「自然卵養鶏」の本を読みこんだ。
鶏を30羽ほど飼い始めると、近所から「その鶏の卵を売ってくれ」と言われるようになった。すぐに甘い皮算用をする悪い癖のあった僕は「これは商売として成り立つかも・・」。やがて「近所迷惑にならないもっと広いところで鶏をたくさん飼ってみたい!」と思うようになった。(つづく)