徳川家の出自と松平一族について(13)
https://ameblo.jp/ufjtmb26/entry-12225389164.html 【徳川家の出自と松平一族について(13)】より
「14松平」といわれる松平一族についての検討の続きであるが、その前段として、信忠から清康への継承経過を検討する。
平野明夫の「三河 松平一族(新人物往来社)」(以下「平野論文」という)によれば、清康の家督継承と以降の経過は以下のとおりである。
清康は信忠の長男で、1526年頃に作成されたとされる松平一門・家臣奉加帳写や大永3年(1523年)付の中根弥五郎あての文書には、次郎三郎清孝と署名しているので、はじめは清孝と名乗っていたが、享禄4年(1531年)付の大林寺禁制では清康を名乗っている。
なお、享禄4年の大林寺禁制以降は、世良田次郎三郎清康を称している。
こうした平野論文の指摘からは、清康は世良田を名乗ったときにそれまでの清孝を清康に変えたと考えられる。
清康は、大永3年(1523年)に父の信忠から家督を継承したが、それは、安城松平家の家臣団の要求を受けて長忠が判断したものであり、信忠は大浜に隠居した。
清康は、自立・離反する西郷氏と戦うが、西郷氏の東の拠点であった山中城を、大永4年(1524年9に奪取して居城とし、その後、西郷信貞の娘婿となって西郷家の所領と岡崎城を譲られ、享禄3年(1530年)に、それまでの明大寺から龍頭山に岡崎城を移転した。
その間に清康は、大永5年(1525年)には加茂郡の足助鈴木氏の足助城を攻撃し足助鈴木氏を降伏させ、享禄2年(1529年)には幡豆郡の西條吉良氏の勢力圏の小島城を攻撃し奪取した。
そして、享禄3年(1530年)には三河国と遠江国の国境付近の八名郡の熊谷氏の宇利城を攻撃し奪取し、その後、渥美郡の牧野氏の吉田城を攻撃し奪取し、渥美郡の戸田氏の田原城攻め寄せる戸田氏を降伏させ、永正三河の乱以降東三河に大きな影響を及ぼしていた今川氏の勢力を駆逐した。
享禄3年(1530年)には、清康は、岡崎の明大寺に龍海院を創建した。
享禄4年(1531年)には、加茂郡の三宅氏の伊保城を攻撃し三宅氏を敗走させ、天文2年(1533年)には、岩津に攻め寄せてきた加茂郡の広瀬城の三宅氏、同寺部城の寺部鈴木氏を迎え撃って大勝し、天文3年(1534年)には猿投神社を焼き討ちした。
これらの戦いは、京の中央政局と関連しており、将軍義澄の子の義晴と義維が争う中で、清康は足利義晴派として、足利義維派の尾張守護代の織田達勝やその影響力が強かった西三河北部の国人領主と戦ったと考えられる。
信忠の弟の信定は、大永6年(1526年)に、尾張守護代の織田達勝の被官となり、尾張国の守山に所領を給付され
そして、清康は、敵対する信定の所領であった尾張国の守山を攻撃氏に出陣し、守山で在陣中の天文5年(1535年)に家臣に殺害された。
菊地浩之の「徳川家臣団の謎(角川選書576)」(以下「菊地論文」という)よれば、この間の経過は以下のとおりである。
通説によれば、家督継承時や山中城奪取時の清康は13歳の少年であることになるが、これは非現実的である。
そこで、事実は以下の通りであったと考えられる。
山中城を奪取したときには清康は安城松平家の村々であったと考えられ津主ではなく、清康は、安城松平家の先兵として山中城を攻め落として駐留し、西郷家を調落するうちに、西郷家当主の婿となって西郷家を譲られ、西郷家をバックにして安城松平家と対立し、信忠から安城松平家の当主の座を奪い取った。
松平家の譜代に家臣の中で、清康が山中城にいたころから仕え始めたという人たちを「山中家譜代」というが、どの家が山中譜代なのかははっきりしてはいない。
新行紀一の「一向一揆の基礎構造(吉川弘文館)」(以下「新行論文」という)によれば、当時の西郷家の所領の大まかな範囲は、岡崎城を中心に東は山中郷・中山郷より、西は矢作川まで、北は大樹寺付近から、南は高力・坂崎あたりに至る額田郡の南部、および三木・合歓木を含む碧海郡の地であった、という。
ただし、こうした勢力範囲は一円支配をしていた範囲ではなく、その範囲の中にはモザイク状に他氏の雑多な所領が存在していたと考えられる。
このうち、山中譜代の人たちが居住していたと推定されるのは、矢作川から山中城までの15キロメートル弱の村々、および山中城の周囲一里四方にある村々であった、と推定できる。
これらの村々のうち、高落村、羽角村、野場村、芦谷村を所領としていたのは内藤家、坂崎村を所領としていたのは平岩家、天野家、高力村を所領としていたのは高力家、羽栗村を所領としていたのは榊原家であり、これらが山中譜代と推定される。
これらの諸家は、その伝承では、清康の代に松平家に仕えるようになったとされており、西郷家の所領の北端もしくは東端に一族がいる。
ここから、西郷家は、所領の東端と北端にある有力家臣の一族を、所領の南端に配置することで、周囲を防衛していたと考えられる。
そこで、所領の南端の山中城の付近にいた西郷家の家臣が寝返って清康の家臣となれば、彼らを使って所領の北端と東端にいる有力家臣を調落することが可能となり、清康の軍事的な才能は、瞬く間に西郷家の家中に知れ渡っていったと考えられる。
西郷家の家臣たちは、そこで、信貞や信貞の子の七郎と清康の器量、つまり軍事的才能を天秤にかけて、彼らの当主として清康を選択し、信貞と七郎を大草に追放し、彼らの新しい当主として清康を迎え入れたのである。
しかしこの事態について、安城松平家側と西郷家側で認識の食い違いが表面化した。
安城松平家側は、安城松平家の人間が西郷家の家督を継承したということは、西郷家は安城松平家に負けたのであり、勝った安城松平家が西郷家の所領と遺臣を併合するのは当然のことでると考えた。
しかし、西郷家の側は、家臣一同が清康を推戴したのであり、安城松平家に負けたわけではなく、清康が西郷家当主となったのは、あくまで西郷家の内部の事情からであると考えた。
そして、清康は、西郷家の家臣たちの立場に立って、西郷家の安城松平家への併合を拒否し、信忠と対峙した。
信忠は、こうした事態を招いたことを安城松平家の家中から追及され、安城松平家内部に動揺が広がっていったので、信忠が隠居し、安城松平家と西郷家が清康を当主として対等合併するということになった。
これが、菊地論文がいう、信忠から清康への家督継承の経過である。
長忠は信忠に家督を譲って以降も松平家の最高権力者であったと考えられるので、こうした、信忠に隠居を認めさせ、清康を当主として西郷家と安城松平家を統合するという政治判断・政治決断を行えたのは、長忠だけであったと考えられる。
そして、長忠は、その後、清康を支え続けた。
こうした菊地論文の指摘が正しいとすると、公式記録に書かれた信忠が清康に家督を譲る経過は、真実を隠蔽するものであったと考えられる。
菊地論文は、清康の継承経過を、歴史のある企業が合併した場合と同じであるというが、そう考えると分かりやすいことがある。
合併企業では、今までの社名を全く新しい社名に変えることがあるが、清康がそれまでの清孝から名を変え、それまでの松平姓から源氏の世良田姓に家名を変えたのは、そうした社名変更と同じことであり、居城の岡崎城を明大寺から龍頭山に移転したり、新たしい菩提寺と思われる龍海院を創建したりしたのは、合併した企業が新たしい本社ビルを建設するのと同じである、という。
そして、旧安城松平家の家臣たちと旧西郷家の家臣たちは、合併以降、派閥を形成して勢力争いを行うようになる。
菊地論文によれば、こうした家臣団の勢力のバランスに配慮して、以降の松平家の運営は行われていくが、当主の代替わりに誰を後継者とするかを巡って、家臣団は激しく争うことになる。
清康が守山崩れで家臣に殺害されると、信定は清康の子の広忠を追放して松平家の当主となろうとするが、旧安城松平家の人間であった信定が当主となると、旧西郷家の家臣たちは、自分たちが冷遇されかねないと考え、信定を排斥して広忠を擁立した。
広忠と信孝が争ったときも、旧安城松平家の人間であった信孝は、旧西郷家の家臣たちの支持を得られずに、敗北した。
これは、松平氏の家臣の中で、最大の勢力が旧西郷家の家臣であった岡崎譜代であったからであり、その後広忠が殺害されて三河国が今川家の属領となったときにも、岡崎譜代の所領は岡崎領として、駿府に人質となっていた家康が名目の当主とされて、まとめて統括されている。
なお、岡崎譜代の家臣たちは、岡崎領とされて今川氏の重臣が岡崎城代となって統括しており、大給松平家は大給領とされて、今川氏の直臣となっていた。
菊地論文は、これらの経過を、歴史のある企業同士が合併した合併企業によくある人事抗争と同じであったといい、抗争した家臣たちを突き動かしていたのは、当主への忠誠心ではなく、自分たちの処遇の維持・向上を狙う派閥の論理であったという。
そして、家康は、所領を拡大していく過程で、三備えなどの軍制改革を行いながら、こうした家臣団を統合していった、という。
だから、異質な家臣団の統合には、企業合併のときと同じように時間がかかるのであり、清康には、その時間が決定的に不足していた。
そして、源氏の世良田氏の話は、それっきり進展せずに、広忠の近臣から家康に、偉大な祖父の清康の武勇伝とともに語り伝えられていったのだと考えられる。
信忠から清康への家督の継承経過が、菊地論文のようであったとすると、大永6年(1526年)に信定が織田氏の被官となったのは、清康による西郷家の継承に対抗するためのものであったと考えられるので、大永4年(1524年)前後に西郷家の家督を継承していた清康は、安城松平家との交渉により、安城松平家と西郷家の合併で合意したので、大永7年(1527年)に岡崎城に入城したと考えられ、それまでに信忠は隠居していたと考えられる。
1526年頃に作成されたとされている「松平一門・家臣奉加帳写」は桑子の妙源寺に関するもので、主役が長忠と信忠であり、清康は脇役であって、安城松平家が行ったものでると考えられ、旧西郷家の家臣は参加していないと考えられる。
なお、「松平一門・家臣奉加帳写」の記載順の構造については、後述する。
そして、このことから、当時の松平家の運営は、清康をトップとして、その下に、隠居していた長忠の影響力がある旧安城家の家臣団と旧西郷家の家臣団が、それぞれ別個の集団を形成して、別個の指揮系列で従っていたと考えられる。
なお、岩津譜代の諸家は今川氏による岩津城陥落でほとんどが滅亡し、安城譜代の諸家は織田氏による安城城の陥落でほとんどが滅亡し、残ったのは旧西郷家の家臣団で会った岡崎譜代の諸家であった。
しかし、岡崎譜代の諸家は、清康の代から松平氏の家臣となったので、それ以前は西郷家の家臣であり、松平氏と戦ってきた経歴がある諸家も少なくなかったので、家康の系統の松平氏にその先祖の由緒を繋げるために、架空の物語を創作し、安城譜代や岩津譜代を偽装した。
菊地論文によれば、こうして三譜代の区分が作られたと考えられる。
なお、菊地論文は、松平家の重臣の「五人衆」は「三譜代のバランスを取った人選になっている、というが、そこにあげられている人たちは、ほとんどが岡崎譜代、つまり旧西郷家家臣の出身であり、そこから見えるのは、岡崎譜代の分厚い既得権である。