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ZIPANG TOKIO 2020「一千年の悠久の時を超えて!湯立神楽の古い形態を今も伝承 " 遠山の霜月祭り " 国指定重要無形民族文化財」~伝統のお面~

2016.10.26 15:00


赤石山地西麓を走る中央構造線に沿って連なる細長いV 字状の峡谷、ここが霜月まつりを伝えている遠山郷です。 遠山郷は西に伊那山脈、東に赤石山脈、それぞれの崩壊土壌によって農耕地が形成され、集落はそれらの斜面や河川の流域に点在しています。 こうした環境と生活の厳しさが、厚い信仰を育み素朴で優雅な霜月まつりを現在に伝える風土をつくりました。  遠山郷は古来、信濃国伊那郡江儀遠山の庄と言われ、歴史のなかで最初に顔を出すのは、文治二年(1186)に編まれた「吾妻鏡」においてです。 南アルプスの山々に雪が白くかかる頃、祭り笛が谷を流れます。里人が待ちわびた年一回の神と人間の出会いの夜です。 煮えたぎる神々の湯を浴びて、里人たちは身を清め、春まく種も稔り豊かに、平和で豊かな里であることを祈願するのです。

 この祭りが文献に現れたのは、江戸後期の国学者、本居宣長の「玉勝間」(文化九年刊)です。祭事の移入についても諸説があり、必ずしも明確ではありません。 霜月まつりは、伊勢神宮の内宮の湯立の系統をひくもので、おそらく伊勢方面から伝来した神楽に、元和年間にこの地で滅びた遠山土佐守一族の霊を鎮める鎮魂の儀式が後から加えられた、という見方を研究者たちはしています。 いずれにしても遠山の霜月まつりは、古い伝統と古式豊かな祭事であり、昭和54年2 月3日、文化庁の重要無形民俗文化財に指定されました。


国指定重要無形民族文化財・遠山の霜月祭り

遠山の霜月祭りは湯立神楽の古い形態を今も伝承しています。 年も押し迫った十二月、谷の各所からは神楽歌が聞こえてきます。 国の重要無形民俗文化財に指定されている遠山の霜月祭りは、上村・南信濃の各神社で湯立神楽が奉納されます。 社殿の中央に設えた釜の上には神座が飾られ、湯を煮えたぎらせて神々に捧げます。 祭りのクライマックスを迎えると天狗などの面が登場し、煮えたぎる湯を素手ではねかけます。 ふりかけられた禊ぎの湯によって、一年の邪悪を払い新しい魂をもらい新たな年を迎えます。

※遠山の霜月祭りは舞の型や式次第の違いによって、上町系・下栗系・木沢系・和田系に分類することができます。


【木沢系の霜月祭り】


木沢系の霜月祭り

遠山の霜月祭りは舞の型や式次第の違いによって、上町系・下栗系・木沢系・和田系に分類することができます。 上記の写真は、平成15年12月10日に行なわれた木沢正八幡神社の霜月祭りを中心に、木沢系の祭りの次第を紹介しています。  上島・木沢・小道木・中立・八日市場では、木沢霜月祭り保存会が中心となって祭りを行なっているので、次第はほぼ同じです。ただ、地域によって登場する面は異なります。


【和田系の霜月祭り】


和田系の霜月祭り

南信濃南部の和田の諏訪神社、八重河内の尾野島正八幡神社、南和田の大町天満宮の3ヶ所には、和田系と分類される霜月祭りが伝えられています。  3社は、尾野島正八幡神社に所蔵されている面を持ち回りで使用していますが、この面はかつてそれぞれの神社にあったものを集めたのだと伝えられています。   そのため、和田系の霜月祭りに登場する面は41面もあり、被り手を集めるのに苦労している神社もあります。  昭和50年代までは、各神社の禰宜が合同で祭りを行なっていましたが、現在では和田諏訪神社と尾野島正八幡神社にそれぞれ霜月祭り保存会が作られています。 そのため、次第や型は共通ですが、神社によって少しずつ個性の違いが現れはじめています。  大町天満宮では、和田保存会の協力を得ながら天満宮奉賛会によって祭りが行なわれています。




【中郷の正八幡宮】※上町系霜月祭り

面(おもて) 中郷の正八幡宮の霜月祭りには、16面の面が登場します。そのうち14面は、江戸時 代中期の宝暦(ほうれき)9年(1759)に飯田の仏師4代目井出運正(いでうんしょう)と幸八によって作られたものです。 面箱にはその年号が記され、また面の裏面にも、たとえば源王(げんおう)大神面には「源王大臣宝暦九己卯歳 信劦飯田住大仏師 井出右兵衛 同幸八 拾四面之内作也」という銘があります。 残り2面のうち、火王面は大坂城落城の際に一人の浪人が持ってきたなどという伝承 があり、この1面のみが他の胡粉塗(ごふんぬ)りとは異なって漆塗(うるしぬ)りとなります。 もう1面の津島大神は大正時代に追加奉納されたものです。


中郷の正八幡宮は、旧上村中郷集落の神社です。祭日は12月12日でしたが、平成17年から12月の第1土曜日に改められました。 祭神は、正八幡社(誉田別命 ほんだわけのみこと)や津島神社、源王(げんおう)大神・政王(まさおう)大神・両八幡(先祀・後祀)・ 住吉明神・日吉明神・一の宮・淀の明神からなる八社神、四面など18柱が、社殿内に並ぶ10宇の祠に個別にまつられています。 さらに境内社として宮天伯、それに社殿の東南西北に両山の神・地の神・尾崎の神・子の神が、ちょうど正八幡宮を守護するかのように配置されています。これは中郷の大きな特徴です。


神社は、伝承では正嘉年間(1257~58)に創建されたもので、最初、西ノ原一帯に点在していた祠を、のちに大宮に納めたといわれています。現在の社殿は平成15年に一新したものですが、神前に祭神の祠が並ぶ形は以前の形を引き継いでいます。 そのため、正八幡社の祠の下部に面箱を納めておいて「お倉開き」のときに取り出します。 上町系の霜月祭りのなかにあって、火災にあった上町・程野がいずれも祭神をまとめて本殿内に納めるのに対して、中郷は古い形を伝えている点で注目できます。 舞殿には2基の土製の竈が設けられ、神前に向かって左が「一の釜」、右が「二の釜」です。その真上には「湯の上飾り」が吊されています。


式次第 中郷の祭りは、前日に準備と宵祭り、そして当日は朝から「湯の上飾り」など準備が あり、昼過ぎから本祭りとなります。 まず「大祭式」をしてから、「座揃(ざぞろえ)」などで祭場を神楽歌によって清め、神々のやってくる道を開いたのち、「 神名帳(じんめいちょう)」を奉読して全国66ヶ国の一宮を迎えて、祈願を「申上」ます。 そして、「 先湯(せんゆ) 」3立と「池大明神の湯」がおこなわれます。 その後、立願によって産土神への一生の奉仕を誓う「神の子」がありますが、これはこの中郷と和田だけに伝わっている儀式です。 「秋葉大神の湯」など集落内にある神々の湯立ての後、夜中の零時過ぎに四面に捧げる湯立て「御一門の湯」となり、このとき神前では面箱を取り出す「御倉開(おくらびらき)」があります。「四つ舞」「襷(たすき)の舞」「羽揃(はぞろえ)の舞」に続いて、「鎮(しず)めの湯」が厳重におこなわれます。 「日月の舞」で招待した一宮をお返し、以後は神社にまつる神々「御座(ござ)の神」の祭りとなって、いよいよ「面」16面の登場です。翌朝を迎えた最後に、「金山(かなやま)の舞」で神々や精霊を追い返して祭りを終えます。


【上町・正八幡宮】※上町系霜月祭り

面(おもて) 上町正八幡宮の霜月祭りには、17面の面が登場します。 うち15面が正八幡宮の祭神 面で、残りの稲荷・山の神2面は末社の祭神面です。 15面は、江戸時代中期の延宝(えんぽう)4年(1676)に飯田の仏師井出(いで)氏(初代幸蔵か)によって神像とともに作られたと言い伝えられています。 しかし、明治18年(1885)の火災によっ て焼失してしまい、その翌年に12代井出嘉 汕(かせん)によって作られたといわれるのが現在の面です(実際は11代長吉か)。 17面の舞はつぎのとおりです。 このうち、富士天伯以外は2回くり返して登場します が、 2度目は立願(神への願かけ)を果たすためのものです。 末社2面をのぞく15面の構成は、 遠山氏の御霊を調伏するストーリーをもち、さらに祭り全体の湯立てや舞とも対応関係 がみられる点に、上町の大きな特徴があります。



上町の正八幡宮は、旧上村の村社です。祭日は12月11日と定められています。 祭神は、正八幡宮(誉田別命 ほんだわけのみこと)・五郎の姫神(神功皇后 じんぐうこうごう)・八王神(武内宿禰 たけのうちのすくね)、八社神(はっしゃがみ)、そのほか瀬戸神・若宮・守屋大神、四面(よおもて)、以上18柱と、境内社として富士天伯(ふじてんぱく)ほかがあります。 神社は、言い伝えでは建保(けんぽう)元年(1212)に京都から迎えて小さな祠にまつり、文亀(ぶんき) 2年(1502)に大宮を建立したといわれます。 しかし、火災に3度遭ったこともあって定かではありません。 現在の社殿は明治20年(1887)に再建されました。

舞殿に築かれた2基の土製の竈(かまど)は、もとは毎年すべてを造り替えていましたが、現在は数年に1度となりました。 その上には吊される「湯の上飾り」とあわせて「湯殿」とよばれ、いずれも細部にいたるまで深い意味が込められている点に大きな特徴がありま す。 たとえば、湯の上飾りは「湯男(ゆおとこ)」「湯雛(ゆびな)」「日月」「人面(じんめん)」「八(やつ)橋」「花」「千道(ちみち)」「ひさげ」からなりますが、これらをあわせて「十種(とくさ)の神宝(かんだから)」、すなわち死者を生き返らせる呪具を意味するとされています。 また竈について、2基の竈は天地陰陽(いんよう)、釜柱の芯となる松の生木を八字形に立てるのは八紘(はっこう)の栄さかえ、それに巻く12尋(ひろ)の縄は12か月、その縄につく48のヒレは天地日月七曜九曜二十八宿、八尾根を越えて採ってくる12背負いの土は1年12か月、土に混ぜる28把の藁(わら)は二十八宿(しゅく)、それを36切にするのは天地三十六神、釜柱に着ける土玉を365個作るのは1年の日数をあらわすなど、徹底して意味づけがなされているのです。 屋外には、宮天伯社の横に「おわき」という竹の棒の先端に幣束を突き刺した、神々を迎える標木が立てられます。


【程野の正八幡宮】※上町系霜月祭り

面(おもて) 程野の正八幡宮の霜月祭りには、15面の面が登場します。 焼失前の面は安永10年(1781)に飯田の仏師6代目井出祐正(いでゆうしょう)によって作られた12面と塗り直された3面からなり、大変優れた面だったといわれています。 現在の面は昭和29年に作られたものです。


程野の正八幡宮は、旧上村程野集落の神社です。 祭日は12月14日と定められています。 祭神は、正八幡大神(誉田別命 ほんだわけのみこと)、政王大神・源王大神・両八幡(先祀・後祀)・住吉明神・ 日吉明神・一の宮・淀の明神からなる八社神、四面、所之大明神や諏訪大明神・小野之明神など23柱がまつられています。 さらに境内社として宮天伯、才若正八幡社・境之 明神などがあり、古い切り株にはガラン神もまつられます。 神社の起こりは不明です。昭和26年に火災にあってすべてを焼失してしまいました。 焼失前の祭神は12社でしたが、再建時に諏訪大明神・小野之明神などが合祀されました。舞殿には2基の土製の竈が設けられ、神前に向かって右が「一の釜」、左が「二の釜」となって、上町や中郷とは反対になります。 その真上に吊される「湯の上飾り」は、ヒレのついた複雑な切り紙で飾られます。 湯釜のすぐ上まで垂れ下がっていますが、不思議と燃えることはありません。 屋外には、宮天伯社の横に「おわき」という竹の棒の先端に幣束を突き刺した、神々を迎える標木が立てられ、イチョウの大木には「梵天(ぼんてん)」とよぶ幣束が結わえつけられます。 また諏訪大明神を合祀するため、申・寅年には御柱祭が盛大に行われます。



【下栗の拾五社大明神】※下栗系霜月祭り

面(おもて) 下栗の拾五社大明神の霜月祭りには、39面の面(おもて)が登場します。 その内訳は、江戸時代後半期~末期にさかのぼるものが20面、残りは明治時代です。 この面の大きな特徴は、同じ祭神の面が2面ずつみられることですが、その理由は明治31年(1898)頃に拾五社から離れて祭りをはじめた屋敷の津島牛頭天王社(つしまごずてんのうしゃ)の面を、大正12年(1923)頃に加えたからです。 もともと拾五社のものだった面は27面、津島牛頭天王社の面は12面と推測されます。


下栗の霜月祭りは、遠山郷でもっとも高所にある集落―飯田市上村下栗にある神社の祭りです。 標高は997mを測ります。 霜月祭りの祭日は、戦前までは12月12日でしたが、1月4日になり、さらに平成10年から12月13日に改められました。 神殿には3宇の大きな祠(オタマヤ)が並びます。 中央が拾五社大明神で、向かって右が両八幡、左が八社神(はっしゃがみ)です。 また、その間には右に一の宮、左に二の宮が小さな祠にまつられています。 そして、屋外の鳥居の脇には若宮があります。 なお、現在、この神社は中央の祭神の名でよばれますが、文久2年(1862)の古文書には「霜栗八社神様」と記されています。

神社は、神殿の前面に拝殿があり、その前に広がる舞殿(前宮)の中央には大きな火床(ほど)が設けられ、 2口の湯釜が鉄製の五徳に据え付けられます。 その真上には「火のあて」が吊され、煙出しの梁 はりに打ちつけられた「三大山(さんたいやま)」から、「十六天」とよばれる紙垂(しで)が長く垂れ下ります。 「湯桁(ゆげた)」とよばれる木枠には、正面に「日天」「月天」「徳利(とっくり)」「鳥居」「橘 たちばな」「下がり藤」、向こう正面には「七条格子」、左右には「横一文字」が貼られます。 神殿と対面する壁には「日待棚(ひまちだな)」があり、使用済みの湯木がのせられます。 さらに神殿の背後には、祭りを主になってつとめる「三太夫(さんだゆう)」 3人(拾五社・両八幡・八社の宮元)と、屋敷津島牛頭天王社の宮元1人、「そで禰宜」 3人が籠もる「精舎(しょうじゃ)」という部屋があります。


【中立・正一位稲荷神社/八日市場・日月神社】※木沢系霜月祭り


飯田市南信濃の中立と八日市場では、霜月祭りをそれぞれの神社で隔年交互(中立は西暦の奇数年、八日市場は西暦の偶数年)に開催されます。中立の神社は正一位稲荷神社、八日市場(中村)の神社は日月神社です。 祭日は12月8日でしたが、平成15年から12月1日に改められました。 中立の正一位稲荷神社の祭神は宇迦魂神(うがたまのかみ)とされ、稲穂を担いだ神像がまつられています。 この神社は宝暦12年(1762)には小さな祠としてまつられていたようですが、寛政元年(1789)に京都の東本願寺再建の木材を供出したことから「正一位(しょういちい)」を授かり、翌年に社殿を建築。さらに文久3年(1863)になって現在地に移転して再建されました。


神殿には中央奥に一社流れ造りの朱塗りの「御霊屋(おたまや) 」がまつられ、手前向かって右手には湯立てに使う湯木を置く「日待棚」があります。 拝殿の左奥にある小部屋は、祭りを主になってつとめる禰宜(ねぎ)や神名帳(じんめいちょう)奉読役の「神迎え」、祭りの進行をつかさどる「宮世話人」が籠もる「精舎(しょうじゃ)」です。この部屋にはその食事の世話をする「精舎のカシキ」以外、部外者の立ち入りは一切禁止されています。


 舞殿の中央には火床が設けられ、2口の湯ゆ 釜がまが五ご 徳とくに据えつけられています。 神前に向かって左が「一の釜」、右が「二の釜」です。 その真上には「湯桁(ゆげた)」とよばれる四角い木枠が吊され、さまざまな切り紙で飾られますが、これが「湯のあて」です。 湯釜の真上には雄雌の2本をあわせた「湯男(ゆおとこ)」とよばれる幣束(へいそく)が吊され、その尻から湯桁の注連縄(しめなわ)にかけて「八つ橋」と「千 道(ちみち)」とよばれる切り紙が渡されます。 湯桁には正面(南)と向正面(北)には「鳥居」、左右面(東西)には「日月」が中央につき、そのほか「格子(こうし)」とよばれる切り抜きが貼られます。 舞殿の北東隅には、藁(わら)ツトに白紙の小幣12本、赤幣1本を差した「八 乙女(やおとめ)」が飾られます。


【小道木の熊野神社】※木沢系霜月祭り

面(おもて) 小道木熊野神社の霜月祭りには、37面の面(おもて)が登場します。 その内訳は、江戸時代中期の面がおよそ5面、同後期の天保9年(1838)が1面、同末期が12面、明治時代 が17面、昭和が2面です。


小道木の霜月祭りは、飯田市南信濃木沢の小道木集落にある熊野神社の祭りです。 祭日は12月14日でしたが、昭和63年から12月第1日曜日に改められました。 この神社は、古くは「熊野三社大権現(だいごんげん)」とよばれました。 寛元(かんげん)元年(1243)創建(そうけん)と伝わっており、もとは小道木橋を渡った対岸の「権現堂(ごんげんどう)」にありましたが、神様が道下にあるのをきらって社殿を焼いてしまったため、川合集落も一緒に協力して現在地に移したといわれます。


 祭神は、大日孁尊(おおひるめのみこと)(天照大御神)・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の3柱で、鏡をご神体としていますが、もとは3躯の仏像と随身像で、いまも「御隠居様(ごいんきょさま)」として別にまつられています。


神社は、神殿の前面には拝殿があり、さらにその前に板の間となる舞殿があります。 舞殿の中央には竈(かまど)が設けられ、2口の湯釜が据えつけられます。 神前に向かって左から「一の釜」「二の釜」です。もと土製の竈でしたが、昭和27年ころに煉瓦造(れんがづくり)となりました。 その真上には「湯桁(ゆげた)」とよばれる四角い木枠に、さまざまな切り紙を飾る「湯のあて」があります。 湯釜の真上に吊された「湯男(ゆおとこ)」とよばれる幣束(へいそく)の尻から、湯桁(ゆげた)の注連縄(しめなわ)にかけて「八(やつ)橋」と「千道(ちみち)」とよばれる切り紙が渡されます。 湯桁には正面(南)と向正面(北)には「鳥居」、左右面(東西)には日月を表した「日天子月天子」が中央につき、そのほか「格子(こうし) 」とよばれる切り抜きが貼られます。 舞殿の北東隅には、藁(わら)ツトに小幣を差した「八乙女(やおとめ)」が飾られます。 また、屋外のご神木には、白・赤の紙を折った幣束12本を差した「神おろしのおやま」が結びつけられます。神々を迎える標木です。


【木沢の正八幡神社】※木沢系霜月祭り

面(おもて) 木沢八幡神社の霜月祭りには32面の面(おもて)が登場します。 その内訳は、江戸時代初期の面が15面、同中期の寛延(かんえん)元年(1748)頃の面が2面、同後期の天保(てんぽう)9年(1838)が2面、明 治時代が11面、昭和28年(1953)が1面です。 そのほか霜月祭りに使用しない「古代面」 とよばれる古面があり、鎌倉~南北朝時代の作と推定されています(現在は遠山郷土館に展示 中)。面の登場する順序はつぎのとおりです。


木沢の霜月祭りは、飯田市南信濃にある旧木沢村社・八幡神社の祭りです。 祭日は12月10日でしたが、平成21年から12月第2土曜日に改められました。 神社の祭神は、神殿に誉田別命(ほんだわけのみこと)ほか遠山氏にちなむ八社神(はつしゃがみ)を含めた12柱、向かって右手の御鍬大神舎(ごくわおおかみしゃ)に3柱、左の池大明神舎(いけだいみょうじんしゃ)に5柱がまつられます。 この神社は遠山土佐(とおやまとさ)の守(かみ)によって文亀(ぶんき) 2年(1502)に建立されたと伝えられ、古くは遠山全体(遠山6ヶ村)の惣鎮守(そうちんじゅ)であったともいわれます。 寛文(かんぶん)2年(1662)に代官市岡利右衛門(いちおかりえもん)によって修復(しゅうふく)、さらに文化14年(1817)に再建されたのが現在の社殿(拝殿・舞殿 まいでん)です。 神殿は明治21年(1888)に木曽亀坂田亀吉(ことさかたかめきち)によって造られました。



神殿の前面には広い拝殿があり、さらにその前に板の間となる舞殿があります。 その中央には大きな土製の竈(かまど)が設けられ、3口の湯釜(ゆがま)が据えつけられています。 神前に向かって左から「一の釜」「二の釜」「三の釜」です。 竈が3口となるのは遠山でもこの木沢だけです。 その真上には「湯桁(ゆげた)」とよばれる四角い木枠が吊され、さまざまな切り紙で飾られますが、これを「湯のあて」とよびます。また竈の横には火床(ほど)があり、これは「不浄火(ふじょうび) 」とよばれて、参詣者(さんけいしゃ)のけがれをその煙ではらうものといわれています。 湯のあてには、湯釜の真上に「湯男(ゆおとこ)」とよばれる幣束(へいそく)が吊され、その尻から湯桁の注連縄(しめなわ)にかけて「八つ橋」と「千道(ちみち)」とよばれる切り紙が渡されます。湯桁の正面(南)と向正面(北)には「鳥居」、左右面(東西)には日月を表した「日天子月天子(にってんしがってんし) 」が中央につき、そのほか「格子(こうし)」とよばれる切り抜きが貼られます。 舞殿の北東隅には、藁(わら)ツトに白紙の小幣12本を差した「八乙女(やおとめ)」が飾られます。 また、屋外の石段横の木には、白・赤の紙を折った幣束12本と「天狗幣(てんぐべい)」1本を差した「神おろしのおやま」が結びつけられます。神々を迎えるための標(しるし)です。



【和田の諏訪神社】※和田系霜月祭り

面(おもて) 和田諏訪神社の霜月祭りには、41面の面(おもて)が登場します。これらの面は普段は八重河内・八幡社に保管されていて、和田では祭り前日に「面迎え」をしてきます。 面は、水の王・火の王、じいさ・ばあさ、猿からなる「役面(やくめん )」 5面のほか、遠山氏の御霊をかたどった7面、その他、村内の各地にまつられる神々の面からなります。 これらの面が作られたのは江戸時代の前半期から明治時代にかけてで、八重河内の八幡社の面に周辺の神社の面を集めたものといわれます。



和田の霜月祭りは、飯田市南信濃和田にある、旧和田村社・諏訪神社の祭りです。 この神社は承久(じょうきゅう)元年(1219)に再建されたと伝わり、古くから遠山谷にまつられた諏訪神 社であったと推測されています。 毎年8月下旬には御射山祭り(みさやままつり)、7年に1度の申(さる)・寅(とら)年には御柱祭(おんばしらさい)がおこなわれます。 祭神は建御名方命(たてみなかたのみこと)。 社殿は、神明造(しんめいづくり)の本殿の前面に、切妻造(きりづまづくり)・妻入(つまいり)の拝殿(はいでん)・舞殿(まいでん)が続いています。 板の間となる舞殿の中央には四角い炉が設けられ、鉄の五徳(ごとく)に湯釜1口が 据えつけられます。 湯釜の真上には「湯桁(ゆげた)」とよばれる四角い木枠(きわく)が吊るされ、それに張り渡した注連縄(しめなわ)にはさまざまな切り紙が飾りつけられます。


そのうち、「大千道(おおぢみち)」は神々が天上から降りる道とされ、頂部には塩と米の入った包みが吊されます。 注連縄の各辺には、「小千道 (こちみち)」「八つ橋」「十六のひいな」「八流の旗(やながれのはた)」 が付き、いずれも九字(くじ)をあらわす切り込みなどが刻まれています。 また、東隅だけに「湯男(ゆおとこ)」とよぶ飾りがつきますが、これにはレンズ形の日月と、九字をあらわす縦横4本・5本の切り抜きが計114あり、その数は人間が生きられる年齢をあらわすとも、「百通し」となって願がかなう数ともいわれます。さらに、これら飾りの総数は61通りとなり、その数は還暦(かんれき)(十干十二支(じっかんじゅうにし)の暦(こよみ)が一周して新たな出発となる数)、すなわち「よみがえり」を 意味しています。 東隅に吊される湯男は、太夫が「立場」とする西隅と対面しています。ここにも、夜明けとともに新たな太陽を迎えるという霜月祭りの意味が込められているのでしょう。

和田の霜月祭りは、飯田市南信濃和田にある、旧和田村社・諏訪神社の祭りです。 この神社は承久(じょうきゅう)元年(1219)に再建されたと伝わり、古くから遠山谷にまつられた諏訪神 社であったと推測されています。



【八重河内の八幡社】※和田系霜月祭り

面(おもて) 八重河内の八幡社の霜月祭りには、41面の面 おもてが登場します。 これらの面は普段はこの神社に保管されていて、和田の祭りではこれを迎えて祭りをします。 それは祭りが中断した大町の遠山天満宮や夜川瀬の愛宕神社などでも同様でした。 面を借りていく理由は、諏訪神社ほかの周辺神社にもあった面を、八幡社に預けて一緒に保管していたからといわれます。 面は、水の王・火の王、じいさ・ばあさ、猿からなる「役面」 5面のほか、遠山氏の御霊をかたどった7面、その他、村内の各地にまつられる神々の面からなります。 これらの面が作られたのは江戸時代の前半期から明治時代にかけてです。


八重河内の霜月祭りは、飯田市南信濃にある、旧八重河内村の村社だった八幡社の祭りです。 この神社の起こりは、弘治(こうじ)元年(1555)に遠山土佐守景広(とおやまとさのかみかげひこ)が鶴岡八幡宮(つるおかはちまんぐう)から勧請したともいわれています。 この神社で不思議なことは、神社が位置する尾野島(おのしま)はじつは旧和田村だった和田地籍で、 逆に旧和田村の村社諏訪神社は八重河内地籍内にあることです。 八重河内の中心本村にある梁ノ木島番所(飯田市史跡)のすぐ裏手には、元八幡社といわれる祠がまつられ、もとはここにあった神社が水害で流されて尾野島に漂着したという伝承が語られています。


祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)と天伯(てんぱく)で、神殿の脇にある若宮の祠には遠山氏二代を象った神像がまつられています。 現在の切妻造(きりづまづくり)・妻入(つまいり)の社殿は、弘化4年(1847)に再建されたものです。 板の間の舞殿の中央には四角い炉が設けられ、鉄の五徳(ごとく)に湯釜1口が据え付けられます。 湯釜の真上に「湯桁(ゆげた)」とよばれる四角い木枠が吊され、それに張り渡した注連縄にはさまざまな切り紙が飾りつけられます。 これを「湯の上飾り」とよびます。 なお、湯桁に は安政6年(1859)の年号が記されています。 湯の上飾りのうち、「大千道(おおちみち)」は神々が天上から降りる道とされ、頂部には塩と米の入っ た包みが吊されます。 注連縄の各辺には、「小千道(こちみち)」「八つ橋」「十六のひいな」「八流れ(やながれ)の旗」 が付き、東隅にだけ「湯男(ゆおとこ)」とよぶ飾りが付きます。 この湯男の反対側の西隅が、太夫 が神事の際に主に立つ「立場」となります。和田では拝殿よりの隅でしたが、八重河内では入り口寄りとなります。 実際の方位にあわせて定められているのです。


現在の切妻造(きりづまづくり)・妻入(つまいり)の社殿は、弘化4年(1847)に再建されたものです。


                               ※花祭り、ミャオ族の写真は民俗学伝承ひろいあげ辞典 参考


補足 【霜月祭と星の信仰】
飯田市南信濃の和田や八重河内の霜月祭では、面をつけた「水の王」「火の王」などが、「六方」という独特のステップを踏みながら釡の四方を巡ります。このように大地を踏み締める所作は、一般的に「反閇」と呼ばれる陰陽道の呪法のひとつだそうで、霜月祭ばかりでなく新野の雪祭りや愛知の花祭などにも見られます。


                              

 反閇の起源は禹歩という道教の呪術で、北斗信仰と密接な関わりがあるそうです。たとえば禹歩の一種である「返閉局法」では、占いの結果吉方や吉時がない場合は北斗七星を地面に描き、その星をひとつひとつ踏むことによって天帝と一体化し、不吉な状況を反転させました。  こうした中国の呪術が日本の陰陽道に取り入れられ、修験道を介して湯立神楽に取り入れられたそうです。霜月祭における反閇は、それを行うことによって大地の邪霊を追い立て、人々を祝福する意味を持つと考えられています。  八重河内に伝わる霜月祭の古文書によれば、水の王、火の王は八芒星の軌跡を描くように湯釜の周りを踏んでいます。木沢の霜月祭では、こんな神楽歌もうたわれています。

「七曜九曜 お星はのこらず方へまいらせる それきこしめせ ヤンヤーハーハ」



鎹八咫烏 記


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