近世の源氏文化と詩歌
http://www.basho.jp/ronbun/gijiroku_6th/6th_2.html 【島内景二先生 近世の源氏文化と詩歌(その1) 伊 藤 無 迅】 より
はじめに
昨日東京新聞の夕刊に「新奥の細道」という題で、私の一連の短歌作品が掲載されました。東日本大震災の時、津波が遡る画面を見て瞬間的に『奥の細道』「深川出庵」段の「江上の破屋」を思い出しました。その後、原発事故などの報道に接して、ふたたび『奥の細道』の「平泉」の段、「国敗れて山河あり」(もともとは杜甫の詩)の一節を思い出し「国が敗れる」とは、こういうものなのかという思いに駆られました。このような事態に直面した私は『奥の細道』に触発され、三十年ちかく短歌を作って来た者として現代俳句でこれを表わせば、どうなるかと思い、その思いを作品にしました。
さていま「江上の破屋」という言葉を使いましたが、この言葉がすぐ口を告いで出たのは、芭蕉の『奥の細道』に出てくる由緒正しい詩の言葉だからです。詩の言葉は散文の言葉とは違い特別の衝撃力(エネルギー)をもっています。そういうエネルギーをもった詩の言葉が、どこから始まったかといいますと、藤原俊成(定家の父)からです。俊成の「源氏を見ざる歌詠みは遺恨のことなり」、つまり『源氏物語』を読んだこともない歌人は取るに足らないつまらない歌人だという宣言から始まったわけです。
よく源氏物語を研究している人に、紫式部という人は何を考えて『源氏物語』を書いたのですかと聞かれるのですが、それは分りません紫式部に聞いてください、というしかないわけです。私が研究している事は紫式部がどういう考えで『源氏物語』を書いたかではなく、『源氏物語』があったが故に、日本の文化がどう興隆し、あるいは下降したかということで、『源氏物語』で日本文化がどう変わったかを知りたいということです。そうしますと『源氏物語』の文化というのは、俊成・定家から始まるわけです。そしていまだに続いています。この源氏文化の源流に位置するのは俊成の言葉で、それ以降の歌人は『源氏物語』を読みその言葉を用いて和歌を詠み続けることになりました。
というわけで、文学を志す中世・近世の人は『源氏物語』を読んでいなくてはならない、読んでいなくても粗筋は知っておかないといけない。作中人物はダイジェストで知っておかなければならない。『伊勢物語』は短いですから直ぐ読めます。『源氏物語』の言葉は「源氏詞」、『伊勢物語』の言葉は「伊勢詞」、この「源氏詞」、「伊勢詞」を用いて中世の日本文学は詠まれ続けてきました。
そういう伝統の中で松尾芭蕉も文学に目覚め文学活動を行ってゆくわけです。さきの芭蕉の言葉「江上の破屋」とか「国敗れて山河あり」や『奥の細道』に出てくる感動的な言葉は、言わば「芭蕉詞」と呼ばれるわけです。この芭蕉の言葉に力を与えたのは「源氏文化」です。そしてその源流は、藤原俊成から始まっています。そういうものが、今なお現代にも流れているのでしょうか。
そういう問題意識で、芭蕉を「源氏文化」の中に位置づけてみたらどうなるか、ということを、これからお話したいと思います。
今日の話は大きく二つに分かれ、最初に「源氏文化の影響力の実態」と題を付けましたが、源氏文化そのものを、後半は源氏文化が芭蕉と、どのように繋がるかということを、具体的にお話をさせて戴きます。
1 源氏文化の影響力の実態
① 「源氏文化」の定義(島内景二の場合)
まず源氏文化の定義をしておきます。「源氏文化」と『源氏物語』は違うものです。いやしくも私は『源氏物語』の研究者ですから、生涯の最後の目標は『源氏物語』の注釈本を出したいと思っています。注釈が出来なければ現代語訳を出したいと思っています。しかしこの作業は『源氏物語』そのものの研究です。それとは別に『源氏物語』という作品が、重要な意味をもっていて、日本の文化を裏で動かし続けて来たという事実があります。それを私はどうしても知りたいわけです。「源氏文化」は、中世の俊成・定家によってどういうふうに位置づけられたのかと言うことを申しますと、『古今和歌集』(905年ごろ成立)、『伊勢物語』(913年ごろ)、『源氏物語』(1011年ごろ)の三つの作品が三位一体となり一つに融合します。つまり『古今和歌集』の言葉が、『伊勢物語』『源氏物語』に使われるわけで、この三つは一括りとなります。そしてこの三つに流れ込んだ漢詩文(『白氏文集』とか)、法華経などの仏教語、あるいは『史記』とか日本の歴史書などが『源氏物語』に流れ込み、その文化が、さらに『源氏物語』から流れ出してゆくわけです。ということは『源氏物語』以前、『源氏物語』以後のほとんどすべての作品が「源氏文化」の中に位置づけられることになります。そうでないものがあるのだろうか、ということですが、例えば『今昔物語』という説話集がありますが、『源氏物語』との関係は非常に希薄です。希薄ですが無関係ということではなく、「無関係」の関係があると私は思っています。「無関係」であろうとしたということが大切で、『源氏物語』との濃淡があるわけです。『源氏物語』とべったりの関係すなわち、『源氏物語』の文体で『源氏物語』の詞を使い『源氏物語』と同じようなキャラクターを使って物語を展開させるというパクリのようなものから、一見関係ないようであるが『源氏物語』に対抗し、「源氏文化」に反抗しているという点では「源氏文化」の中に位置づけられます。それらの作品ごとの濃淡を測定するというのが、今私がやっていることです。
近代文学が始まって「言文一致運動」が起こります。この運動によって所謂文語が死滅してしまいます。このときに「源氏詞」、「伊勢詞」が滅びるわけです。散文の世界で「源氏詞」、「伊勢詞」がほとんど使われなくなります。つまり源氏文化とまったく無縁の芸術作品が現れるのは大正時代以降になります。ただし和歌の世界、俳句の世界つまり韻文の世界では「源氏文化」が生き続けて今に至っています。
その中で芭蕉がどう関わったかをお話します。
② 芭蕉『笈の小文』冒頭の芸術家たち
芭蕉の言葉で、私がとくにすきなものが『笈の小文』にあります。冒頭近くに芭蕉が憧れた人物が列挙されています。
「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、
利休が茶における、その貫道するものは一なり。」
ここに出てきている人物は、芭蕉と同じで、全て貴族ではありませんが、一流の傑作を作り上げた人物です。この中で雪舟だけは私は分からないのですが、あとの人物はすべて源氏文化に関わった人達です。天皇とか貴族だけではなく、こういう人たちも源氏文化の担い手であったわけです。そういう人達に芭蕉は憧れたわけです。西行は武士の出身ですが、有名な、
仏には桜の花を奉れわが後の世を人とぶらはば 西行
という歌は、『源氏物語』御法巻(みのりのまき)にある、紫の上の遺言の言葉の本歌取りであろうというのが定説です。そもそも西行が和歌を詠むということが源氏文化に繋がっているということになるわけです。
宗祇は、源氏文化の中核に位置しています。出自不明の賤しい身分であったと思われる宗祇が、源氏物語の第一人者となるきっかけに「古今伝授」があります。宗祇は東常縁(とうのつねより)から「古今伝授」を受けます。東常縁という人は武家ですが、定家の子孫であり、二条家の教えを受けております。この東常縁が、宗祇に「古今伝授」をしました。「古今伝授」というのは、単に古今集の言葉の解釈を受けたということだけではありません。『古今和歌集』に始まり『伊勢物語』、『源氏物語』を含む源氏文化の核心をも伝えます。宗祇はこの伝授のあと『源氏物語』の注釈書を残しています。特に「帚木巻」に関しては、大変重要な注釈を残しています。このことは後で説明します。宗祇を師とする連歌師は、各地を旅しますが、単に連歌の教授・指導だけではなく、同時に各地に源氏文化も伝えます。この連歌から俳諧は分かれたわけですから、芭蕉は連歌・俳諧の道に繋がっているわけです。つまり「古今伝授」の流れの中に繋がるわけです。
雪舟については、未だに源氏文化との関りは、これだという確信となるものは得ておりません。一般的に絵の世界では『源氏物語』を描く「源氏絵」、『伊勢物語』を描く「伊勢絵」、三十六歌仙を描く「歌仙絵」というものがあり、和歌と源氏文化とが強く結びついた美術界の伝統がありました。雪舟は禅僧でありました。禅の思想と『源氏物語』の「須磨・明石巻」は深く関連しています。禅僧の間で謡われた道歌(どうか)というものがありますが、これは源氏が須磨・明石でうら寂しく過ごした状況に大変よく似ています。この辺を突破口にして禅との関りをこれから研究してゆこうと思っています。
利休は茶道になりますが、茶道で使われる名器と呼ばれる茶碗などに付与される名前には、『古今和歌集』とか、『伊勢物語』や『源氏物語』に由来するものが多くあります。また茶室に掛けるものは源氏文化と関連していますし、「わび・さび」という思想も須磨・明石に関連しています。
以上、多いに、こじつけかも知れませんが、芭蕉が憧れた人物は源氏文化と関係があり、その中でも宗祇はその中核にいた人物でありました。
③ 芭蕉に流れ込んだ「連歌師・俳諧師」の源氏文化
次に宗祇から流れ出た源氏文化が、どのようにして芭蕉に辿り着いたかを説明します。連歌師、俳諧師の動きが、どのようにして芭蕉のDNAになっていったのでしょうか。その出発点は宗祇です。
『源氏物語』は五十四帖ありますが、特に大切な巻を選べと言われたら、皆さんどれを選びますか。宗祇が重視したのは「帚木巻」です。これが『源氏物語』の出発点であると考えました。「桐壺巻」というのは後から加筆したといわれ、これが現代の一般的な成立論になっています。それを抜きにしても宗祇は「帚木巻」を『源氏物語』の実質的な出発点と考えていました。それは帚木というものは、遠くからは見えるけれども、近くからは見えなくなる、それが真実といえば虚構、在ると思えば無い、というこの世の真実に繋がっていると見たわけです。そして次に大切な巻は、源氏が退場する「幻」だと宗祇は考えます。人生は幻であると考えるわけです。そして宗祇は三つ目の大事な巻として、最後の夢の「浮橋巻」を上げています。宗祇は「帚木巻」、「幻巻」「夢浮橋巻」の三巻は、『源氏物語』全巻を通して覆っているものだとしています。宗祇は『源氏物語』を、真実といえば虚構、虚構といえば真実という人生の真実を伝える物語である、という見方を打ち立てて、これを伝え継承してゆきます。
なお「古今伝授」では、『古今和歌集』の中にある「誹諧歌」(巻十九)も伝授されます。この誹諧歌の誹が、言偏から人偏となり俳諧歌となり俳諧に繋がるわけです。そのとき滑稽さだけでなく、源氏文化も同時に繋がってゆきます。宗祇の弟子の中で特に有名な人は、肖柏(しょうはく)と宗長です。肖柏は例外的に貴族の出身です。中院(なかのいん)家の出身で大阪池田の辺りに住んでいたといわれています。肖柏の最大の功績は宗祇の言葉を伝えたことです。肖柏は『源氏物語』については『弄花抄(ろうかしょう)』、『伊勢物語』については『伊勢物語肖聞抄』という大変重要な注釈書を著しています。『弄花抄』は三条西実隆(さねたか)に伝わり三条西家の源氏学の出発点になります。
宗長は島田の鍛冶師だったといわれていますが、宗祇から聞いた『伊勢物語』をもとに『伊勢物語宗長聞書』という注釈書を残しました。
この宗祇、肖柏、宗長の三人は源氏文化に、どっぷりと浸った人達です。またこの三人は、連歌の最高傑作といわれる『水無瀬三吟百韻』を巻いています。これが室町時代における連歌師たちの源氏文化の始まりです。
このような源氏文化の流れから、次にいきなり江戸時代に入りますが、江戸初期における源氏文化の最大の担い手は俳諧師の総帥、松永貞徳です。貞徳はただの俳諧師ではなく、和学者として古典学者として当時最高の権威をもった人でした。貞徳はその身分故に「古今伝授」というような正式な伝授は受けていませんが、細川幽斎たちから源氏文化のスピリットはしっかり受け継ぎました。そして貞徳は、宗祇から始まる源氏文化を江戸時代初期に集大成した人物でもあります。また連歌師、能登永閑が著した『源氏物語』の膨大な注釈書『万水一露』を編纂し出版しています。自らは『徒然草』を分かりやすくするため有名な挿絵入り注釈書『なぐさみ草』を著し『徒然草』を、古典の名著入りさせるのに貢献した人です。また今で言う、公開講座を行い古典そのもの大衆化にも努めています。さらに名は不明ですが貞徳の周辺には『源氏物語』を大衆化するために挿絵入りの『首書源氏物語』や『絵入源氏物語』を発行する人もいました。
俳諧道を志すといいますと、やはり和歌の志が必要になり、和歌を知るためには『伊勢物語』、『源氏物語』を知らなければなりません。このため俳諧師たちの教養というものは、まさに源氏文化にどっぷりと嵌まってゆきました。貞徳門下には貞門七俳仙と呼ばれる七人の有名な俳諧師がいました。その中に野々口(雛屋)立圃(りゅうほ)というユーモラスな絵の名人がいました。この人の描いた絵は俳画の源流ともいわれています。この野々口立圃の最大の功績は、得意の絵を駆使して『十帖源氏』という『源氏物語』の五十四帖を、十帖に縮めたダイジェスト版を発行したことです。さらにそれを判り易くした『おさな源氏』も発行しました。俳諧師が『源氏物語』の権威であったわけです。
貞徳のもうひとりの弟子に、北村季吟がいます。 私はこの季吟に心惹かれています。何故かと言いますと『源氏物語』を読むのに、北村季吟の書いた『湖月抄』があれば読める、『湖月抄』がなければ読めない。まさに『源氏物語』注釈書の決定版とも呼べるもの(『湖月抄』)を季吟は書いています。『湖月抄』があれば、大学院の学生に、博士課程はともかくとして修士課程の学生であれば充分教えられます。それだけのものを季吟は纏めました。季吟は俳諧師ですが歌人でもあり、主だった古典の注釈書を多く刊行しています。『枕草子』については、『枕草子春曙抄(しゅんしょしょう)』を、『伊勢物語』に関しては『伊勢物語拾穂抄(しゅうすいしょう)』、『徒然草』に関しては『徒然草文段抄(もんだんしょう)』などの注釈書などです。それぞれが注釈書の決定版というものを次々に刊行しています。与謝野晶子が、明治時代に『恋衣』という三人で詠んだ歌集のなかで、
春曙抄に伊勢をかさねてかさたらぬ枕はやがてくづれけるかな(『恋衣』)
という歌を詠んでいますが、これは『枕草子春曙抄』と、『伊勢物語拾穂抄』とを重ねて枕にしたことを詠ったものです。余談ですが、私はためしにこの二つを重ねて寸法を測ってみたことがあります。かなりの嵩ですが、それでも足りないということは昔の女性の髪は相当な嵩であったと感心しました・・つまらない話をしました。(会場爆笑)つまり与謝野晶子たちは季吟で、源氏物語などを読んでいたわけです。
北村季吟は、近江の国の野洲に生まれ、京都で活躍していたのですが、晩年の元禄二年に柳沢吉保に招かれ江戸に下り、江戸幕府の歌学方に任命されます。最終的には知行取り五百石の扱いをうけます。こうして「古今伝授」の伝統から始まった源氏文化は宗祇から貞徳を経て、季吟に集積し京都から江戸に根付き、江戸は日本文化の中心になってゆきます。そして同時に源氏物語が、政治社会に活用されてゆきます。この近くにある駒込の六義園は、柳沢吉保の下屋敷です。そこに和歌文化、つまり源氏文化を空間化した六義園という建物が建てられます。この六義園の思想が、すなわち古今伝授の思想であり、時間芸術を空間芸術に変えた画期的な建築である、・・・・という説を、私はあちらこちらで話をしています。
さて、北村季吟の弟子に伊賀上野の侍大将、藤堂良忠がいました。俳号を蝉吟(せんぎん)と称し、この蝉吟に仕えていた下級武士が若き日の芭蕉です。季吟と蝉吟の間には、確実に師弟関係が成立っています。このため蝉吟の使い走りなどで、芭蕉が季吟に会ったであろうという事は予想できます。しかし季吟が江戸に出てきた後に芭蕉と、どう繋がったかは、私は未だ定かではありません。季吟の二人の息子たちは、芭蕉と大変親しく接しているので、この線から季吟と芭蕉を繋げないかと現在考えています。もし繋がれば源氏文化が、そのまま芭蕉に入ります。これまでにも季吟と芭蕉をつなぐ説がいくつかあり賛否両論渦巻いています。一つは『俳諧埋木(うもれぎ)』という俳諧の秘伝書があるのですが、これを季吟が芭蕉に与えたという説です。私は伊賀上野の芭蕉記念館のなかで、ガラス・ケースの中の『俳諧埋木』を見たことがあります。しかし真偽のほどは私には分かりません。また「桃青」・「芭蕉」という俳号を名乗ったらどうだという季吟が芭蕉に書いたといわれる手紙が残っています。これが本物か否かは専門家の間でも喧々諤々と議論されており、定説までには至っておりません。
実は、私は五メートルぐらいの季吟の巻物をひとつ持っています。時々眺めては『俳諧埋木』の最後のところに思いを馳せています。
季吟が江戸に下るのは、元禄二年の十二月です、この年の春に芭蕉は奥の細道に旅立っています。先ほどの谷地先生のお話にも御座いましたが、芭蕉の作風が元禄三年ごろから変わっていくわけです。不思議なことにその年は、季吟が江戸に出てきた翌年に当たっているわけです。『奥の細道』には素龍本という有名な写本があります。私は高校のとき、この本は芭蕉が字の上手い素龍に、これを清書させたと教わりました。しかし、どうも「清書させた」というのではなく、「清書してもらった」というのが正しいのではないかと思います。素龍という人は本名が柏木儀左衛門といい、季吟の高弟です。季吟は、すでに高齢ですので、自分の息のかかった弟子を、柳沢吉保などの奥方や側室に和歌の先生として推挙しています。柏木儀左衛門も季吟の推挙で柳沢吉保に仕えた、れっきとした武士でした。五代将軍綱吉は生涯のうちに吉保邸を何十回も訪れていますが、そのときに柏木儀左衛門が、綱吉に『源氏物語』を進講したほどですので、『源氏物語』についても相当の知見をもっていた人物と思われます。この素龍と芭蕉の関係を突破口に研究すれば何か出てくるのではないかと思っています。多くの研究者が挑戦し、未だ成果がありませんので難しいかもしれませんが、自分なりに研究をして行きたいと思っています。
北村季吟が『湖月抄』を引っさげて江戸に出て、源氏文化は貞徳の時代よりもさらに早いスピードで全国化、大衆化してゆきます。また同じ時期に芭蕉は江戸で俳諧における自分の道を確立し、その俳風を全国に広めていったわけです。何か不思議な暗号といいうか連動があるわけです。季吟の俳諧書に有名な『増山井(ぞうやまのい)』というものがあります。現在の歳時記の源流の一つだと思います。子規が季題・季語に高い関心を示したといわれていますが、この『増山井』も近代の子規に大きな影響を与えたものと思います。芭蕉が唱えた「不易流行」ですが、この解釈はいろいろあると思います。「不易」はおおまかに言えば、『源氏物語』(あるいは「古今伝授」 )を継承するのが「不易」、それを時代に合わせて組み替えてゆくというのが「流行」といえます。
芭蕉が仕え、同時に俳諧の師であった蝉吟のその上の師は季吟でした。したがって季吟は芭蕉に取り神様のような存在ではなかったかと思います。その季吟は古今伝授を通して源氏文化を体現していました。したがって芭蕉と源氏文化が無関係ということは無いのではないかと思います。
「古今伝授」は「和」を重要視します。『古今和歌集』の「和」、日本は「和」国です。日本の文化は、つまり「和」国の文化は「和歌」が代表します。和歌の「和」とは何か、『古今和歌集』の「仮名序」にも書いてあるように、「力をも入れずして天地をうごかし・・・」とあり、男と女の仲を和らげる、人間関係を作り上げてゆく、人と人の結びつきを作り、それを発展させ・和らげるというものが和歌の思想であり、それが「古今伝授」の大切な思想でもあるわけです。そのような人間関係を発展させるという根源的な思想が、連歌や俳諧の連衆が集る、所謂「座の文学」というものを生み出したのではないか、という考えと当然関連する筈です。このため、もう一度この「座」というものを『古今和歌集』の「仮名序」あたりから、線を引き直す必要があるのではないかと考えています。
④ 源氏文化が、近代の扉を開いた
近代を開いたと少し大袈裟なタイトルにしましたが、源氏文化のその後の話になります。別の言い方をしますと、和歌、つまり古典和歌が近代の扉を開いたということです。つまり「和」の思想が、近代を乗り切ったということです。別の言い方をすれば、日本人が近代を乗り切るきっかけは「和」の思想にあったということです。
『湖月抄』が唱えたことは、ひと言で言いますと「和」の思想にあったわけですが、その『湖月抄』の後に、大変困った事に一人の天才が現れます。本居宣長です。昨年ある本を読みましたら、宣長は独創性のない人と書かれており、仰天しました。宣長の本を読みますと私は常に、この人にだけは勝てないと思っていたからです。北村季吟であれば、勉強さえすれば何とか季吟と同じぐらいになるかもしれない。季吟には、そう思わせる懐の深いところがあります。しかし本居宣長は「寄らば斬る」という感じで、足元にも及ばない人であります。
この宣長が出現して『源氏物語』の注釈書『玉の小櫛』が、「もののあはれ」を唱えたとき、実は源氏文化は一番の危機を迎えます。何故かといいますと、宣長のやろうとした事は、『源氏物語』を紫式部に戻そうとしたからです。つまり古代文学として『源氏物語』を読み込もうとしたのです。季吟たちがやって来て、芭蕉に流れ込んだ源氏文化というものは、俊成・定家から始まり、中世の激動の戦乱の時代に、平和な日本が復活したら『源氏物語』や和歌を通して人間関係を発展させたいという祈りを持っていました。「源氏文化」と『源氏物語』は別のものですが、宣長は『源氏物語』を古代文学として紫式部に戻そうとしました。つまり季吟までの流れを切るものでした。宣長は学者として非常に立派で、誰も真似のできない独創的な学説が次々と出しました。宣長の学説の特徴は「個」・「孤」にありました。個人の「個」、孤独の「孤」であり、非常に近代的な学風でした。このような学説(国学)は、外国思想に対して非常に排他的です。「唐心(からごころ)を排す」といい、儒教・仏教を激しく攻撃します。ましてやオランダ文化などについては許せないわけです。国学者は外来思想に対して大変狭い了見をもっていました。このまま進めば、つまり宣長風の『源氏物語』の理解・日本文化の理解で進めば、日本文化は近代を前に転覆したと思われます。しかし、そこが面白いところで、もう一回季吟たちが復活します。宣長流の『源氏物語』の理解、「もののあはれ」は大変独創的でありましたが、これが季吟の『湖月抄』に足され(私はこれをUpdate;アップデートといっています)、(『増註湖月抄』という注釈書となって←筆者注)何の矛盾も無く同居したのです。つまり、季吟が天才・宣長の学説を飲み込んだわけです。「源氏文化」出発点である「和」の思想、つまり中国文化・仏教文化を、すべて受け入れ「和」の精神を発揮し協調・共和してゆくという思想が、しっかりと残ったわけです。
この『増註湖月抄』を書いた人は、名も無い文化人です。季吟の思想・やり方が分かっていれば、後から出てくるどんな学説でも取り入れられたし、また誰にでも出来たわけです。もし現代人の私が、明治以降出てきた人の学説を盛り込めと言われれば、『増註湖月抄』をアップデートすれば良いわけで、大変面白い読み物が出来ると思います。
この『増註湖月抄』が出来た事が源氏文化の凄さで、「和」を否定する先鋭な、また破壊的な学説も取り込み調和させることに成功してゆきます。
吉保の六義園に行きますと、和歌に因む名所の名前、中国の漢詩文に由来する地名、インドで起こり中国に移った禅宗に由来する地名が、ひとつの秩序の中に収まっています。吉保は「古今伝授」 を受けたことで、それまで勉強してきた儒教、座禅を組み修行してきた禅の教とまったく矛盾しない「和」の思想を備えた、日本、中国、天竺の三階建ての文化構造を六義園で確立しました。(→三位一体の世界観を構築)
やがて、幕末になると蘭学(洋学)が怒涛のように入ります。この蘭学を担った人たちは漢文・漢学の知識だけでなく『源氏物語』に関しても優れた教養の持主で、全国津々浦々から続々と現れます。この人たちが近代化を担ってゆきます。
来年出版予定のある本で、私はあることを主張する予定です。それは『源氏物語』が江戸後期に「文化統合システム」として重要な機能を果たしたということです。「文化統合システム」とは何かといいますと、外来文化を受け入れるということです。
「和」の思想とは、調和・和解・和合・和楽・平和の「和」で、これを実現するのが和歌というジャンルであり、その和歌の思想を持っているのが和国です。そして、その「和」の文化を代表するのが『源氏物語』であり、『伊勢物語』であり、『古今和歌集』であるわけです。
こういう外来文化を背景にしないで、和・漢(中国+天竺) ・洋の三階建の大きな精神構造を作るというのが、鴎外・漱石という明治の文豪たちに受け継がれてゆき、時代に批判的な人が近代を作り上げて行くわけです。つまり源氏文化が近代文化を招いたのである。・・・・・というような大風呂敷を広げたいと思っています。(つまり、「和魂洋才」ではなく、「和漢洋」の三位一体で近代を築いた←筆者注)
その時に実例が必要になりますので、盛岡(東日本の代表)と長崎(西日本の代表)の具体例をあげ、このような人たちがこのように源氏文化を担っていた、その水準は大変高いものがあった、他の都市でも起こっていた。というようなことを書くつもりです。
和・漢・洋を矛盾無く一体化させ調和させるというのが、源氏文化の良いところです。これを外国人ながらやってくれたのが、アーサー・ウェリーです。ウェリーは最初、中国文学の研究から出発し、日本文学の研究に転じ『源氏物語』の美しい英訳を作りました。そしてそれを、ヨーロッパに紹介し、『源氏物語』の国際化を成功させました。日本・中国・西洋の三階建てが、ウェリーの源氏訳に繋がった。まさに源氏文化を英国に移し変えてくれた人だと思います。
また、俳句がこれだけ国際化したのも、源氏文化の成功例だと思います。しかし外国の俳句を見ると、季語が入っていないので気になります。季語のない俳句が国際化していいのか、あるいは悪いのか、私は俳句の専門家では無いので詳しくは判りませんが、あるいは、これは国際化の宿命かとも思います。
以上、大変大まかなことを、話してきました。
次に、芭蕉の表現から源氏文化の痕跡をさがしてゆきたいと思います。
http://www.basho.jp/ronbun/gijiroku_6th/6th_3.html 【島内景二先生 近世の源氏文化と詩歌(その2) 伊 藤 無 迅】より
2 芭蕉の文芸と源氏文化
以下、芭蕉の表現の中に源氏文化を探してゆきます。
① 『笈の小文』の須磨・明石の場面
芭蕉と源氏文化を考える際、誰でもが気づくのは『笈の小文』の中の、須磨・明石を訪ねる場面です。また『奥の細道』にも、
寂しさや須磨にかちたる浜の秋 芭蕉
という句があります。
話は飛びますが、私が詠んだ短歌の中に、これは私の愛唱歌のひとつでもありますが、次のような歌があります。
寂しさは須磨にかちたる原発沖に浮かぶ名月
この歌は、テレビに映る原発事故の画面を見て、思わず口をついで出たものです。
最初の十二文字が同じなので、芭蕉のパクリではないかと言われています。(会場、笑)
さて、芭蕉の句は、『源氏物語』の須磨巻の影響というのは誰でも分かります。一般論として『源氏物語』が芭蕉におよぼした影響というのは、案外少ないのではないかと思われています。私もそう思うのですが、散文と一体化した俳文の中には、源氏文化が濃厚に残っています。つまり「源氏詞」、「伊勢詞」あるいは『古今集』の歌がそのまま使われています。
② 『拾八番句合』跋
前後十八番の句合、やつがれ馬頭(うまのかみ)に成りて、物定めの博士に指され侍る。渋面顔に分別臭く、ひびらき(ひひらき)たる様、我ながら片腹痛けれど、そのかたはらに筆を汚して、上、中、下の品を分かち侍るも、たまたまにも頷く人あれかしとこそ。
これは宗祇が、源氏学で最も重要視したと言われている帚木巻の「雨夜の品定め」を踏まえた一節です。「雨夜の品定め」が、重要視されたのは、この中で女性の優劣を競っていることでは決してありません。それは人間を見る眼というものを、光源氏や頭中将に左馬頭(ひだりのうまのかみ)が教えているからです。つまり政治家として、なくてはならない「人間を見る眼」を、教えていることが重要なのである。このように宗祇以来力説して来ているわけです。つまり「和」の思想です。宗祇は、人間関係を上手に成立させるには何が大切か、ということを考え「雨夜の品定め」を重要視したのです。
さて、この芭蕉の文章の方ですが、芭蕉は句合の座で、あたかも「雨夜の品定め」に出てくる左馬頭に相当する役を連衆に指名され、句を捌くわけです。そのとき「雨夜の品定め」に出てくる光源氏や頭中将のように、私の捌きにも頷く人が出て欲しいと芭蕉は書いているわけです。
ここでは単に『源氏物語』の言葉が使われているというだけではなく、「古今伝授」で重視された帚木巻の「雨夜の品定め」の表現を使っていることが大切です。
③ 「侘テすめ」詞書
月を詫び、身を詫び、拙きを詫びて、わぶと答へむとすれど、問ふ人もなし。なほ侘び侘びて、 侘テすめ月侘斎がなら茶歌 芭蕉
この文章は、『源氏物語』の須磨巻で、引歌されている有名な在原行平の歌、
「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつ侘ぶと答へよ」
を、孫引いているものです。漁師が海水で袖を濡らしているように、私も都から遠く離れ、涙で袖を濡らしながら侘びています、と言う歌意です。須磨巻で引かれた歌なので『源氏物語』が発明した言葉ではなく、『源氏物語』が引用したものになります。しかし結局は「源氏詞」の範疇に入ります。
須磨・明石巻が、芭蕉に与えた影響は大きいものがあると思っています。私は「侘び」「寂び」 や、先程谷地先生が話をした『嵯峨日記』の「清閑ニ楽」あたりとの関係を、『方丈記』だけではなく、本気でもう一回調べる必要があると思っております。
④ 「うにほる岡」
伊陽の山家に、「うに」といふ物有り。土のそこより掘り出でて、薪とす。石にもあらず、木にもあらず。黒色にしてあしき香あり。そのかみ、高梨野也(やや)、これをかゝなへて曰く、「本草に石炭といふ物侍る」。
④は石炭の話です。この芭蕉の文章の中で、高梨野也という人が「かゝなへて曰く」と書いてありますが、どういう意味か不明です。すぐ思いだされるのは、ヤマトタケルと火焚きの翁の贈答「かがなべて」を思い出しますが、それでは意味が合いません。この「かゝなへて」は、「考えて」の意味でなければなりません、そうであれば『源氏物語』などの王朝物語によく出てくる「かうがへて」を、芭蕉が書き間違えたか、あるいは書写した者が誤写したのであろうと思われます。
⑤ 「夏はあれど」詞書
卯月の中頃、須磨の浦、一見す。うしろの山は、青葉うるはしく、月はいまだおぼろにて、春の名残もあはれながら、ただこの浦のまことは秋を旨とするにや、心にものの足らぬけしきあれば、 ばせを 夏はあれど留守のやうなり須磨の月
⑤は須磨巻で、「うしろの山」は、須磨巻に出てくる言葉で「源氏詞」です。
⑥ 「鵜舟」
岐阜の庄長良の川の鵜飼とて、世にことごとしう言い罵る。まことや、その興の人語り伝ふるに違わず。(以下略)
⑥は再び、帚木巻になります。「おもしろうてやがてかなしき鵜飼哉」の有名なヶ所です。世間では仰々しく長良の鵜飼は素晴らしいと評判しているが、実際、評判どおりの素晴らしさである、と書いています。この文章の「世間でことごとしう評判を立てている」と言うのは、宗祇が重視した『源氏物語』の帚木巻にある冒頭の一節、
「光る源氏、名のみことごとしう、言い消(け)たれ給ふ咎(とが)多かなるに、いとど、かかる好き事どもを末の世に聞き伝へて、軽びたる名をや流さむと、忍び給ひける隠ろへ事さへ語り伝へけむ人の物言ひさがなさよ」
を踏まえています。この一節は、光源氏は世間の噂では、ことごとしく言われているが、実際はそれほどではない、真面目な人だったのだよ、という意味です。
芭蕉の「鵜舟」の文章は、評判と実際とが一致しているという内容ですが、帚木巻の冒頭の方は、一致していないという文章です。「ことごとしう」が文脈上は反転しているわけです。
「ことごとしう」という言葉は、芭蕉でなくとも誰でも使うでしょう、と言うかも知れませんが、芭蕉の「鵜舟」の文章は、帚木巻の冒頭の一節を踏まえていると思います。
⑦ 「幻住庵記」
(定稿)ある時は仕官懸命の地を羨み、一度は仏蘺祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身を責め、花鳥に情を労して、暫く生涯のはかりごととさへなれば、終に無能無才にして、この一筋につながる。(前後、略)
(初稿)およそ西行・宗祇の風雅における、雪舟の絵における、利休が茶における、賢愚等しからざれども、その貫道するものは一ならむと、背を押し、腹をさすり、顔しかむるうちに、覚えず初秋半ばに過ぎぬ。一生の終わりもこれに同じく、夢のごとくにして、またまた幻住なるべし。
「幻住庵記」は私も大好きな文章です。『徒然草』を研究している私の家内に言わせると「幻住庵記」 は『徒然草』の影響が濃厚であると言っておりますが、私に言わせれば「源氏文化」の影響もあると言います。では、どちらの影響が強いかということで、夫婦で喧嘩をしているわけです。(会場、笑い)
「幻住庵記」 では、「源氏文化」が、はっきりとは表れていませんが、伏流していると思います。最初の、最終稿といわれる「定稿」の方ですが、ここでは「 花鳥」と「はかりごと」 が並べて使われています。このように並べられると『古今和歌集』の真名序にある一節が連想されます。『古今和歌集』は、紀貫之が書いた「仮名序」が有名ですが、紀淑望(きのよしもち)が書いた「真名序」 も名文です。その中に和歌を詠む人が絶えなかったという次のような件があります。
「和歌を業とする者、綿々として絶えず。・・・・・好色の家にはこれをもちて花鳥の使となし、乞食の客(きつしょくのかく)はこれをもちて活計の謀(かっけいのはかりごと)となすことあるに至る」
ここで書かれている「花鳥の使」ですが、これが重要となります。「花鳥の使い」は、そもそも中国の玄宗皇帝が、ハーレムに入れる美女を集めるために、全国に人を遣わしました。その遣わされた人、すなわち男女の仲立ちをする人を指しました。
実はこの「花鳥」という言葉が「源氏文化」とも関連します。
『源氏物語』の注釈書に一条兼良(かねら)の書いた『花鳥余情』という有名な注釈書があります。この中で『源氏物語』は、男と女の仲立ち、つまり男と女の人間関係の調和を通して、人と人との結び付けを明らかにしようとした、と述べています。つまり一条兼良が、『花鳥余情』で説いた学説になるわけです。そこで述べられている「活計の謀」を、「生涯のはかりごと(謀)」と書き直せば、「幻住庵記」の表現になります。
また、「幻住庵記」の初稿の方ですが、「夢」と「幻」という言葉が使われています。宗祇の『源氏物語』の理解においては、帚木巻・幻巻・夢浮橋巻の三巻が重視されました。何故かと言えば、前にも言いましたが、帚木は遠くから見れば見えるが、近づくと消えてしまう。何が真実で何が真実でないか分からない。幻も夢も同じようなものです。
芭蕉が宗祇の学説を踏まえた上で、この初稿の四行を書いたとは思いません。しかし西行の次に宗祇を出したというのは、単に旅をした人物だからと言う事ではなく、宗祇が引きずっている源氏文化、『源氏物語』の理解、「和」の思想が、皆流れ込み、無意識のうちに夢とか幻とか、そういう言葉になったのではないかと思うわけです。
「幻住庵記」には、季吟に流れ込んだ宗祇以来の「源氏文化」が、伏流・底流している可能性があります。しかし可能性があるというだけで証拠はありません。
⑧と⑨は伊勢物語との関連です。『伊勢物語』は誰でも読んでいますから、芭蕉も当然読んでいて、似たような表現をしたものと思います。
⑧ 伊賀新大仏之記
旧友、宗七・宗無、一人二人、誘ひものして、かの地に至る。
これは『伊勢物語』第八段の、
「住み所求むとて、友とする人、一人二人して行きけり」
及び、第九段の、
「もとより友とする人、一人二人して行きけり」
を踏まえた表現と思われます。
⑨ 「竹の奥」
まこと、その人は、世の常にあらず。心は高きに遊んで、(中略)家は貧しきを悦びて、まどしきに似たり。
これも、『伊勢物語』第十六段の、
「昔、紀有常といふ人ありけり。(中略)世の常の人のごともあらず。人柄は、心うつくしく、あてはかなることを好みて、異人(ことひと)にも似ず。貧しく経ても、なほ昔よかりし時の心ながら、世の常のことも知らず」
を踏まえた表現と思われます。
⑩ 芭蕉と源氏文化の関連はこれからの研究課題。
以上、いろいろと話をしてきましたが、芭蕉と源氏文化との関係は、これからの研究課題です。これからも研究をしてゆきたいと思っています。その際のキーパーソンは、北村季吟・柳沢吉保だと思っています。元禄文化を推進した季吟・吉保の二人に芭蕉が直接会って話をしたということはないと思います。しかし季吟の息子達などを通して、季吟と芭蕉の間で、何らかの接触があり、その物証が見つけられないか、と考えています。芭蕉が『源氏物語』を、原文で最後まで読んでいたかは分かりません。しかし源氏文化の中に芭蕉が位置づけられないかと考えています。
源氏文化が外国文化を受け入れる際に文化統合システムとして大変重要な役割を果してきたわけですが、その流れの中で芭蕉や俳句の国際化が位置づけられないか、そのような大風呂敷を広げられないかと考えています。
3 おわりに
源氏文化のブームは何度も起きるのですが、現在は「源氏詞」が死んでしまっているわけです。最近、村上春樹の小説を読みました、その中に、もしかしたら源氏文化が生きているかもしれない、という希望を抱きました。
今残っているとしたら、短歌や俳句をやっている人の一部の人にしか残っていません。けれども、源氏文化に、つながっていけるのは私達だけであります。
源氏文化の特徴と言うものは、本居宣長のところで話したように、叩けば叩くほど、息を吹き返します。俊成・定家から始まった源氏文化は、作品としてではなく、文化システムとして生き延びてゆくわけです。
芭蕉俳諧への現代人の関心の高まりは、今なお源氏文化が生きていることの証拠かとも思います。
拙著『塚本邦雄』(笠間書院)の中で、私は塚本邦雄になり代わり、二つのことをアジテーションしております。
「日本人なら『源氏物語』くらい読め!」
「『伊勢物語』も忘れるな!」
の二つです。
現在、私は理科系の大学で教えていますが、これを言うと学生は「読んでいないと馬鹿だと言うのですか」と食ってかかられることがあります。(会場、笑い)
その時は、そうではなく、『源氏物語』から流れ出した源氏文化というものが、君たちを生かしているのだと答えています。
今日は、芭蕉の専門家に対して大変失礼なことを申し上げたかも知れません。
私は、これからも自分のオリジナリティーとして「源氏文化」を標榜し、生きてゆくつもりです。
長いことご清聴有難う御座いました。( 会場、大きな拍手 )
< 質疑応答 >
1、芭蕉以外の江戸時代の文学者、例えば近松門在門なども源氏文化の影響を受けていたのか?
→ 源氏文化と無関係な人は、江戸時代には居なかったと思っています。『徒然草』が一番判り易いのですが、そうでなくとも『源氏物語』『伊勢物語』と無関係な表現は無いわけです。一般にもの(小説や歌)を書く場合、言葉で表現するしかない。その言葉はすべて辞書にある、ある意味で手垢のついた言葉を使って書くわけです。ただし、少しでも読者の心を打ちたいと思う言葉、また美しい言葉やエネルギーのある言葉で表現をしたいときがあります。その場合、多くの人々の心を動かしてきた言葉を使いたいと思うわけです。その場合は『源氏物語』の「源氏詞」や、『伊勢物語』の「伊勢詞」、あるいは漢文であれば『白氏文集』の詞を使って書くわけです。つまり言葉の典拠が限定されてくるわけです。これは言葉だけではなく、そのような表現を生み出す「心」も入ります。その「心」というのは、個人の心だけではなく、その人が生きている社会全体の文化もあり、その中で原稿活動をしてゆくわけです。そうなると『源氏物語』の「源氏詞」を用いて、殆どの作品は書かれていたわけです。勿論個人差・濃淡はあります。例えば、井原西鶴を読む上で『源氏物語』『伊勢物語』を読んでなければ面白くないですね。読んでおくと、「ここをこう、あそこをこう変えたのだな」ということが分かり、同時にそういう詞が残っているので、西鶴はこの巻のここに感動していた、ということが分かるわけです。近松の場合は、結構ずらすわけです。私はこう言った事を最初注釈書として世に出そうとしたのですが、注釈書は残念ながら研究者しか読んでもらえない。もっと世の中の人に読んでもらいたいと思い、今のような評論書スタイルで、源氏文化を発掘するということを始めました。
2、質問というよりも感想になるかと思いますが、芭蕉の言葉に「俳諧はなくてあるべし」という言葉があります。最近わたしはこの言葉を折にふれ噛みしめているのですが、本日の先生のお話を聞いていて、これはまさしく本日の話「和の精神」ではないかと思い当たっています。先生から見てどう思われるでしょうか。
→むずかし問題ですが、「源氏文化」が重要で、『源氏物語』はなくてもよいわけです。「源氏文化」とは何かといいますと、人と人の和を重視し平和を重視することです。平和を重視する考えが一番力を持つのは戦乱の世が一番強いわけです。『源氏物語』の研究が一番進んだのは戦国時代です。紫式部のころは、ただ読んで面白い、で終わります。平和な時代になって北村季吟が集大成し、宣長がもう一回荒立てて幕末の動乱期を迎えます。この動乱期に再び『源氏物語』が読まれます。明治に入り再び戦争の時代に入り『源氏物語』は攻撃にさらされます。つまり「殖産興業」「富国強兵」 に何の役にも立たない『源氏物語』など捨ててしまえ、という状況になります。さらに昭和に入り戦後の高度成長時代にも、同様に文学などは何の役にも立たない、文学・国文は大学に要らないと、『源氏物語』は一方的な攻撃を受けました。しかし攻撃されればされるほど底力を発揮し突然変異を起こすのが「源氏文化」です。そういう意味では現在は「源氏文化」にとって良い時期を迎えているわけです。それは『源氏物語』のブームがきているということではなく、「源氏文化」の進退が揺らいでいる、「源氏文化」の可能性・本意を知っている人が衰退していると言う事が、実は「源氏文化」 にとり一番有難いことであるわけです。つまり「それではいけない」という人が出てきて「源氏文化」をアップデートしてくれて、新種が出来て新時代に対応してゆくわけです。私は、そういう研究者になりたいと五十歳ぐらいから思い始めて現在に至っております。研究者仲間からは「ミイラ取りがミイラになる前に、早く『源氏物語』に帰ってこい」 と言われておりますが、「源氏文化」と『源氏物語』は別物です。私たちは千年前の『源氏物語』の世界には入ってゆけないわけです。一方「源氏文化」は生きていますから、しっかりと「源氏文化」を追い、六十歳ぐらいから『源氏物語』の注釈に入りたいと思っています。
3、資料に、源氏文化が明治の文明開化の基盤だったとして、その東日本の代表に盛岡を上げていますが、その盛岡で誰がそれを担いでいたのか、人物名を教えてください。
→盛岡には実は何人もいるのです。特に「那珂通世(なかみちよ)」(1851~1908)の兄であった人がいます。医者でしたが、若くして亡くなりました。この人は『源氏物語』の五十四帖から漢詩を二首ずつ選び、同様に盛岡で国学を勉強していた人がいて和歌を二首選び、あるお寺で交互に詠み上げた記録が残っています。漢詩一〇八首、和歌一〇八首で『源氏物語』五十四帖全体を満遍なく、たった二、三時間の間に表現しています。この記録が岩手県立図書館にあります。閲覧カードの最後の方に池田亀鑑の名がありましたので、池田先生もこれを見ていたようです。
盛岡にかぎらず、地方に行ってみるとこのような注釈書が一つ見つかると、『源氏物語』以外のものも芋弦式に出てきます。そしてその内容は決して粗雑なものではなく確かなものです。そういう名も無い人材が地方には沢山いました。そういう人たちが、参勤交代か何かで江戸に来た折などに、季吟の『湖月抄』版本が手に入りさえすれば、「源氏文化」が日本各地に広がり根付くという時代環境が江戸末期にはあったと思われます。そういうものが地方の名も無い若者に影響を与え、そういう人が幕末・明治にかけて活躍する下地になったと考えています。
4、私達は今迄、本歌・本説ということでいろいろ勉強してきました。先生が話されている「源氏詞」 や、近世の「源氏文化」というものを吸収する際に、区別しておくこと、注意しておくことは何かありますか。
→本歌取りというのは、定家が『新古今和歌集』で確立した和歌の手法です。この本歌取りの文化圏から「源氏文化」が始まりました。よく研究者が陥りやすいのは、単に言葉だけ見てゆくことです。今日の話の中でも「ことごとしう」のところで、これは芭蕉でなくとも誰でも使うでしょう、と話しましたが、文脈を読み、背景を読めば、単なる「ことごとしう」ではなく、そこには底流があるのだと分かるわけです。
インターネットとかCD-ROMを検索し、言葉だけで引っ掛ける(洗い出す)と、単なる言葉のヒットになるので注意が必要です。文学は質の問題ですから、その言葉の裏にあるものを探るのは重要となり、それ自体は難しいものがあります。私はそのとき最後に認定するのは、変な言い方になりますが「勘」だと思います。その「勘」というのが学力です、その「勘」が、いちばん鋭かったのは本居宣長です。宣長の「勘」は学力だったと思います。言葉が似ていても違うとか、写本を見てこれは誤記だと瞬時に見抜くのも「勘」、すなわち学力であると思います。
若い研究者の論文を見ていると、表面だけを比較しているものが多く見受けられますが、そうではない。『源氏物語』『伊勢物語』を読んで感動したという自分の体験が、その書を読み、その作者がやはり感動して書いたのではないかと思うこと、つまり感動を見抜く、感動を共有するという体験が、読書であり、研究であると思います。
< 所感 >
聴き応えのある講演でした。
私は、お話の中で「文学などは何の役にも立たない」と言われていた高度成長時代に、人生の大半を送った世代です。息の詰まるような現役社会の中で、偶然に俳句を知り、以来その対極(に見えた)の俳句世界に魅了され、現役世界と俳句世界とを往復しながら現役生活を終えました。今は、その俳句世界に、どっぷりと浸っています。すると不思議なことに現実社会の異常さや・滑稽さがよく見えます。
本来このように世界を二分することはあり得ないのですが、悲しいことにリタイア後も意識の中に依然として二つの世界が居座っています。現役時代にストレス解消の手段として、右脳と左脳(つまり精神)のバランス(調和)を保つために始めた俳句ですが、団塊世代特有の生真面目な性格から、調和ではなく、「逃避」という意識が強かったからでしょうか。つまり私にとり、俳句に浸る時間は、束の間の結界だったかもしれません。
かつてベトナム戦争時代、米国の若者達が社会的閉塞感から自国文化に絶望し、日本文化(禅・俳句)をカウンター・カルチャーとして必死に追い求めた時代がありました。また俳句初学の頃、日本を西洋にするため子規が日本文学を「薄ッぺらな城壁」と悲観し、西洋精神を本気で文学に移入しようとした事を知りました。そのとき文化とは、一体何だろうと漠然と考えたことがあります。
3.11以降、ネットを見ると、日本を変えようという声が満ち溢れています。そしてその論調は、どうも今まで我々が抱えていた価値観・発想とすこし違うようです。特に子を持つ女性の声は、理屈を越えて胸に迫るものがあり、何か根源的な力を感じます。それが今回の「和」の思想と、どう絡むのかは分かりません。
リタイア後の私が、二つの世界を引きずり、なかなか一つにならないのも、双方の価値観が、明治以降乖離し続け、今や相容れないほどの対極的世界を形成していることが、根源的な問題ではないか、とさえ思います。私個人の考えとしては、これを無理に融合せず、まず往復可能な環境を整えることが重要ではないかと思っています。
島内先生の「源氏文化」が、俳句の世界に残っているなら、それはとても嬉しいことです。「源氏文化」が俳句の心であるならば、私の言う相互世界を往復する環境作りには最適な文芸であり、やがては一つになると思います。そのようになるように、これからも仲間と一緒に俳句を愛し、俳句を作って行ければと思います。
いま哲学の世界では、西洋思想の行詰り感から「汝(他者)の思想」の重要性が、世界規模で叫ばれていると聞きました。今回のお話を聞き、「汝の思想」と和の思想、つまり「源氏文化」は同根のものを持っているのではないかと直感的に思いました。その意味で「源氏文化」の必要性は高く、日本を、そして世界を覆う日が、早く来ることを祈りたいと思います。
おわり