少名毘古那神 (すくなびこなのかみ)
記紀に出てくる神さまの中でももっとも不思議で、実は、もっとも興味のある神さまです。
でも、その理由は、記紀にはいかに資料が少ないか。しかし、その少ない割に、この神さまの功績はいかにたくさんあるかということ。
(だから少なひこさま?? あ、神さまに対して、大変失礼しました)。
そして、とっても愛すべき神さまなんです。
実はこの前の記事「大国主神の国づくりの真実とは?」では、ちょっと歯切れが悪い感じがしませんでしたか??
というか、わざとそうしたのです(って、文章力のなさを誤魔化す言い訳...)。
というか、後半の大事な謎を解いてしまうと、スクナビコナさまの記事が埋まらなくなってしまう。それくらい、資料がないのです。
記紀以外には、「伊予国風土記」等全国各地に記載があります。但しどれもそんなに変わりません。オオクニヌシさまと、各地に現れ、農耕や医療を発達させたという表記が殆どです。
ちなみに、「日本書記 古語拾遺」、「伊予国風土記」、「伊豆国風土記」、「播磨国風土記」、「出雲国風土記」、「尾張国逸文」、「伯耆国風土記」などに記載がありますが、興味深いのは、必ずオオクニヌシさまと対で現れ、温泉(伊豆、伊予)や、種を蒔くということをニ神でご相談され、それを実践されたという記載になっていることなんです。
しかし、なんといっても困るのは、ここ。「古事記」と「日本書記」では、スクナビコナさまの父神の表記が異なるのです。
古事記では造化三神の神産巣日神(かみむすびのかみ)、日本書紀では同じく造化三神の高皇産霊神(タカミムスビノカミ)の御子とされています。
これは困りました。
このお二方とも造化三神のうちのニ神です。
実は、高皇産霊神と神皇産霊神については一般に、高皇産霊神は皇室天皇系の神霊、神皇産霊神は出雲系の神霊と考えられているのですね。そう考えると、やはりオオクニヌシさまに近い出雲系なので、 神皇産霊神かなぁと思いますが、わたくしは前記事において、オオクニヌシさまの国づくりの殆どはスクナビコナさまがなされた。なぜなら、それは高天原の総意を受けて、天津神としての国づくりを完成させたと言ってしまいました。
そう考えると、正史である「日本書記」に書かれている高皇産霊神さまの御子が正しい、ということはオモイカネさまのご兄弟なのでしょうか?? それよりも、ではなぜ古事記では、わざわざ 神皇産霊神さまの御子と書いたのでしょうか。
その謎を解くカギはふたつあります。
ひとつは、クエビコです。クエビコがスクナビコナさまをオオクニヌシさまに紹介しました。
クエビコは案山子です。案山子は一本足で、動けないものの象徴でもあるが、古来、こういうものは神託を伝えることのできる特別な能力を持っていると言われています。
そのクエビコをわざわざ呼んで確認するというのはどういうことでしょうか。
実はクエビコが解いたのではなく、オオクニヌシさまが自分で解いたのです。それは、八十神に最初に襲われ命を落とした時に神皇産霊神さまにお助け頂いた、まさにその記憶がクエビコ(久延毘古ー人となることをやめた廃人という意味)がなにもしないのでひたすら御霊を鎮めて、自身が一度死んだときの記憶を取り戻したのです。なので、そこで神皇産霊神と一致するのです。
もうひとつは、これはまた別の記事でしっかり書きますが、スクナビコナさまが去ったあとの、「大和への信仰」です。今回は簡単にいいますと、これは、オオクニヌシさまの魂の声です。そしてそれは、当然、天津神からの声でしょう。
多分、日本書紀は、この「高天原の神のお祀り」を重視したために、 スクナビコナさまを高皇産霊神の御子、若しくは化身としてお遣わしなさったと解釈したかったのでしょう。
日本書記は公式な歴史書である一方で、その編纂に関しては古事記のような確固とした「編纂方針」が定かではありません。そのために辻褄が合わない表記が沢山ある一方で、古事記のように「作られた歴史」ではないという言い方もできます。
今後のことを考えると、スクナビコナさまは、やはり、神皇産霊神の御子と考えたほうが、色々なことが分かりやすいと思います。