葵の紋
https://www.imagineflag.jp/busho/ieyasu/kamon/index.html 【徳川家康の「家紋」】 より
家康の家紋は「三つ葉葵」、水戸黄門でおなじみの紋だ。
葵という植物の葉っぱをモチーフにした紋。
賀茂祭で用いられた葵は、神聖な植物として扱われてきた。
家康がこの紋を徳川家の家紋にしたのもうなずける。
もとは上賀茂神社の神紋であった葵を家紋にしたのは、家康が新田源氏の流れを汲む加茂神社の氏子として武家源流の威厳を証したかったからだといわれている。
家康が使用するようになってから、葵の紋は厳格な紋として厳重に使用が制限されるようになった。
徳川にまつわる「紋」
水戸黄門に登場するあの有名な紋は、言わずと知れた徳川家康の象徴「三つ葉葵」。
三つ葉葵が徳川家の紋として使用されるまで、その原型ともなった紋から徳川家の出身や歴史を紐解く。
[二葉葵―ふたばあおい]
植物の「フタバアオイ」をモチーフにした紋で、徳川家が使用した「三つ葉葵」の原型。
「フタバアオイ」の葉は二つで、二葉葵はこれをモチーフにしている。
二葉葵は賀茂氏の象徴で、葵紋は上賀茂神社の神紋として使用されていた。
賀茂明神信仰にゆかりの深い植物を図案化して作られた家紋が「二葉葵」だ。
ちなみに植物の「フタバアオイ」の別名を「カモアオイ」とも言い、賀茂祭には必ずこのフタバアオイを用いたことからこの祭の別名を「二葉祭」とも言う。
[一つ引両―ひとつひきりょう]
徳川の先祖と言われている新田家の家紋。
竹谷松平家が使用していたことから現在の愛知県蒲郡市の市章にも採用されている。
「竹谷松平家」だけが使用していたと言われている。以前から葵の御紋を使ってきた家臣に
「殿は新田源氏なのだから、大中黒を使った方がいいのではないか」と言われ、葵紋の使用を許可したとの話が残されている。
この話から、大中黒の紋を使うのをためらったとされていて、この紋はなかば封印状態であったという説もあるが、松平氏に婿入りしたためにあえて新田の家紋を使わなかったのであろうとも言われている。
[大中黒―おおなかぐろ]
一つ引両の変形。
一つ引両の紋を持つ新田氏が、二つ引両の足利に敗れた際に「一匹の竜である新田は二匹の竜の足利に挟み撃ちにされて敗れた」という俗説を嫌って、中央の線を太くして出来たのが「大中黒」の紋であるとされている。
[三つ葉葵―みつばあおい]
二葉葵の変形紋。「丸に三つ葵」とも言う。俗に言う「徳川葵」。
徳川御三家では同じ「丸に三つ葵」を使用しているが、葉脈や芯の数など、細部に微妙な違いが見られる。
植物のフタバアオイには三つ葉のものは非常にまれで、三つ葉葵は架空のもの。
上賀茂神社の神紋であった葵を正式な家紋としたことから、上賀茂神社の出身であったと言われる。
家康は威厳を知らしめるために、三つ葉葵に限らず「葵」を使用した紋の他家での使用を厳しく禁じた。
https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/12_02.htm 【葵のご紋とは】より
「葵」とは、徳川家の家紋である。本来京都の賀茂神社の御神紋である葵の紋は、賀茂神社の祭典(葵祭)とともに有名である。賀茂神社の御神紋を、いつどのような経緯で家康が使用したのかは不明であるが、古くから伝わる賀茂神社を、松平家(徳川家の先祖)が崇敬した。背景としては、松平家が賀茂神社の有力な氏子であったことから、葵の紋を使用したと伝えられている。
一口に葵の紋といって、様々な意匠がある。特に徳川家康公の代になってからは、「三つ葉左葵巴の紋」のデザインが定着し、徳川三代の家紋として利用し始めた。いずれにせよ徳川家の葵の紋は、賀茂明神の信仰に基づくもので、それを変形したものである。
家康公が江戸に幕府を創設して以後から、葵の紋は江戸時代を通じて朝廷(天皇)の紋章(菊、桐)をしのぎ、絶大なる権威の象徴として怖れられた。このため無断使用どころか、粗末に扱うことすら戒められ、数々の禁令(法律)が発せられている。理由なく葵の紋を使用した者が、厳罰に処せられた事例もある。
一般的に葵の紋は三つ葉葵の紋のことで、「葵巴」という。徳川家が葵巴を用いた理由については、慶長16年(1611)にまとめられた「徳川世紀」に詳しい。さて家康公が使用した葵の紋は、二代将軍秀忠と三代将軍家光も、全く同じデザインを使用した。この葵の紋の葉脈(蕊)は、33あるものが正統であると幕府の書き上げた「御紋控書」に記されている。
「家康・秀忠・家光」と、初代家康公から三人の将軍のシンボルとなり、徳川家三代の結束と絆の強さを表していた。ところが家光以後の将軍たちの使用した葵の紋は、それぞれの将軍によってデザインを少しずつ変化させている。これは家康公からの三代将軍を崇める気持ちから、自らは別のデザインにしたものと考えられる。
葵の紋を勝手に使用し、厳罰に処せられたケースとしては、享保年間(1716-36)、浪人山名左内が葵の紋を自分の衣服に縫い付けて着用した。このことが役人に見つかり死罪になっている。また江戸城大奥の女中らが、自分が信仰している寺に、葵の紋の付いた器具(仏具)を寄進したことから、幕府は明和五年(1768)八月、再度法令を発布し葵の紋を使用することを厳しく禁止した。しかし御三家の菩提寺(先祖を祀る寺院)は例外であった。
このように一切葵の紋を用いるのを禁止したことは、葵の紋が徳川家一門によって支配された江戸時代を象徴的に表していた。ところが寺社奉行から特別の許可や指揮があった場合は例外で、許可を得た関係者は寺社に奉納する品物(仏具・什物)に葵の紋を施し、それらが今日まで残されているケースもある。
また寺社などは、「御朱印(ごしゅいん)」と言って徳川将軍家から領地を保証された証拠となるお墨付き(朱印状)を何よりも大切に保管していた。これら朱印状を保管する漆塗の立派な箱には葵の紋が描かれ、寺の住職や神社の神官たちが命に替えても大切に管理していた。寺社に与えられた朱印状は、将軍の代替わりに江戸城に登城して書き換えの手続きをすることで、再び領地が貰えたのである。万一、この朱印状を紛失した場合には、領地を継続して貰うことができず、寺社そのものが存続できなくなる。