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映画『何者』感想 〜君が君でしかないことの素晴らしさ【ネタバレ】

2016.10.24 03:45

観てきましたよ! いやー楽しかった。

Twitter等で反応を見てみると、人によって全く評価が違うようで、酷評もあれば絶賛もあるという両極端なリアクションが一斉に流れてきた面白さを今でも覚えています。

さて、私の感想を申し上げますと、この映画......

とーっても優しいポジティブな映画

だと思いました。

あらすじや予告編の感じからして、あえて人間の負の部分をすごく嫌味ったらしく描く説教じみた内容だと勝手に思っていたのですが、これが全く違いました。むしろ、そういった我々の負の部分を肯定も否定もせずまるごと抱きしめて、それでも頑張ろう、それでも生きていこう、と優しく励ましてくれる作品でした。これが今回の結論です。


ええーっ、嘘だよ。そんな優しさは感じなかったよ、という方。これは100%私の個人的な感想です。いわば私の創作物と言ってもいい。就活経験の有無、Twitterアカウントの有無なんて単純な線引きではなく、それまで生きてきた人生とそこで育まれてきた思想や価値観によって、この作品の受け止め方は全く異なってしかるべきだと思います。

ですからこの作品に対して私と異なる印象を持たれた方は、私の独自解釈が加わった、新たな『何者』の物語を観るような心持ちでこの記事を読んでいただくと良いかと思います。(もちろん、独自解釈とは言っても、あくまでも映像から読み取れる範囲で解釈しております。)



〈あらすじ〉

「桐島、部活やめるってよ」の原作者として知られる朝井リョウが、平成生まれの作家として初めて直木賞を受賞した「何者」を映画化。就職活動を通して自分が「何者」であるかを模索する若者たちの姿を、佐藤健、有村架純、二階堂ふみ、菅田将暉、岡田将生、山田孝之という豪華キャストの共演で描いた。監督・脚本は、「ボーイズ・オン・ザ・ラン」「愛の渦」といった映画でも高い評価を得ている演劇界の鬼才・三浦大輔。演劇サークルで脚本を書き、人を分析するのが得意な拓人。何も考えていないように見えて、着実に内定に近づいていく光太郎。光太郎の元カノで、拓人が思いを寄せる実直な瑞月。「意識高い系」だが、なかなか結果が出ない理香。就活は決められたルールに乗るだけだと言いながら、焦りを隠せない隆良。22歳・大学生の5人は、それぞれの思いや悩みをSNSに吐き出しながら就職活動に励むが、人間関係は徐々に変化していく。(引用元)



〈感想〉

■扱う問題はとても普遍的

この映画、サラッと予告編やなにかを見てみると、「就活」「SNS」といった要素が強く押し出されていて、実際物語もこの要素を軸に組み立てられています。従って、就活をしたことがあるかどうか、TwitterのようなSNSを利用しているかどうかで、作品の理解度や解釈が異なってくると思われがちです。

しかしながら、この作品の根底で扱っている問題は極めて普遍的で、誰にでも刺さるようなものです。「就活」や「SNS」は、あくまでその問題を浮き彫りにするための小道具に過ぎません。従って、もしこの作品の理解度や解釈が変わるとしたら、前述の通り、その人の人生や価値観によってだと思うのです。

ではその普遍的な問題とはなにか。勿体つけるほどのことではありません。それはこの作品のタイトルの示す通りです。すなわち、「自分は何者なのか」という問題です。もっと具体的な言い方をしますと、「社会に出ていく上で、人生を歩んでいく上で、自分は何者として生きて行けるのか」ということでしょう。

では、その問題を描くための小道具になぜ「就活」と「SNS(Twitter)」が選出されたのでしょう。考えてみると、両者には様々な共通点があります。例えば、どちらも限られた枠内で自らを表現する場ですし、その表現を第三者に勝手に解釈される場でもあります。

ポイントは、どちらも完全に純粋で本質的な自分というものを表現できる場ではないということです。いやそもそも、「完全に純粋で本質的な自分」などというものがあるのかも怪しい。もしかしたらそれは虚像に過ぎず、人はその幻を延々と追い求めているだけなのかもしれないのです。

しかしながら、就活というものはそこで「あなたを1分で表現して下さい」と命じてきます。Twitterもまた、「あなたを140字で表現して下さい」と命じてくるのではないにしろ、その140字が自身のアカウントと紐付けられ、結果として「自分」の表現と見なされるという意味では、そのような命令と同等の圧力を有すると言えるでしょう。

更に厄介なことは、そういった理不尽な命令には、かえって我々を魅了する魔力があるということです。よくよく考えてみると、自分を1分で表現することなど不可能なはずです。「140字の重なり」が自分の全てであるというのも馬鹿げています。そもそも自分とは何なのか、そこに明確な表現があるのかも分からないのですから。

しかし、そのような不可能な、馬鹿げた命令に従うことで、「自分」というものを獲得できる気がしてしまうのです。内定を得ると、何故か「まるごと自分が肯定された」気がしてしまう。Twitterで虚像としての「自分」を表現しないと、「立っていられなく」なってしまう。つまり、分かりもしない「自分」というものを表現することで、逆に「自分」が与えられる気になってしまうわけです。自分が「与えられる」なんて、考えてみればなんとも頓珍漢なことなのですが。

以上のことからも、この作品の核は「自分は何者なのか」という問題であると言えるでしょう。


■「自分」って何?

「就活」というイベントが人生において重大なものである理由は、それこそがまさに「青春が終わり、人生が始まる」という明確な転換期だからです。

青春を謳歌し、自分が何者なのかなど気にも留めていなかった若者たちは、「就活」というイベントが近づくと途端に自分が何者なのかを模索し始めます。もっと言えば、「自分は『何者か』にならなければならない」という強迫観念に襲われるわけです。

これまで自分が何者なのかなんて考える必要はなかったし、考えもしなかった。しかし、社会に出るには、立派な大人になるには、生きて行くためには、就活に勤しんで今の「不完全な自分」を脱し、「完全な『何者か』」にならなければならない。そういう義務感と焦燥感にとらわれてしまうのです。「とにかく自分じゃない誰かになれる場所がほしい」というのは、まさにこの心理をよく表しています。

この観点から登場人物の行動を整理してみると、とてもスッキリするでしょう。とにかく冷徹に就活を攻略しようとし、他人の「イタい」行動を冷笑することで「不完全な自分」を殺そうとする拓人。留学経験や分かりやすい肩書を身にまとって「不完全な自分」を隠そうとする理香。自由人を気取って「不完全な自分」を見て見ぬ振りする隆良。彼ら三人は他の三人と違ってTwitterに依存しているというのも特徴的です。

しかしながら、ここで疑問が生じます。果たして彼らはそもそも「不完全」だったのか? 社会に出る前の若者は皆「不完全な自分」しか持っておらず、その実態はいつもモヤモヤしているが、社会人になった途端に、彼らはカチッと表現され得る「完全な自分」などというものになる。こんなことが起こりうるのでしょうか? 決してそうではないでしょう。

主人公の拓人に目を向けてみましょう。彼は結局裏アカウントの存在を糾弾され、いかにもこの物語の「悪役」であるかのように思えてしまうのですが、果たしてそうでしょうか。『何者』とは、主人公が更生して真っ当になる物語なのでしょうか。私は違うと思います。

そもそも、「他人を笑う」という行為をしていたのは拓人に限りません。例えば、光太郎は拓人と一緒に理香のことを笑っていました。皆互いに笑い合い、見下し合っていた部分があったはずです。しかし、彼らは悪役でも何でもないのです。もちろん、道義的には許されないこともあったでしょう。しかし、彼らは「とにかく自分じゃない誰かになれる場所がほしい」という達成され得ない願望の犠牲者だったということを忘れてはならないのです。

自分が何者なのかも分からず、欺瞞や虚飾に満ちた生活を送り、互いに傷つけ合う......。悪役ではないにしろ、やはり彼らは不完全ではないか、そう思うでしょうか。その通りです。彼らは、いや我々は生まれながらにして不完全なのです。そんな我々が、どうして「完全な自分」などというものになりうるでしょうか。カチッと表現することができる、不変の「自分」などというものがあるのでしょうか。そんなものはもともと存在しないのです。

我々はどんなにもがいても、「自分」であることをやめられません。「自分じゃない誰か」になることなどできないのです。これは大きな呪いであり、同時に大きな希望でもあるのです。


■それは君だ

自分は自分でしかありえません。自分というものに完全も不完全もないのです。なぜなら、もともと我々は不完全で安定せず、変化し続ける存在だからです。それが当たり前なのです。

ということは、今の自分を勝手に「不完全」だと決めつけ、ありもしない「完全な自分」を得ようとすることは、不毛以外の何物でもないことがわかります。

このような不毛な事態を招きやすいのが「就活」というイベントだったわけです。なぜなら、それは決して得ることの出来ない「完全な自分」を与えてくれるかのような幻想を我々に抱かせるからです。これが、『何者』という作品の登場人物たちを泥沼にハマらせた構造のしくみだったのです。

誰も「自分じゃない誰か」にはなれない。留学経験や分かりやすい肩書を身にまとっても、自由人を気取っても、他人を冷笑しても、内定はもらえないし自分から逃れることも出来ない......。この作品は、こういった事実を生々しく我々に提示してきます。これはともすると、「お前はお前でしかないんだから諦めろ」という残酷な声として聴こえてくるかもしれません。

しかし私はむしろ、この作品はそういう事実を提示することによって、我々に大きな希望を示してくれていると思っています。なぜならば、「自分は自分でしかない」ということは、逆に言えば、「自分はずっと自分のままでいられる」ということだからです。そう、我々は生まれたときから、もうとっくに「何者か」になっていたのです。いつまでたっても不完全で、不明瞭で、不安定な存在。それが我々なんだ。それでいいんだ。幻想にとらわれる必要はないんだよ。むしろ、幻想を追い続け、もがき続けているまさにそのときこそ、我々が我々である瞬間なんだよ。そんな優しいメッセージを、私はこの作品から感じ取りました。

そのメッセージが顕著に表れているのが瑞月のセリフです。「10点でも20点でもいいから自分の中から出しなよ、そうしないと点数さえつかないんだよ」というのは、「とにかくもがいてみなければ始まらない」ということでしょう。あるいは、「イタくても、格好悪い自分を理想の自分に近づけようとするんだよ」という理香のセリフ。これこそまさに「幻想を追い続け、もがき続けているまさにそのときこそ、我々が我々である瞬間」であるということを表しています。


■忘れていた正体

再び主人公の拓人に目を向けてみましょう。この映画で一番楽しく、そして重要なシーンは、何者アカウントが発見されて「からの」全ての流れです。

まず、今までのシーンが次々と再演され、その裏で起きていたことが描かれるのですが、ここで驚くべきは「拓人が実は裏でこんなことをやっていた」という事実ではありません(もちろん、具体的なツイート内容が明かされるのは初めてなのでその驚きはありますが、ある程度の予測も可能でした)。あの再演シーンで一番に強調されたのは、それがある種の「演劇」だったということです。拓人は、他人への冷笑を世界へ発信し、不特定多数の人々に見ていてもらうことで、彼らに自分が「何者か」であることの証人になってほしかったのですが、それすらも「演劇」つまり演技であったことが明かされるのです。

拓人は、口では学生団体による演劇をサムいとは言いつつも、心の底では演劇への未練がありました。烏丸ギンジは、拓人の鏡写しのような存在として描かれています。冒頭の演劇で、「あれは俺だ」と言いながら二人が鏡合わせで手を振り合うシーンは印象的でした。つまり烏丸ギンジは、心の底からもがいていたらなっていたであろう拓人の姿なのです。LINEで彼に攻撃的な発言を浴びせる拓人の姿は、まさに「不完全な自分」を押し殺そうとする人の姿そのものです。

となれば、Twitterで他人を冷笑していた拓人は、恐らく自分では「これが完全な俺だ」などと思っていたのでしょうが、それこそが「演劇」だったということになります。彼はもがくことをしていなかったのです。

それに気付いた拓人は、ついに演劇の舞台を降り、走り出します。彼はもがきはじめるのです。

その後の拓人を救ったのは、瑞月の言葉でした。自分の演劇を面白いと褒めてくれた。演劇という自分の一番コアな部分を認めてくれる人が、こんなにも近くにいたのです。もうとっくに自分は「何者か」になっていた。今まで忘れていたこの事実に、拓人は泣き崩れるのでした。


■就活は何を与えてくれるのか

このように考えると、就活というものの二面性が見えてきます。

就活は、光太郎の言うように「得意不得意」で攻略出来てしまうものなのかもしれません。「自分の完全な表現」も見つけさせてくれないし、ましてや「完全な自分」など与えてはくれないのです。この事実に気付かずに幻想にとらわれてしまうと、『何者』の登場人物のように泥沼にハマってしまいます。

では、この作品は就活を完全に否定しているでしょうか。内定を得た瑞月や光太郎は、「完全な自分」を与えられた気になっている愚か者だったのでしょうか。苦しみながら、もがきながら、それでも就活に立ち向かおうとする理香や隆良は、最後まで救われない者として描かれていたのでしょうか。恐らく違うでしょう。

就活は何を与えてくれるのでしょうか。それは、「幻想を追い続け、もがき続ける機会」ではないでしょうか。確かに、自分探しの旅に答えを出してくれるものではありません。「完全な自分」も与えてくれません。就活の真の意義とは、その旅を続けさせてくれる、理想を追い求めさせてくれることなのです。

母親を支え、自立しようとしてもがくこと。忘れられない相手を求めてもがくこと。イタいと分かっていながらも何者かになろうともがくこと。ブレながらも本気で就活を頑張ろうともがくこと。ネットで非難されながらも夢を諦めずもがくこと。その全てが、その人をその人ならしめるのです。

これを悟った拓人は、就活に対する考えを改めます。冒頭で「1分間に自分をどれだけ簡潔に表現できるか。就職活動はそれがすべてだ」と語っていた拓人は、最後に「1分間では話しきれません」と言って、面接会場を後にします。つまり、自分を殺し手段を選ばず冷徹に就活を攻略しようとするのはやめたわけです。

注意すべきは、拓人が就活を諦めたのではないということです(諦めたのなら、わざわざ面接を受けないでしょう)。「1分間では話しきれません」というのは、面接への反抗心などではなく、むしろ面接というものに真摯に向き合い、もがくことを学んだということを示しているわけです。

かくして、拓人はようやく人生のスタートラインに立ちました。スーツを着て、ネクタイを締めて、無限の可能性を秘めた社会という大海へ漕ぎ出したのです。彼の青春は終わり、彼の人生が始まったのです。

社会に出ていく上で、人生を歩んでいく上で、自分は何者として生きて行けるのでしょうか。この作品が提示する答えは、「自分として」です。

自分探しの旅に終わりはありません。確かなことなど無いのです。

唯一確かなことがあるとすれば、それは「自分は自分でしかない」ということです。我々は終わりのない旅を続け、もがき続けます。それは苦しいことですが、しかしどんなに苦しくても、「あなたがあなたであること」があなたを支え続けます。これは決して消えない呪いであり、そして永久の希望なのです。