3月7日(日)四旬節3主日(受難節第3主日)
「ペトロのメシア告白」 マタイによる福音書16章13~28節
今日は、「ペトロのメシア告白」と題してマタイ16章13~28節のみことばから学び、そこから信仰の糧を与えられたいと思います。
13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。28 はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
キリスト教では信仰の告白を大事にします。今日の聖書の箇所は、信仰生活における告白について理解を深める上で、適切な箇所だと言えるように思います。
イエス様は、天の国、神の国の福音について、また、イエス様ご自身について人々がどのように理解しているか弟子たちに問いました。弟子たちのある者は、「洗礼者ヨハネ」だと言う人たちがいる、別の者は「エリヤ」だという人もいる、「エレミヤ」だという人もいると、口々に答えています。
イスラエル・ユダヤの人々にとって、エリヤもエレミヤも、イスラエル・ユダの歴史のなかで偉大な預言者たちです。エリヤは、イスラエルの宗教であるヤハウエ信仰の本来性を取り戻すために奮闘した預言者です。エレミヤは、滅びへと突き進むユダ王国を嘆き批判し神様への立ち返りを叫んだ預言者の一人です。洗礼者ヨハネは、メシア到来のための道備えを説いた預言者です。いずれも、イスラエル・ユダの歴史にとって特筆すべき預言者たちでした。彼らは、イスラエル・ユダの歴史のなかで、人々の宗教・信仰の在り方生き方を問い、宗教・信仰のゆがみや衰退や滅びにブレーキをかけようとしたり、嘆きをもって正そうとしたり、あらたな歩みへと備えをさせようとした人たちでした。
ペテロは、イエス様を、そのようなエリヤやエレミヤや洗礼者ヨハネの再来としてではなく、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白した、と福音書は記しています。
このペトロの告白には、“イエス様!あなたからあらたな道が始まっていくのです、あなたこそ真の救済者、あなたこそ神の国の福音の真の具現者だと、わたしはそのように理解し受け止め、そのようなあなたについていきます、従っていきます”という、ペトロのイエス様理解と彼自身の意志表明を含むような大きな意味が含まれていると、とらえることができるでしょう。
イエス様は、そのような告白をしたペトロに対して、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」とおっしゃって、ペトロがメシア告白に至ったことを神様の恵みとして喜んでおられのがわかります。そして、ここに、後の教会は、イエス様をメシアと告白する群れ、共同体の始まりの原点を見ました。イエス様の弟子たちの群れ、イエス様への信仰を告白する共同体は、それゆえ、当然、イエス様の説いた神の国の福音を具現化していくべき群れであり、そのように証しする共同体ということになると思います。
けれども、イエス様が、「わたしはエルサレムに行き、ユダヤの指導的立場の人々から苦しみを受け、殺され、三日目によみがえることになる」とお話しになられると、ペトロは途端に、「主よ、とんでもないことです。」とイエス様をいさめようとしました。そのようなペトロをイエス様は、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」と叱責されています。イエス様はさらに、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」と諭されました。
わたしたちは、ペトロのイエス様への告白とそのペトロがイエス様に叱責されることの間にある大きなズレについて、考えさせられます。この大きなズレの間には、神の国を受け入れることのできないこの世の現実とわたしたち人間の姿があると思います。
この世は罪深く、多くの真実や誠実が犠牲にされ、弱くされている者はさらに弱くされていく世界です。欲望が渦巻き、権力欲が支配する世界です。イエス様が十字架にかけられてしまう世界であり、神の国の福音から遠い世界がこの世という現実です。それゆえ、ペトロは、イエス様に叱責されなければなりませんでした。
キリスト者の信仰というものを考えさせられます。
この世の只中で、神の国の福音に生きようとするわたしたちは、この世と神の国の大きな違いを分かっていなければならないでしょう。
キリスト教では、悔い改めと懺悔を説き、イエス・キリストに付く者としての告白を求めます。イエス様にあって神様に慰めを求め、神様に存在の拠り所を求めるようにと導かれると思います。イエス様にあって、赦しや励ましや癒しや生きる力を求めるようにと、みことばによって教えられます。
そして、そこに、信仰者としての責任も伴ってくるでしょう。
なぜ、ペトロは、神の子救い主イエス様に叱責されなければならなかったのか?
キリスト者であれば、この問いを、わたしたち一人一人が自分のこととして、自分に問うことが求められていくでしょう。
告白によって問われていくのが、本来のキリスト教ではないでしょうか。
弟子の筆頭格のペトロに生じた出来事を通して、福音書が教えようとしている神様の真理に出会えたらさいわいに思います。