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採鉱と鍛冶の技術に長けた秦氏

2018.03.04 03:23

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/7280240   【蝦(えみし)夷

https://life.gentosha-go.com/search?fulltext=%E7%A7%A6%E6%B0%8F  【ユダヤ系秦氏が語る邪馬台国【第1回】~【第20回】】

https://life.gentosha-go.com/search?fulltext=%E7%A7%A6%E6%B0%8F&page=2  【ユダヤ系秦氏が語る邪馬台国【第21回】~【最終回】】

http://www.rakuyukai.org/kaiho_backnumber/201/18.htm 【元祖エンジニアリング集団】より

太秦の広隆寺には有名な新羅伝来の弥勒菩薩がある。国宝第1号の名に恥じない逸品である。近くには、木島神社(養蚕神)や大酒神社(芸能神)などもあって楽しい。周知のとおり、太秦は古代秦氏ゆかりの地である。5世紀頃に朝鮮半島から先進的な文化と技術をたずさえて多くの渡来人がやってきた。秦氏はその中でも最大規模の殖産的氏族グループに成長していった。正倉院に残っている戸籍資料や当時の歴史書などに出てくる人名を調べてみると、秦氏とその係累が圧倒的な割合を占めるという。このことからも秦氏の繁栄ぶりを伺い知ることができる。

 秦氏は他の氏族と同様あらゆる分野で活躍をした。しかし、最大の強みは採鉱と鍛冶の技術に長けていたことである。言わば、当時の基幹産業を握っていたわけである。農具・武具の生産や開拓・灌漑・治水などの分野で主導権を握り急速に各地に進出していったものであろう。その足跡は秦・旗・波多・羽田等々の地名や人名に色濃く残っている。ちなみに、八幡神社と稲荷神社は両方で日本の神社の半数を占めるほどに広がっているが、宇佐八幡や伏見稲荷で古代秦氏の祖先神を祭ったのが始まりである。

 さて、東大寺の大仏造営には豊前や河内の秦氏の技術力が不可欠であったらしい。また、平安京の建設には、山城秦氏の財力と政治力が大いにものをいったにちがいない。当時の民衆の度肝をぬくようなこれらの巨大プロジェクトはいずれも秦氏の独壇場だったのではないか。古代秦氏グループはまさに元祖エンジニアリング集団であった。渡来人が活躍した古代社会は開放性と開拓精神に満ちあふれていた。そして、我々はこのような良い意味での渡来人的風土を、1000年後の現代に活かしきれているだろうか。舶来崇拝的な安易な考え方だけを引きずっていはしないだろうか。最近の関連業界の閉塞状況に照らしてみても、考えさせられるところである。


https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20090408/328097/ 【第4講:古代日本の知恵袋、渡来氏族「秦氏」の摩訶不思議】より

東京農工大学大学院技術経営研究科教授 松下博宣

 前回に続き、厩戸皇子(聖徳太子)の時代までさかのぼって、歴史をひもときつつ、そこから様々なインテリジェンス活動、すなわち、「個人、企業、国家の方針、意思決定、将来に影響を及ぼす多様なデータ、情報、知識を収集、分析、管理し、活用する」活動を読みとってみたい。

 厩戸皇子の知恵袋的存在として、秦河勝(はたのかわかつ)をとりあげる。秦氏一族の動きには古代のインテリジェンス活動が凝縮されているからだ。秦氏はユーラシア大陸のかなり奥まった地域の出身で、朝鮮半島を経由してやってきた渡来系氏族である。秦氏は6世紀頃から断続的に朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来してきた。鉱山技術、鍛冶技術、養蚕、機織、酒造などの最先端テクノロジーを倭国に伝播させた氏族だ。

 秦河勝は、その際立った技術経営力、人材機動力、財力、国際的知識を駆使し、厩戸皇子のブレーンとして大活躍した。厩戸皇子は、当時の微妙な外交、地政学的ニュアンスを熟知していた秦河勝から、儒教、仏教のみならず中東系諸宗教、律令制といった当時の知のワールド・スタンダードのみならず、国際政治、通商、パワーポリティクスの機微を徹底的に学んだのである。

秦氏と八幡神社の関係

 秦氏は、九州北部の宇佐八幡神社がある地域を拠点にして、山城(現在の京都)さらには全国に広がっていった。秦氏に関する史料は全国に散らばっているが、特に、九州北部の宇佐地域や、山城地方に多くの史料が残されている。例えば山城地方にある太秦(うずまさ)がその名のとおり秦氏の一大拠点だった。

 八幡神社といえば、稲荷とならんで日本でもっとも馴染みの深い神社の一つだ。はちまんさま、やはたさまを祀る八幡社、八幡宮、若宮神社などを含めると、全国津々浦々、街中、田舎を含めてその数は全国で1万4800社(神社庁公表)となる。読者の皆様も近所を見渡せば、どこか近くに八幡様が鎮座しているのではないだろうか。その八幡神社は、もともとは秦氏のカミさまを祀る神社である。そのカミさまがどこから来たのか、なにものなのか、についてミステリーがある。

 秦氏は新羅を経て渡来したとされる。これについては、いくつか根拠がある。秦氏が多く住んでいたとされる地域から発掘された瓦は新羅系のものが圧倒的に多い。また秦氏の氏寺、「広隆寺」にある国宝第一号の「弥勒菩薩半迦思惟像」は、朝鮮半島の新羅地区で出土した弥勒菩薩半迦思惟像に酷似している。しかも広隆寺の仏像の材料である赤松は、新羅領域の赤松であることが判明している。

秦一族は古代の技術経営スーパーエリート

 秦氏が得意とした鍛冶とは、木、火、土、水、金を制御するテクノロジーであり、古代日本にとっては奇跡にも近いワザだった。ちなみに、木、火、土、水、金(もっかどすいきん)の五行をもって宇宙の構成要素とする。土着人から見れば、鍛冶とは自然をあやつり、そこから光り輝く銅や鉄を生み出す神秘の所業でもあった。

 九州北部・近畿の銅山とその麓に展開された銅を生産する場のマネジメントは、秦氏および関連の一族によってなされたものと考えられる。火と日を知るものをヒジリ(聖)という。火を制御する鳥が鍛冶シャーマンのシンボルであり、秦氏の場合、神の鳥のシンボルは「鷹」だった。

 秦氏は、鍛冶の技術をよく営み、金属器をよく鋳造したので、必然的にシャーマン的色彩を帯びている。古代において技術者は祭祀者でもあった。つまり、ものづくりとは、自然に働きかけ、そこから神秘に満ちたモノやコトを生み出す神聖な所作であった。ものづくりの原風景が秦氏界隈には沢山ある。

 秦氏は日本に養蚕、機織の技術をもたらした一族でもある。ハタは機に通じている。蚕を飼い、その蚕がつくる繭から生糸を紡ぎだし、あでやかな絹織物に仕立て上げる。艶やかに絹で織られた着物を着る人々は羨望の目で眺められたことであろう。ちなみにサンスクリットでハタは「絹の布」をさす。


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www.tama.ac.jp/cooperation/img/.../20110108_kim.pdf

「多摩とアジア」 - 多摩大学

2011/1/8 -秦氏は、土木技術や農業技術などに長けていたので、灌漑設備など土地の. 開墾を進んで行った。また、渡来人は、養蚕(ようさん、絹織物)、機織(はたおり)、. 牧畜(馬)、建築、採鉱、鍛冶(鉄器)、窯業(瓦)、仏教(文字)、酒造 ...


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秦人(はたびと)の町 光都 Kouto – The Town of Qin People ...

秦氏は6世紀頃から断続的に朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来してきた。 鉱山技術、鍛冶技術、養蚕、機織、酒造などの最先端テクノロジーを倭国に伝播させた氏族だ。 秦河勝は、 ...

未指定:採鉱

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湛井堰と秦氏? - 岡山県総社市「秦の郷」

秦の歴史遺産や渡来人秦氏の実態が現在においても謎の部分や未解明の部分が多く、そ. れだけに多くのロマンを秘めてい ... 鉄や銅などの金属加工の技術に優れ、渡来した各地で金属加工の鍛冶場を形成した。秦氏. 渡来の伝承地は鉄や銅の ...


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洛友会ホームページ 洛友会会報バックナンバー 201号

秦氏は他の氏族と同様あらゆる分野で活躍をした。しかし、最大の強みは採鉱と 鍛冶の技術に長けていたことである。言わば、当時の基幹産業を握っていたわけ ...