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征夷大将軍

2018.03.05 11:53

https://honcierge.jp/articles/shelf_story/5777 【5分でわかる征夷大将軍!主な将軍一覧、源氏しかなれない説などを簡単に紹介】より

「鎌倉、室町、江戸幕府の将軍の正式名称は何?」というクイズを出したら、ほとんどの人が「征夷大将軍」と答えられるはずです。でも、「征夷大将軍の本来の意味は?」という問いに対し、「幕府の長」や「武家の棟梁」では正解になりません。なぜなら彼らの役割は、時代のニーズに合わせる形で変わっていったからです。この記事では、征夷大将軍という役職ができた由来や役割の変遷、歴代将軍などの基本的な知識や、源氏しかなれないという通説の真偽などについてわかりやすく解説していきます。またあわせておすすめの関連本もご紹介するので、ぜひご覧ください。

征夷大将軍とは何か?簡単に解説

朝廷の令外官のひとつで、朝廷に従わずに対立していた東北地方の部族「蝦夷」を「征討」するために、天皇の軍事代行者として任命された役職です。

といっても、最初から征夷大将軍と呼ばれていたわけではありません。古くは飛鳥時代末の709年に巨勢麻呂(こせのまろ)が「陸奥鎮東将軍」に任命され、その後も「征夷将軍」「征東将軍」「征東大使」など時期によって呼称もまちまちでした。

また当時は太平洋側を進む軍を率いる者を「征夷将軍」、日本海側を進む軍を率いる者を「征狄(鎮狄)将軍」、九州へ向かう軍を率いる者を「征西(鎮西)将軍」と呼び分けていました。

陸奥国の蝦夷を征討する軍を率いる将軍が「征夷大将軍」と呼ばれるようになったのは、奈良時代末期以降です。

征夷大将軍、初代は誰?主な人物一覧も

日本で最初の征夷大将軍として、歴史の授業で坂上田村麻呂と習った人も多いかもしれません。ただ実は初代は大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)で、田村麻呂は2代目になります。

790年に征東大使になった弟麻呂は、794年の正月、節刀を賜与されました。これが征夷大将軍という呼称の初見です。この時、弟麻呂の副使として蝦夷征討の中心的役割を担っていた田村麻呂は、鎮守将軍を経て、平安時代初期の797年に桓武天皇から征夷大将軍に任じられます。

弟麻呂は呼称としての初代、田村麻呂は実務としての初代と解釈すれば、わかりやすいかもしれません。

その後、1192年に源頼朝が征夷大将軍となり、日本で初めての本格的武家政権・鎌倉幕府の長になります。しかし源氏の血筋が3代で途絶えると、九条家出身の藤原頼経が4代を継承し、6代は宮将軍の宗尊親王(むねたかしんのう)といった具合に、摂家将軍や宮将軍で代をつないでいきます。

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の建武の新政を経て、足利尊氏が開いた室町幕府では、「日本国王」を称した3代義満、後継者問題から応仁の乱を引き起こした8代義政、「陰謀将軍」の異名をとった15代義昭といった個性派将軍を輩出しています。

また徳川家康が開いた江戸幕府では、「生類憐みの令」を発布した5代綱吉、ドラマ「暴れん坊将軍」シリーズのモデルになった8代吉宗、50人以上の子供をつくった11代家斉、最後の将軍である15代慶喜がよく知られています。

征夷大将軍の役割の変遷は?変わったことと、変わらなかったこと。

当初は蝦夷征討を目的としていた征夷大将軍も、1192年に源頼朝が就任すると、役割が変わっていきます。

東国における武家政権の鎌倉幕府は、全国に守護・地頭を置いて、日本における軍事・警察権を掌握していました。この軍事政権のトップに君臨した頼朝は、自身の地位にふさわしい称号を欲し、東北平定後はほとんど有名無実化していた征夷大将軍を再活用したというわけです。

もともと頼朝は奥州藤原氏を討伐するために「征夷」の名目が必要だったというのが通説でしたが、1192年の時点で、奥州藤原氏はすでに頼朝に征討されていました。

このことから、頼朝が望んだのは「征夷」ではなく、「大将軍」のほうであったとし、朝廷が4つの候補の中からもっとも吉例とされる征夷大将軍を選んだとする説も有力です。以後は幕府の長、武家の棟梁として、その役割を変えていきます。

それでは、変わらなかった点とは何でしょうか。幕末の1867年に徳川15代将軍の慶喜がおこなった「大政奉還」がヒントになります。

大政奉還とは、朝廷から委任されてきた統治権を返還すること。草創期の征夷大将軍が天皇の軍事代行者として任命された事実を考えると、幕府も朝廷の代行者という点においては、変わらなかったといえるのではないでしょうか。

征夷大将軍は源氏しかなれないって本当?

鎌倉幕府の創始者は清和源氏の源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏も、頼朝と同じ源義家の血を引く源氏の名門。そして江戸幕府を開いた徳川家康も、「自称源氏」といわれますが足利氏支流・新田氏の末裔を称していました。

その一方で、豊臣秀吉は征夷大将軍になりたかったのに、足利15代将軍の義昭に養子縁組を断られたため、近衛前久の猶子として関白になったという話も伝わっています。

これらのことから、「征夷大将軍には源氏しかなれない」というイメージが定着していますが、実は源氏でなくてもなれるのです。

先述したとおり、鎌倉幕府では源氏の血統が途絶えた後、摂家将軍や宮将軍が誕生していますし(ただし摂家将軍は母方が源氏の血統)、戦国時代には平氏の子孫を称していた織田信長に対して、朝廷が征夷大将軍を打診しています。

また秀吉についても、江戸時代初期の1642年に林羅山が編纂した『豊臣秀吉譜』に記載されているのが初出で、徳川の天下になってから唱えられた説であることを考えると、あまり信憑性はありません。彼はなろうと思えば将軍になれたのに、よりメリットのある関白を選んだともいえるでしょう。

しかし朝廷から官職を得るには、何事も先例が重んじられたので、当時「武家の棟梁である征夷大将軍は、源氏がふさわしい」という考えが根強かったのも事実。家康もこの先例にならい、源氏であることをアピールして将軍になったのです。

室町幕府の征夷大将軍から考える、リーダー像

著者は「室町幕府の将軍はだれも幸せになっていないし、現代を生きるハウツー本として重宝されるような立派な生き方をした将軍も皆無」と主張。

同じようなタイプのリーダーを輩出している、日本の現代社会との共通性を指摘しています。

「力で支配する」武士のあるべき姿を見せることができなかった室町幕府は、「出来損ない」と低く評価されがちです。しかし実は、鎌倉幕府や建武の新政の失敗例を踏まえたうえで、北朝天皇家を執事の立場で支えながら、「担がれることに特化したリーダー」に徹するという省エネ的な形態で、200年以上にわたって政権を維持していました。

こうした視点であらためて考察すると、「王権簒奪を企てた」と言われる3代将軍の義満も、現天皇家の治世が続くよう尽力していたと正反対の見方ができますし、良好な公武関係を構築した尊氏の弟の直義や2代将軍の義詮(よしあきら)の存在感の大きさも見逃せません。

歴代徳川将軍の健康状態は?

著者は、直木賞候補に何度もノミネートされている一方で、整形外科医でもある篠田達明。初代家康から15代慶喜まで、徳川将軍15人の死因や養生法を最新医学の立場で診断しています。

彼らがどのような健康状態にあり、病気になったときに江戸城の医師団がどのような治療を施したかを、面白エピソードを交えながら年代順に紹介しています。

70歳を超える長寿を誇った初代・家康は、鯛の天ぷらによる食中毒で死んだというのが通説ですが、実は胃癌を患っていたようで、腹中のしこりをサナダ虫と誤診して強力な薬を飲みすぎたことが、死を早めたのではないかと診断しています。

また推定身長が子供並みの124センチしかなかった5代・綱吉を特発性、あるいは生長ホルモン分泌異常による低身長症と推定。彼が200回に及ぶ儒学の講義をおこなったのは、このコンプレックスを払拭するためだったと精神医学の視点でも分析しています。

さらに徳川家の将軍のなかでも最長寿の77歳まで生きた15代・慶喜が、外出の際にも必ず自家製の弁当を持参するなど食生活に気を配り、日々の運動も欠かさなかったというエピソードにも注目。健康長寿を目指す現代人にとっても参考になるでしょう。


https://ameblo.jp/eiichi-k/entry-12391314654.html 【秀吉は出身身分が低かったから将軍になれなかった、のか?】より

「秀吉は農民出身だから将軍になれなかった、だから関白になった」って言うのは、あからさまに理屈としておかしい。

それは「将軍は源氏しかなれない」という俗説をいまだに信じている人が言ってる虚説である、そもそも、将軍になれないものが関白にならばなれる、なんてはずがない。

というのが、普通の回答ですけど、細かく検討しようとすると、いろんなところで「諸説ありすぎ」なのが、この話です。

・まず、秀吉はそんなに貧農の出身ではない、という説もあります。意外と「豪農」「地侍」といっていいくらいの家だったのではないか、とも言われています。「貧乏人出身」は、逆に秀吉の自己宣伝だ、ということです。

・信長が「将軍でも関白でも太政大臣でも、好きなものになってください」と言われたか、それとも自分から「将軍、関白、太政大臣のどれかにしろ」と要求していたのか、これは史料の読み方でどっちにでも解釈できるため、定説はありません。

源氏でなければ絶対に将軍にはなれない、というのは大嘘。だって藤原氏の将軍も皇族の将軍も現にいるもの。でも、足利将軍が「源氏の長者」をあわせて名乗っていた時期があったので、「将軍は、源氏の長者がなるもんだ」というなんとなくの常識が当時あったのも事実。

・より権威の高い関白にはなれたのだから、将軍にだってなろうと思えばなれたに違いない、とううのは、果たしてどうだろうか。

追放されて落ちぶれた足利義昭に「養子にしてくれ」ともちかけ、それを断られてので、征夷大将軍になるのを諦めた、という話は、眉唾という人は多いですが、ありえない話ではありません。

当時、義昭はれっきとした現役の征夷大将軍です、辞任なんかしてませんから、「元将軍」ではありません。室町幕府の将軍が京都から追い出されて流浪する、なんてことは実はしょっちゅうあったことで、珍しくもなかったんです。

義昭は毛利領の鞆の浦から、しばらくは全国の大名に「オレを奉じて信長を討て」という手紙を書きまくっていた、つまり盛んに政治活動をしていた時期もあったので、「落ちぶれ」ていたというイメージは如何なものか、というのもあります。

秀吉が、将軍になろうと思えば、朝廷にこの義昭の位を剥奪させねばなりませんが、朝廷ってのは自分で手を汚すのを嫌うので、秀吉が自分で義昭を滅ぼすか説得するかしないといけません。これは秀吉にとっては、意外と面倒くさい話で、そこまでして何がなんでも「将軍」になりたいかって言われると、そうでもないな、と考えた、というのが妥当かも知れません。

鎌倉幕府 にも摂家将軍や皇族将軍がいたように、源氏でなければ将軍になれないというのは俗説に過ぎないのと同様、「征夷大将軍になれば幕府を開けて、日本の支配者になれる」とい うルールがあったかのようにいうのも、誤解です。

鎌倉幕府と後世呼ばれる組織(当時は幕府なんて言葉はなかった)は源頼朝が征夷大将軍になるずっと前から自然発生的に出来上がったもの で、室町幕府 はその後継組織として、なんとなくその仕組みを模倣したに過ぎません。つまり、結果としてそうだった、前例がそうである、というだけで、「征夷大将軍」が日本最高の権力を保証する肩書きである、なんて考え方は、実は、ないんです。

ですから、秀吉は、自分で「将軍」ではなく「関白」を選んだのだ、と考えたほうが妥当です。

室町幕府の「ていたらく」の記憶が生々しい時代、今更、あの義昭と同じ「征夷大将軍」を名乗っても、あまり立派そうに思えない。いままでの「情けない室町 将軍」の跡継ぎになっても、あんまりたいしたことと思われない。むしろ、「その上をいく地位」になって、皆をびっくりさせ、「新しい世の中が始まるんだ」 と思わせたかったんだというのが、妥当な解釈だと思われます。

日本史上はじめての武家関白、カッコイイじやないですか。秀吉、いかにも「史上初」とかが好きそうですから。

「王」を殺して成立したフランス革命政府のなかから、新しく現われて政権を握ったナポレオンは、いまさら「王」になるのではなく、「皇帝」という、フランス人が誰も見たことのない光り輝く称号を名のった、それと同じです。

秀吉は、将軍よりずっと格上の肩書として「関白」というのを見つけて、「こりゃあ丁度いい」って取ったんです。その気になれば、強引に摂関家の養子になったり、天皇から新しい姓を貰ったり、いくらでも横車は押せるってことです。

だから「将軍になれなかった」というよりは、新しいモン好きの秀吉は「あえて、新味 のある関白という肩書を取った」と考えたほうがいいんじゃないでしょうか。

じゃあ家康が、秀吉が捨てた「征夷大将軍」を敢えて取ったのは何故か、これはまた別問題ではありますが。言ってしまえば「新しいモノで驚かすのが好きな秀吉」と「古いモノで安心させるのが好みの家康」の、キャラの違い、と思っておけばいいんじゃないですか。

ちなみにどっちも、ホントは源氏でも平氏でもない です(たぶん)、でも、日本人は「そんなのは実のところどうでもいい」と思ってる、けっこう融通無碍な民族なんです、実は。

関白は平安時代から江戸時代のあいだまで、それこそ何十人といますが、すべて藤原氏の本家から出ています(鎌倉以降は「五摂家」と呼ばれる五家の 持ち回りです)。そこに強引に割り込んで、武家で関白になったのは、豊臣秀吉と、その養子である二代目の秀次のみです。

秀次が「謀反」の疑いで切腹させられたあとは関白は置かれず、江戸時代になって五摂家に戻されました。徳川は「関白は要らない」と判断した。つまり「武家関白による政権は、うまくいかない」ということが分かったからです。

どうしてか、といえば、基本的には「御恩と奉公」で出来上がっている武家社会のトップはやっぱり将軍でないと皆が安心できない、関白などという公家のトップには武士たちの心はつかめない、ということです。

そんな肩書き、どうでもいいだろう、というわけにはいきません、これは「正しい封建社会」をきちんと運営していく意志と能力があるかどうかの問題なんです。本気で論じたら長くなりますので、また改めて。