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徳川家の出自と松平一族について

2018.03.05 02:03

https://ameblo.jp/ufjtmb26/entry-12219125485.html 【徳川家の出自と松平一族について(1)】より。

 鎌倉時代末期から建武の新政、南北朝から室町時代初期の観応の擾乱、室町時代後半以降の応仁・文明の乱から戦国時代、織豊時代にかけて、日本は戦乱の時代であった。

そうした戦乱の時代は実力主義の時代でもあり、「下剋上」の言葉があるように、それまでの旧い勢力が没落し新しい勢力が勃興していった。

 守護代や有力国人から戦国大名となった例は、近江の浅井氏、越後の上杉氏、阿波の三好氏、備前の宇喜多氏、土佐の長宗我部氏、安芸の毛利氏、尾張の織田氏、肥前の竜造寺氏、出雲の尼子氏、越前の朝倉氏など沢山ある。

守護大名が戦国大名に転化した場合も、例えば薩摩の島津氏のように守護大名の一族間の熾烈な戦い起こり庶流が嫡流を打倒した例や、例えば陸奥の伊達氏や出羽の最上氏などのように親子や兄弟など近親の間での熾烈な戦いが行われた例がある。

戦乱の時代には、これらの戦いに勝ち抜く実力が武士には求められていたが、そこで勃興した新しい勢力の中には、社会の様々な階層から出自して武士となり、戦国時代を勝ち抜いて戦国大名となり、さらに織豊大名から江戸時代の大名となっていった人たちがいた。

例えば、油売りから親子2代がかりで美濃の戦国大名となった斎藤道三、京で伊勢氏の被官をしていたが、妹の子どものために守護大名の家督争いに介入し、隣国に攻め入って自立した相模の北条早雲、貧農の子で村落共同体から脱落して各地を流浪していたが、織田信長の家臣となり、織田信長の後継者となって日本を統一した関白豊臣秀吉、木曽川沿いの野武士だった阿波の蜂須賀氏、足利義昭の上洛に過程に係って織田信長の家臣となり、本能寺の変で織田信長を殺害したが、三日天下で羽柴秀吉(豊臣秀吉)に打倒された明智光秀などが挙げられる。

江戸幕府を開いた徳川氏の出自も、そうして「成り上がった」人たちであった。

徳川氏は松平氏が改姓したものであるが、松平氏は三河国加茂郡松平郷が発祥の地であり、松平氏には松平郷から出て戦国大名となった家系と松平郷に残った家系があった。

松平郷に残った家系は、途中で断絶もあったようではあるが、徳川家康の関東移封後も引き続き松平郷に残り、江戸幕府が作られると旗本になった。

松平郷に残った家系は、代々、太郎左衛門を名乗ったので松平太郎左衛門家と呼ばれていたが、この松平太郎左衛門家に、松平郷に伝わっていた松平家の歴史についての伝承が、江戸時代初期に纏められた「松平由緒書」が残されていた。

松平家の系譜や伝承は、松平家から徳川将軍家が出たことにより、松平家の歴史を美化したり、都合の悪いことを隠蔽したり、関係ないことを松平家に結び付けてその権威を借りようとしたリ、というような後世の改変とその結果の虚構が激しく、そのまま真実とはみなせず、厳密な史料批判が必要である。

そうした松平家の系譜や伝承の家中では、比較的信頼が置けるのが、この「松平由緒書」である。

菊池浩之の「徳川家臣団の謎(角川選書576)」(以下「菊地論文」という)では、松平氏初代とされる松平親氏に係る通説について、新行紀一の「一向一揆の基礎構造―三河一向一揆と松平氏(吉川弘文館)」(以下「新行論文」という)を引用して以下のようにいう。                                                            「松平氏伝承によれば、新田得川氏の後裔親氏は時宗の僧となって徳阿弥と名乗り、父長阿弥有親と共に三河国碧海郡大浜の時宗称名寺に来た。

親氏は還俗して酒井五郎左衛門の婿となり、一男(与四郎広親、酒井氏祖)を儲けたが、幾許もなく妻に死別した。

その後、加茂郡松平郷の松平太郎左衛門信重の婿となって家を嗣ぎ、松平南方の山上に郷敷城(郷式城)を築き本拠地とした。この後、親氏は泰親と共に、加茂郡林添の薮田源吾忠元を討ち取り、額田郡麻生内蔵助の城を陥れ、加茂郡二重栗の二重栗内記を大林で攻め殺したので、田口の中根、秦梨の粟生、奥岩戸の岩戸大膳(あるいは岩戸村の天野)、柳田の山内等すべて降伏し、中山七名は支配下に入った。

親氏の長子信広は太郎左衛門家を継ぎ、二子信光が家督とされたが、親氏没後に二人は幼少のため弟親氏が家を継いだ。

泰親は額田郡大平の柴田左京を追い、ついで信光とともに岩津城の岩津大膳(中根大膳とも)を討ったという」

しかし、「松平由緒書」には、違った伝承が書かれている。

菊地論文は、平野明夫の「三河 松平一族(新人物往来社)」(以下「平野論文」という)を引用して以下のようにいう。

「「松平太郎左衛門尉信重の先祖を、在原とも、紀州熊野の鈴木の系統ともいうけれども、くわしくはわからない。いまでは元の姓は不詳といっている」。また、「信重から先祖を尋ねられた親氏が、わたくしと申しますのは東西を定めずに旅する浪々の者でありまして、恥ずかしく存じます、と返事したとする。ここには氏素性の知れない者として、親氏は書かれている」と記している」

 松平氏が新田氏後裔の源氏を称するようになるのは、家康の祖父清康のときに「世良田三郎清康」と名乗ったのはが初めてであり、その後、永禄9年(1566年)に家康は朝廷から従五位下三河守に叙任され、「松平由緒書」家名を松平から徳川に変えたが、その時は藤原氏を称した。

 神祇官の吉田兼右が万里小路家で旧記から先例を探しだし、それを写し取って系図を作成したが、その系図では、徳川は本来は源氏なのであるが、その惣領の筋が二流に分かれて、その一方が藤原氏になったとされていたという。

 吉田兼右が作成した系図は残されてはいない。

 笠谷和比古の「徳川家康の源氏改姓問題」(以下「笠谷論文」という)によれば、この経過はおおむね以下のとおりである。

吉田兼右は架空の系図をでっち上げたわけだが、それが必要だったのは、当時の家康にとって朝廷から三河守に叙任されることは自らの支配の正当性を確保する上でどうしても必要なことであったが、そうした叙任は、通常は氏の長者が朝廷に執奏することになっていた。

徳川氏が源氏であれば、その執奏をするのは源氏の氏の長者である足利将軍家の当主であるが、この頃は将軍位をめぐる騒乱の最中で、将軍は実質的には空位だったので、仕方なく、徳川氏は藤原氏であったということにして、藤原氏の氏の長者である関白近衛前久に執奏を依頼したと考えられる。

このように便宜的に藤原氏を称したこともあるが、家康は、松平氏は源氏であるという意識を持っていたようで、永禄4年から6年にかけての家康(当時は元康)の発給文書に中に、源氏を称する文書が存在する。

家康が公式に源氏を称するのは、天正16年(1588年)の後陽成天皇の聚楽第行幸の際の三カ条の誓詞に大納言家康と署名して以降であるが、この年には、室町幕府の第一五代将軍の足利義昭が上洛して出家し、足利将軍家が消滅しているので、家康は源氏の氏の長者に頼らずに源氏を称することができるようになったと考えられる。

また、家康は、天正15年(1587年)に、それまでの大納言に加えて左近衛大将、左馬寮御監の官職を兼任したが、この二つの官職は伝統的に征夷大将軍に付随すべき性格のものである。

ここから、家康の関東移封も含めて一連の出来事を考えると、豊臣秀吉が関白となり全国を支配し、その下で徳川家康が将軍となって東国を管轄するいう、「豊臣関白政権の下に徳川将軍性を内包するような形での、権力の二重構造的な国政」が構想されていた時期があった、と考えられる。

こうした笠谷論文の指摘からは、家康の源氏への改姓と徳川氏への家名の変更は、豊臣政権の承認のもとに行なわれたと考えられるが、結局、徳川家康の征夷大将軍への任官は、豊臣政権下では実現しなかった。

家康の源氏改姓と徳川氏への家名変更は、元の姓と家名に復するという形で行われたので、天正16年(1588年)の改姓と改家名のときにも、系図の作成が必要であったはずであるが、天正16年(1588年)のときに使用した系図は、永禄9年(1566年)のときに使用した系図を修正したものだったと考えられる。

祖父の清康と父の広忠が若くして殺害され、家康自身も故郷を離れて今川氏の人質とされ、残った松平氏の家臣団が解体されて今川氏の家臣として再編されそうになるという、苦難の道を歩まざるを得なかった家康の心の支えは、一時は三河を統一した祖父清康の存在であったはずである。

だから、家康は、その清康が松平氏は源氏だと主張したことには根拠があったはずであり、その根拠を明らかにしようとしたと考えられる。

煎本増夫の「戦国時代の徳川氏(新人物往来社)」(以下「煎本論文」という)によれば、関東に入国すると、家康は、新田氏の後裔と思われる人を召し出して系図を入手しようと試みているが、世良田氏や得川氏の後裔の人はどこにもおらず、系図などは入手はできなかった。

そこで、煎本論文によると、家康は吉田兼見の弟の神竜院梵舜に系図の作成を依頼したが、慶長10年(1605年)に梵舜が進覧した系図が、今日に伝わる徳川氏系図である。

その系図は、「尊卑分脈」の新田氏系図の世良田氏の最後の満義以降に、「政義―親季―有親―親氏」と書いて、松平氏初代とされる親氏に繋ぐものであったが、ここで書き込まれた世良田政義は、長享2年(1488年)の奥付のある「浪合記」では、元中2年(1385年)頃に南信濃で行われた浪合合戦で、後醍醐天皇の孫の尹良親王と共に敗死したとされて、一般に流布している新田氏系図は政義で途絶えている。

世良田氏の惣領家は、新田義興が足利尊氏に敗北した正平7年(1352年)の武蔵野合戦のあと新田荘の在所から逃亡しているので、政義はそのときに逃亡した一人であったと考えられるが、その系譜は伝わってはいない。

梵舜が「浪合記」やその原史料などを見ていれば、そして、松平氏の初代が親氏だと知っていれば、彼は「尊卑分脈」の系図に「政義―親季―有親―親氏」と書き加えることが可能であった。

なお、梵舜の作成した系図は、永禄9年(1566年)に作成し天正16年(1588年)に使用した系図を加工したものであったと考えられる。

だから、政義と親氏が実在するとすれば、完全な創作は「親季―有親」の2代であったと考えられるが、系譜としては、「政義―親季―有親―親氏」の系譜は創作であったと考えられる。

松平氏が、新田氏後裔の世良田氏の流れを汲んでいるという主張は根拠がないものであると考えられる。

なお、松平氏初代とされる親氏や第2代とされる泰親が、そう名乗ったという文書などは存在しておらず、彼らの法名しか伝わっていないが、「松平由緒書」では、親氏を信武と呼んでいて、親氏の義父の名が信重で、親氏の子の名が信光であるので、親氏や奏親という名も、永禄9年(1566年)から慶長10年(1605年)までの間に創作された可能性がある。

菊地論文によれば、「親季ー有親ー親氏ー奏親という名前は、それぞれ得川家の義季ー頼有ー頼泰、または世良田家の頼氏ー教氏に由来する」という。

そう考えると、「親季ー有親ー親氏ー奏親」という名の変化は、通字が混乱していて一貫性がなく、上位者の偏諱を受けたことによる変化と考えても、系統的ではない。

ここから、新たに創作された松平氏の先祖の系図の名は、得川氏や世良田氏の系図から合成された名であったと考えられる。


https://ameblo.jp/ufjtmb26/entry-12227374039.html 【徳川家の出自と松平一族について(18)】より

今日は、玉置浩二の「Special」を聞いている。

長野善光寺と立ち葵紋について考えるためには、その前に秦氏と鴨氏について考えなければならない。

大和岩雄の「秦氏の研究(大和書房)」(以下「大和論文①」という)、「続秦氏の研究(大和書房)(以下「大和論文②という」によれば、秦氏についてはおおむね以下のように考えられる。

なお、大和岩雄の詩論文はそれぞれ内容の深い大著であるので、細かな論理展開は捨象して結論だけを羅列する。

詳細を知りたい方は、大和岩雄の詩論文を参照されたい。

また、以下の論述には、大和論文の主張とは異なる見解も述べられていることを断っておく。

4世紀末から5世紀初頭以降、高句鴛の南下と頻発する飢饉のために、朝鮮半島南部の金海付近から大量の渡来人たちが、何度も何度も日本列島に移住して来た。

渡来人たちは養蚕を行う人々で、その中には須恵器生産や鍛冶などの手工業技術者や、築堤や用水路の掘削などの土木技術者、馬飼などの馬匹生産技術者という当時の先進技術の技術者がいた。

渡来人たちは、渡来先の各地に定住し、そこの地方豪族に支配されたが、大和朝廷は、渡来人の中にいた技術者たちを拠点地域であった河内平野に定住させ、大規模古墳の築造やそれに関連した水利開発のための築堤や大溝の掘削などの土木工事、そしてそのための工具などを作るための鍛に従事させた。

また、渡来人たちの中の須恵器製作の職人たちは、陶邑で須恵器製作に従事した。

渡来人たちのうちの各種技術者たちの日本列島への渡来と定住は、朝鮮半島南部の伽耶諸国に定住していた倭人の王で、伽耶諸国から日本に移住した葛城氏が、伽耶諸国との間で持っていた太いパイプを生かして大和朝廷との窓口となり、その仲介で行われた。

大和朝廷の事業として陶邑を立ち上げたのは葛城氏であり、河内平野での古市大溝などの掘削、茨田堤などの築堤、津堂城山古墳や誉田御廟山古墳、大山古墳などの巨大な前方後円墳の築造、陶邑などでの須恵器の生産、大県遺跡などでの鍛冶、河内湖沿岸などでの馬匹生産などに、渡来人を配置して使役したのは、葛城氏とその配下の氏族であった。

また、葛城氏は自らの本拠地に私有民として渡来人を居住させ、南郷遺跡などでの私的な手工業生産に従事させていた。

朝鮮半島南部から渡来した人たちは、海から来たという意味で、朝鮮語の「海」という意味の「パタ」と、たくさんの人たちが来たという意味で、朝鮮語の「多い」「大きい」という意味の「ハタ」と、両方の意味で「ハタの民」と呼ばれた。

「ハタの民」は「波多の民」とも表記されたが、「波多」の「波」は「海」の「パタ」で、「多」は「多い」「大きい」の「ハタ」である。 「ハタの民」の渡来元の朝鮮半島南部の伽耶諸国は「魂志韓伝」の弁辰であるが、「魏志」韓伝では、辰韓は中国の秦から逃亡してきた人たちが作った国であり、弁辰では辰韓人と韓人は雑居していたという。

「ハタの民」のうちの辰韓人には、その祖先が秦人であったという伝承を持っていた人たちがいて、彼らは「ハタの民」の「ハタ」に「秦」の字を当てて「秦の民」といった。

その後、欽明天皇の時代に、秦造氏が全国に散在していた「ハタの民」を組織化して彼らの伴造氏族となったことで、ほとんどすべての「ハタの民」が「秦の民」と変わり、「秦氏」と呼ばれるようになった。

なお、朝鮮半島南部からの渡来人は、6世紀半ばごろまで波状的に渡来していたが、彼らのなかには秦氏に組織されていった人たちもいた。 だから、秦氏の系譜は、当初は河内国の秦氏と葛城地域の秦氏から始まる。

5世紀後半に雄略天皇によって、外交権の大王への一元化と大王による渡来人の掌握のために葛城氏が滅ぼされると、葛城氏の管轄下にあった河内国の「秦の民」は、その首長層が大和朝廷の豪族に転化した志紀県主や同様の多氏の管轄に置かれ、茨田堤などの築造と周辺の土地開発に係わっていた「秦の民」は、その首長層が茨田連となって多氏の同族とされ、大県遺跡に係わっていた「秦の民」は、穂積氏の支配を受けるようになった。

「ハタの民」の「ハタ」の「多」「大」を氏の名にしたのが、多氏であった。

葛城氏が立ち上げた陶邑は、まず紀ノ川河口部にいた渡来系氏族の紀氏の係わりが増し、次に「ハタの民」から成長していった三輪氏の影響力が大きくなつていったが、陶邑には多くの氏族が係わるようになり、「ハタの民」も様々な氏族の同族として組織されていき、様々な名の氏族となっていった。

葛城地域にいた「秦の民」は、大和朝廷によって各地に移住させられ、そこでの水利開発や土地開発を行うとともに、養蚕や鍛冶に従事した。

彼らの移動経路は、5世紀後半に大和国の葛城上郡擁上を出て山城国相楽都岡田に移動し、6世紀初頭から半ば以降にかけて山城国紀伊郡深草で深革屯倉を開発し、6世紀後半から7世紀にかけて山城国北部の分割前の葛野地域で大堰川に大堰を設置して水利開発や土地開発を行った、ということになる。

岡田や深革は交通の要衝であり、これらの地への秦氏の移住は、大和朝廷の意思によるものであった。

なお、「葛城」の「カツラギ」は、朝鮮語の「初」「力」「周」「ツル」「城」「ギ」で、「新しい国」という意味であり、渡来人たちが名づけた名であるが、葛野の「葛」は、葛城の「葛」でもある。

「秦の民」が山城国紀伊郡深草にいたころ、欽明天皇は、彼らの首長層に全国の「ハタの民」「秦の民」を組織させ、彼らを「秦の民」の伴造の「秦造」「秦氏」として、各種の責納を行わせるようになった。

その過程で、秦氏が移住したり、以前からいた「ハタの民」が秦氏に組織されたりして、例えば、近江国の愛知秦氏などが形成された。

7世紀に山城国葛野郡に拠点を構築した秦氏は、秦氏全体の族長の「ウズマサ(貴勝)」となり、新羅系氏族として百済系の漢氏と蘇我氏に対応するために上官王家に接近した。

例えば、聖徳太子の子の山背大兄皇子の名の「山背」は、秦氏の本拠地の山背国で生まれたか養育されたことから名付けられ、蘇我入鹿に滅ぼされた山背大兄皇子の家臣が深草屯倉に逃げることを進言しているのは、そこが秦氏の拠点であったからである。

8世紀には秦氏の族長は、葛野の秦氏から長岡京や平安京などの造営に対して財政的に貢献した河内国の秦氏に移動し、河内国の秦氏が「ウズマサ」となって平安京に移住して全国の秦氏を統括した。

「波多の民」と前後して渡来した「波多の君」は弓月君とされるが、朝鮮半島南部の伽耶諸国のある国の王族または貴族の出自であり、葛城氏の滅亡以降は、大和朝廷を構成する中央豪族の-つである波多氏となった。

波多氏の本拠地は葛城郡液上に近接した波多郷(高取町市尾)で、秦氏と波多氏の居住地は近接しており、波多氏の一族の林氏は秦氏と一緒に移住している。

波多氏の同族の星川氏は、三輪山付近の弓月嶽の奥地の都祁にいて、三輪山付近の鍛冶で使用する木材を切り出していたが、都祁国造は多氏の同族とされており、波多氏は多氏とも関係があった。

鴨氏は葛城氏の拠点であった葛城地域の中の鴨にいたが、林氏と同様に、秦氏と同じようなルートで、葛城一山城国相楽都岡田一山城国紀伊郡深革に移住し、秦氏が深革から桂川を遡上して山城国葛野郡に拠点を形成したのに対して、鴨氏は深辛から鴨川を遡上して山城国乙訓郡を経て山城国愛宕郡に拠点を形成し、賀茂別雷神社(上社)を奉斎した。

鴨氏の居住地が秦氏と近接し、鴨氏が秦氏と一緒に移動していったのは、鴨氏と秦氏の関係が非常に密接だったからである。

秦氏が従事していた土木工事には鉄製の土木工臭が必要であり、大県遺跡や南郷遺跡、忍海遺跡などでの鍛冶でそうした土木工具を製作するためには、燃料として大量の木材が必要となる。

鴨氏のことを「鴨山守」というように、山林からその燃料のための木材を切り出してくるのが鴨氏の職掌であった。

賀茂神社を奉斎して以降の鴨氏を賀茂氏と表記する。

賀茂氏と秦氏の関係が密接だったため、「秦氏本系帳」によれば賀茂氏と秦氏は婚姻関係にある、という。

また、松尾神社や伏見稲荷神社は秦氏が奉斎した神社であったが、「鴨県主家伝」では、賀茂社の禰宜の弟の松尾神社の示司官と稲荷神社の示司官は、本姓は葛野県主だが秦姓を賜ったとされ、「秦氏本系帳」では、「鴨氏人を秦氏の婿と為し、秦氏、愛智に鴨祭を譲り与う。故に今、鴨氏、禰宜と為て祭り奉るは、この縁なり」とされていて、松尾神社や稲荷神社の示司官は賀茂氏系とされている。

賀茂神社には賀茂別雷神社(上社)と賀茂御祖神社(下社)があるが、下社は和銅年間に撰上されたとされる丁山城国風土記」には記されていないので、奈良時代中期の天平年間に創建されたと考えられる。

下社の本来の祭神は日吉大社に係わる大山咋神であり、下社は、秦氏が奉斎した木島坐天照御魂神社や養蚕神社、松尾大社を結ぶ、四明岳に昇る夏至の朝日の遥拝線上にある、「乱の森」にある河合神社をもとになってできた神社であり、秦氏が創建に係わっていた。

賀茂氏が進出したころの山城国北部の愛宕郡付近は森林地帯であり、その山林を管理していたのは、貴船神社を奉斎していた先住の「山守」で山代国造の山代直であったので、鴨氏は、先住の「山守」と区別して「鴨山守」と呼ばれた。

8世紀半ば以前の賀茂神社の「葵祭」では、「馬に鈴をかけ、猪の頭をかぶって駆け」たり「騎射」する」というような山人の狩猟儀礼に係わる祭りが行われていて、それらが禁止されて以降は、上社で競馬の行事が行われたが、これらには、先住の山人である山代直の狩猟儀礼などが反映している。

賀茂祭を「葵祭」というのは、祭祀に係わる人たちが頭髪の飾りの葵楓として挿頭に葵を用い、軒にも葵を掛けるからであるが、松尾大社も挿頭に葵を用いている。

この賀茂神社の葵祭の薬種は、神楽歌の「葛」の歌では「山人と人も知るべく山髪せよ」と歌われている、「山人の山髪」と同じ意味である。

おおむね以上のような大和論文①、大和論文②の指摘から、賀茂神社の神紋のもととなった「葵」は山人の挿頭の葵の髪飾りから生まれたものである、と考えられ、山林から木材を切り出していた賀茂氏の山人的性格わらわすものであったと考えられる。

そして、この葵の髪飾りは、秦氏が奉斎していた松尾神社でも行われていたように、秦氏と賀茂氏の密接な関係によって、葵の神紋は秦氏にも受容されていったと考えられる。

長野善光寺と秦氏との関係は、後述する。