お母さんに必要なこと
たくさんの人に教えてもらい、
育ててもらっている。
いつも頭で分かっているけれど、
ふとした時に本当に心で理解する時がある。
子どもたちに
「死」について伝えるのは
夏、喜んで採ってきたカブトムシが
死んだ時も、
理科の授業で飼っていた蚕が
再び同じように見える個体を
もらってきても、
前のそれとは違う…
ということを満足いくように
深く伝えられなかったと思う。
近所のおじいちゃんが死んだのは、
もう5年も前になるだろうか。
秋ごろだった。
おばあちゃんと口げんかしている声が
開いた窓から聞こえてきて、
元気がよくて威勢もよかった。
古くなった自転車を直して長女にくれたり、
海へ出かけた帰りには釣ってきた魚を
おすそ分けしてくれたりした。
子どもたちが大きくなる分、
おじいちゃんは老いていった。
そうして胃を悪くし、
どんどん細くなり、
なかなか外に出られなくなって
ひっそりと死んだ。
身内だけの葬儀だったので、
私もおばあちゃんの口から聞くまでは
子どもたちは、
なおさら知ることはなかった。
子どもたちがそれを実感したのは、
その後のおばあちゃんの姿から
だったと思う。
服装が妙に派手になって、
紫色の口紅をつけて出歩くようになったり、
あいさつをしても返事がなかったり、
今まで会えばおやつをくれた陽気なはずの
おばあちゃんが、
少しずつ変わっていった。
それは、私にとっても悲しいことだった。
玄関の戸を開けて回ってきた回覧板は、
ドアの前に置いてあるだけになった。
子どもたちは不思議がり、
「おばあちゃん、なんかおかしいよ。
あいさつしても、返事をしないの。」
変わっていくおばあちゃんの姿を
受け入れられず、
怒ったりもしていた。
子どもなりに
傷ついていたと思う。
だけど、理由を聞かれて
「それが…
大好きな人が死ぬ
ってことじゃないのかなあ」
と答えた時、
今までのどの瞬間よりも
「死」を
心で理解したように思う。
身近な人が変わっていく姿から
「死」がもたらすものについて、
傷ついたり、怒ったり、
心を揺さぶられながら感じていただろう。
本からもパソコンからも教えてもらえない、
温度ある実感として
子どもたちの中に残っていくのは、
きっと辛くても悲しくても
心が音を立てた瞬間。
人は人から教わるんだ…
という当たり前のことを、
あの時ほど実感したことはなかった。
お母さんが全部教えなくてもいいんだ。
すべてを背負わなくてもいいんだ。
お母さんは
そこに心を開いていれば、
身近な人たちが体を張って
子どもたちに伝えてくれることが
この世の悲しみも、憂いも、
存在を通して教えてくれる。
それをゆるやかに受け止めながら、
生きていく。
お母さんに必要なのは、
たくさんの知識でも知恵でもなくて、
周囲の人たちと
生きていくという習慣、
子どもをひとりでも多くの手の中で
育てようという感性、
なのかもしれない。