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Site Hiroyuki Tateyama

八雲弥生三月

2021.03.03 23:22

子供の頃、よく熱を出しました。

病院へ急ぐ父の、父がいない時は母の、その背中で揺られながら眺めた光景は、50年以上も経つというのに色褪せません。

幼稚園の頃の住まいは、父の会社の社宅で、目黒区八雲の呑川沿いの一軒家でした。呑川は随分前に蓋がされ、その上が緑道となり、さらに桜の木が植えられて公園になりましたが、そのはるか以前の1969年から1970年にかけてのことです。

そろそろ卒園という3月でした。呑川沿いを走る父の背中から見上げた夕暮れを覚えています。枝の間に抜ける星が冷たく冴えていました。

白髪のお医者さんがカーテンの向こうに顔を出し、ドアを開けます。誰もいない待合では、蛍光灯のブーンという音だけが聞こえました。注射で泣いたかもしれません。青いフィルターがかかったような記憶です。

翌日、ご飯を食べなさいと起こされたのでしょう。障子の開いた縁側には、いつもより暖かい光が高く差し込んでいました。火の消えた石油ストーブから、独特の匂いが漂ってきます。

通っていた宮前幼稚園は、呑川を挟んだ目の前にあり、オルガンの音が聞こえてきました。その頃からサボり癖があったようで、幼稚園を休んだ私は熱が下がったことも手伝って、晴れ晴れとした気持ちでした。

当時、小学館の学習雑誌『小学1年生』を楽しみにしていました。その3月号の付録は、紙製の雛人形。A4程度のサイズながら、出来上がりは立体的な五段飾りになる、よく工夫されたものでした。

幼稚園児には難しかったのか、作らずに放ってあったのですが、縁側を見ると、組み立てられた雛人形が、そっと庭を向いて陽を浴びていました。

母が作ったのでした。母が作ってくれたことが嬉しくて、子供らしく高揚しました。しかし、大きく感情表現する子供ではなかったので静かに喜びました。また、幼いながらも、私が男で、家にお雛様を飾ることがなかったから、母は寂しくて作ったのではとも考えました。

そして、母が枕元に持ってきたうどんで、ふうふうと温まったことまでは覚えています。

あれから驚くほどの歳月を経ましたが、今年も、

「この間、しまったばかりなのに」

と、独言ながらお雛様を飾りました。