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常行堂の守護神・摩多羅神 ②

2018.03.06 14:22

http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/%E4%BD%9B%E6%95%99%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6/%E4%BD%9B%E6%95%99%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%80%80%E7%AC%AC65%E5%8F%B7/%E4%BD%9B%E6%95%99%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%80%80%E7%AC%AC65%E5%8F%B7%20008%E8%93%AE%E6%B1%A0,%20%E5%88%A9%E9%9A%86%E3%80%8C%E5%B8%B8%E8%A1%8C%E5%A0%82%E3%81%AE%E5%AE%88%E8%AD%B7%E7%A5%9E%E3%83%BB%E6%91%A9%E5%A4%9A%E7%BE%85%E7%A5%9E%E3%80%8D.pdf  【常行堂の守護神・摩多羅神】 より

第 1期においてすでに,回廊にとりかこまれた 4出入口の方形の建物であり,イランの拝火神殿(チヤルタク)の構造に酷似している。しかしこれをもって,第 1期の建物が拝火神殿であってとは言えない。…中略… リトヴインスキーは,仏教寺院におけるこのタイプの建築構造の

採用はインドとイランの両要素の統合であると考えている o

この引用中,チャルはイラン語の「四」で,チヤルタクは方形拝殿である。

カレ=コファルニホン遺跡の仏堂については,それが三期にわたって拡張されたこと,第一期の方形遺構部分はチヤルタクと類似することが書かれている。それはゾロアスター教の施設が後に仏教の施設として転用されたことを意味している。ただし,決定的論拠がなく,報告書もインド・イランの両要素の融合という表現にとどめている。

しかし,今回,二00八年九月に実施した発掘調査では,方形仏堂から南へわずか90mの場所からチヤルタク遺構(図 3)が発見された。前年九月の試掘調査では KKF-X試掘坑においてすでに大きな壁遺構が見つかっていた。それを掘り広げる形で今年度の調査は実施された。壁遺構は広い範囲に連続しており,結果的には20mx 15mの範囲を発掘することとなった。その

中心部分にチヤルタクは位置している。約8.5m四方の施設は中央に約 1m四方の拝火壇を設け,周囲に回廊がある。壇の外側には炭化した木材が四ヶ所で確認されており,四本の柱が立てられた跡だと考えられる。炭化した柱は,この施設が火事などで1焼けたことを示している。さらにその外側には50cm程の段差のあるソファー状の遺構がめぐらされている。室内からは外桂40cm,内径25cmの乳鉢も見つかっている。乳鉢はハオマ(インドのソーマに相当)を搾り,ゾロアスター教儀礼用のジュースを作るためのものである。

『アヴ、ェスター』にはこのハオマを牛乳と混ぜて使うことが記されている。

伊藤義教「アウゃエスター』には,ヤスナ第三十四章 (3)にハオマに関連する記述がある。

そこで,御身に,アフラよ,そして天則に, ミヤズダをわれらは,うやうやしくささげましょう。

すべての庶類がヴオフ・マナフ(善思)を通して王国において成熟するために,けだし,正見の人には,マズダーよ,御身たちさまのあいだで,すべての方がたによって,恩賓が保証されているからです。とあり,ミヤズダの註に rミヤズダ (myazda-) ー「供物」であるが,ザオスラ (zaoBra-) が「潅葉」として流体の供物であるのにたいし,固体の供物をさす。ザオスラはヤスナ六八・ーによると,ハオマ,牛乳およびHaoanaepata草から成るとのことである」とある。また~アヴェスター』ホーム・ヤシュト(ヤスナ第九章)は一章全体がハオマの功徳を讃嘆するものである。

ハオマ搾りの時刻のこと,火を清め?ゲーサー(偶頒,究語のガーターに相当)を諦していたザラスシュトラのもとに,ハオマがやって来た。彼に<ザラスシュトラは>尋ねた「士よ,御身はだれですか一太陽のごとき<不死なる>みずからの生命をもたれ,わたしが有象の全世界で最も美しい方と見奉った方ですが。」

すると,わたし(ザラスシュトラ)に,彼はこう答えた一義者にしてドゥーラオシャ(不滅)なるハオマがです rわたしです,ザラスシュトラよ,義者にしてドゥーラオシャなるハオマ。わたしをもって来なさい,スピタマ(=ザラスシュトラ)よ。わたしを搾りなさい,飲むために。

のちにサオシュヤント(人々を利益するであろう者)たちもわたしを讃嘆するように,わたしを,讃嘆のために,讃嘆しなさい。」

ハオマは儀式で飲用され,おそらくは酪町作用を起こすものであり,宗教的トランス状態をもたらすものであったと考えられる。同じく,ホーム・ヤシュト(ヤスナ第九章),

これらのものが,そして御身が,わたしのために。先頭切って御身の酔力は進んでゆけよ,いとも軽やかに[御身の]酔力はゆく。勝利者はよきもの(ハオマ)を讃美するに,このガーサーの語をもってする。

そして~アヴェスター』ミフル・ヤシュトには彼,力強きヤザタ(神),強くして,被造物の中で最も強きミスラを,ザオスラをもって我は祭る。彼に,讃美と項礼をもって,我は近づく。

我は彼を祭る,聞きとどけらるべき祭りをもって,ザオスラをもって,広く牧場の主ミスラを。

ミスラ,広き牧場の主を我らは祭る,ハオマを混ぜたる牛乳をもって,パルスマン(祭具,木の枝を束ねたもの)をもって,舌における(言語の神秘力)をもって,真言をもって,語により,行為により,ザオスラにより,正しく諦せられし句により。

とあり, ミフル(ミスラ)神を供養するためにハオマが用いられたことが述べられている。ここにミフル神とハオマの密接なつながりを見ることができる。

このチヤルタク遺構に隣接する東側の部屋からは新旧の聖火を保つための炉や祭壇礎石一対も出土している。古い聖火炉に重なるような形で新たな聖火炉が作られており,この施設が継続的に使用されていたことを物語っている。聖火炉のそばからはミフル神塑像の断片とマジマル(小型拝火壇)も発見された。これらの新しい事実から,前年の試掘で得られた拝火壇に子をかざした小仏像はこのチヤルタクの付属工房から出土したと解釈することができる。この事実は小仏像の意義をさらに高めたと言える。それは,チヤルタクに参持した信者のために礼拝堂公認の像として分け与えられたと推測されるからである。それはゾロアスター教側からの仏教との交渉・習合を示すものではある。しかし同時に,この地域でおこなわれた仏教とゾロアスター教の重層信仰を端的に表わすものである。

チヤルタクはタジキスタン北西のペンジケントでもその存在が確認されており,その平面図との比較によっても KKF-Xがチヤルタクであることは明らかである。図 4はべンジケントのチヤルタクの平面図と復元図である。

チヤル~ク(方形礼持堂) 【図 4】

次に, KKF-XI (図 5)では拝火教神殿の祭壇遺構も出土している。それは,一対の礎石とその周辺に配された石畳状壁遺構である。礎石の上には柱とアーチ状の装飾から構成される拝火祭壇があったと考えられるが,残念ながらそれらの断片は出土していない。この祭壇の周囲にはアイヴァーン(バルコニー形式の施設)が回らされていたと考えられ,石畳状の石組みは常行堂の守E射'"・摩多維やl'そのアイヴァーンの礎石となるものである。聖火炉も二つ検出されている。

また,蓋付きの饗が出土し,その中からアナーヒタ一女神の土偶が発見されている。

アナーヒタ一女神は豊鏡や潅i段を司る神であり,ササーン朝ペルシアの祖アルダシールの家系はかつてアナーヒター神につかえる神宮であったと伝えられている。

アルドウィー=スール・ヤシュト第一節(1)にはアフラ・マズダはスビターマ・ザラスシュトラに仰せられた。スピターマ。ザラスシュトラよ,我がために汝は彼のアルドウィー・スーラー・アナーヒターを祭るべし。彼女は遍く流布し,治癒力あり,ダエーワに敵する者,アフラの教を奉じ,具象世界にて祭らるべきもの,具象世界にて讃えられるべきもの,潅慨を増大する神聖なもの,家畜を増大する神聖なもの,耕地を増大する神聖なもの,富を増大する神聖なもの,領土を増大する神聖なものである。

とある。アルドウィー・スーラー・アナーヒターは「湿潤にして強力且つ汚れ無き者」の意でアナーヒタ一女神の徳を示す呼称である。

KKF-XIの聖火炉周辺からは白色灰がまとまって出土している。儀礼においてどのような供物が聖火に献ぜられたかを知る貴重な試料となるであろう。一部を検査のために持ち帰っている。一対の礎石と石畳状遺構は他にも発掘例がある。

また,今年度調査のもうひとつの大きな成果として,小仏像複製の制作を挙げることができる。タジキスタンにおいてシリコーンゴムを使って型を取り,帰国後,それに樹脂を流し込んで複製を完成させたのである。昨年の調査では,実物が凹面の型であったため,詳細な観察は困難であった。今回は,複製を作成する過程でできた型,すなわち凸面の像の状態で観察することができた。その結果,小仏像は王座に坐った姿勢で描かれていることが判明した。身体に対して頭の比率が大きいのはそのためである。昨年作成した小仏像模写図では両脚の外側の広がりを衣のすそと見なしていた。これは仏像であるという先入観による誤認であった。以下に示すのは図 6左がシリコーン型に取った小仏像を画像的に処理した復元図であり,図 6右は昨年出土のテラコッタ, ミフル神像である。

小仏像の足先の上に表現された縦長の二つの凸面は膝から下の脚である。容貌は厳ししあごひげを伸ばしている。右手には先が三つに分かれた聖杖を持っていることなどもわかった。

テラコッタ ミフル像

【図 B】

その姿は右図のミフル神像とほぽ一致する。また,両者の比較から,小仏像の首周りに描かれた装飾が鎧を表現したものである可能性もでてきた。さらに,拝火壇に差し伸べた左手指が異様に細く長いのは,壇から立ち上る炎と一体のものとして描かれているように思われる。それは人間とは異なる神的姿を表現したものであろう。これらのことから,その小像がまさに仏陀の相をともなったミフル神,すなわちミフル仏陀と呼ぶに相応しいものであることが確かめられたのである。

毘沙門天とクベーラ(トハーラとインドの関連)

先に,宮崎市定「毘沙門天信仰の東漸に就て」を引用してゾロアスター教のミフル(ミスラ)神との密接な関わりを検討してきた。ところが,一般的には毘沙門天の起源はクベーラであるとされている。クベーラは夜叉族の頭領として知られているが,それでは同族と思しき邪鬼を踏みつけるのには如何なる理由があるのだろうか。法隆寺四天王の邪鬼,あるいはダンダン=ウイリクにある毘沙門天の邪鬼にはどのような意味があるのだろうか。そこには毘沙門天の起源に関わる複雑な経緯があるように思われる。アスラあるいはアフラ(アフラ=マズダの原宇刀形としてのアフラ)としてのミトラはインド・イラン文化共存の時代から信仰されていた。それぞれの地域に移住した後も最初期においては超人的存在として畏れられ,それほどの違いはなかったと考えられる。それはインドにおいては乳海撹枠の伝説に見ることができる。天部(デーヴァ族)のみでは乳海を撹枠し不死の薬・アムリタを得ることはできなかった。アスラ族の助力を得て始めて乳海撹排という仕事は達成されたというのである。しかも天部はアスラ族を欺くことで不死の薬・アムリタを独り占めするのである。この伝説から見ても,超人的存在という点において両者の地位はそれほど異なるものではなかったと考えられる。その後,インドとイランのそれぞれの文化圏においてミトラは独自の展開をとげていく。インドにおいては天部に比較して低く評価されるアスラ族の頭目となり,イランにおいては最高神であるアフラ=マズダと同等な力をもっ善神ミフル(ミスラ)となる。例えば,インド・イラン共通の起源を有するミトラ神とヴァルナ神はそれぞれ畳天と夜天を司る一対の神と考えられているが,ヒンドゥー教において,ヴァルナ神は臨悪な容貌で太鼓腹の姿で描かれることがある。それはアスラ族が邪神として既められ,夜叉としての姿を与えられた結果であると言える。同じアスラ族であるミトラ神もインドにおいては同じような境遇であったはずである。邪神アスラとして毘められたミトラであれば,夜叉の頭領であるクベーラと同一視されるのは当然のことと考えられる。

一方, トハーラを中心とするイラン系の地域においては,善神としてのミフル(ミスラ)が信仰されていた。これは,時代的には 7-8世紀という後の時代ではあるが,タジキスタンのゾロアスター教遺構からミフル(ミスラ)信仰を裏付ける遺物が出土していることからも明らかである。クシャーン族の故地は現在のウズベキスタン南部であったとされるから,まさに閉じミフル信仰を共有する地域であったと言えるであろう。イラン系のクシャーン族によるインド統治はそれぞれの文化圏で展開したミトラとミフル(ミスラ)を折衷し,新たなミトラ像を展開させていった。

その結果,クシャーン朝下において展開したミトラは様々な属性・別称によって表現されたのである。多聞天もそのような別称の一つだと考えられる。このような複雑さはインドにおいてヴァイシュラヴァナが鬼神的存在としてアタルヴァ・ヴェーダに登場することにもあらわれている。インドにおいて,ヴァイシュラヴァナはデーヴァ族に対抗するアスラ族として登場するのである。また,夜叉の頭領であるクベーラが普神へと飛曜的に転身したように見えるのも,両者が完全に連続していないこと,不連続面があることを示しているのである。

宋高僧伝の西域僧満月(智器輸)

先に述べたミフルとミトラの複雑な関係は訳経上の問題にも反映している。同じく,宮崎市定「見沙門天信仰の東漸に就て」に指摘されているように,『宋高僧伝』第三に「又,天王は党に拘均羅と云い,胡に毘沙門と云う是なり。」と解説されている。これは唐京師満月伝(智慧輪)と題して満月・智慧輪など西域出身の訳経僧の業績を記す中に,党語と胡語の音写にかかわる具体例として挙げられているものである。

この唐京師満月イ云(智慧輪)は,仏伝前の時代から中国の対外政策のーっとして翻訳が行なわれていたことから説き起こし,仏教の初伝,そして仏典漢訳が盛んに行なわれた時代にいたるまでの経緯を述べるもので,訳経史の展開を論じたものと言える。その中で訳経上の規範ともいうべき著述についても言及している。

地観道安(捕天釈道安),また五失三不易を論ず。彦掠,また其の八備を籍す。明則, また翻経の儀式を撰す。玄奨,また五種不翻を立つ。此れ皆左氏[左氏伝]の諸凡,同史家の変例に類す。道安の五失三不易とは五種の失と三種の不易の意で,党本を漢訳することは至難の事業であり,五種の原意を失うこと,また三種の翻訳容易ならざるものがあることを著したものである。道安の後に陪の彦涼が弁正論を著し八備十条を示して訳経の規範とし,唐の玄奨も五種の意訳できない型を示して音写に止めるべき例を示している。これらはすべて道安の五失三不易に倣って訳場での規範を示したものである。満月伝では,これらの規範を踏まえた上で「今新意を立て六例を成すなり」として訳経論を展開しているのである。その六例とは,①訳字訳音,②胡語党語,③重訳直訳,④重量言細語,⑤華言雅俗,⑥直語密語の六項目の分類をたて,これによって漢訳語についての体系的検討を試みようとするものである。例えば,②では第二に胡語党言とは,ーに五天竺は純に党語なり,二に雪山の北は是胡なり。山の南は婆羅門国と名づけ,胡と絶し書語同じからず。掲霜那国より,字源二十余言を本とし,転じて相生ず。其の流れ漫広なり。其の書竪に読む。震旦と同じなり。吐貨羅に至りて言音漸〈異なる。字二十五言を本となし其の書横に読む。葱嶺を度し迦畢試に南す。言字吐貨羅と同じ。巳上の雑類を胡と為すなり。若しくは印度の言字は党天所製にして,四十七言を本とす。演じて遂に広まる。青蔵と号すなり。十二章有りて,童蒙に教授す。大きく五明論を成す。大抵は胡と同じからず。

五印度は捕亘と境すること既に遥かにして,安んぞ少異なきことをえんや。又此の方を以て始め東は漢,伝訳陪朝に至る。皆西天を指して以て胡国と為す。且つ党天の苗荷を失して,遂に胡地の経書を言う。彦涼法師独り斯を明かし致す。 UJE. 録を徴し造りて責を痛む。と述べ,党語とそれ以外の胡語との比較対照を論じている。アルファベットの数や文字の縦書き,横書きにも触れ,それぞれの相違を明らかにしている。このような言語学的・文献学的理解の上にたって,③重訳直訳の解説もなされているのである。すなわち,第三に重訳と直訳とは,ーに直訳。五印の爽牒,直ちに来りて東夏に訳すは是なり。二に重訳。経伝の加し嶺北の楼蘭・罵者,天竺の言を解せずして,且つ訳して胡語と為す。党に云う郎波陀耶 (upadhaya) の如し。疎勅に鵠社と云う。子闘に和尚と云う。また,天王は党に拘均羅と云い,胡に毘沙門と云う是なり。三に亦直亦重。三蔵の如く,直ちに爽牒を費して来たる。路胡国を由するに,或いは胡語を帯びる。覚明(周賓三蔵仏陀耶合)の口諦せし曇無徳律中に和尚等の字有るが如きは是なり。四に二非句。即ち経三蔵を粛し,胡語を兼ねて此れに到ると雄も翻訳せざるは是なり。

ここでは,直訳,重訳,亦直亦重,非直非重と四句の形式で究語と胡語の関係を述べている。そして,その具体例としてクベーラと見沙門の対照が示されているのである。これは,弥勅の原語が党語の maitreyaであるのか胡語の mihruであるのかという問題とも同じである。胡語のミフルの h音が落ちて ruが roに強められたと考えれば,マーイトレーヤという音よりはるかに原語として相応しいことになる。満月伝に重訳として示されるように,サンスクリットの音写である拘均羅がイラン系言語の音写では見沙門に相当すると解された点にもその言葉のもつ複雑さがあらわれていると言えよう。

漢訳の毘沙門という言葉には両文化にまたがる多義性が潜んでいるのである。先に挙げたニヤ遺跡出土の神像が,甲宵姿ではなく神に相応しい衣装によって描かれていること,それは多聞天がミトラ神から展開したという経緯を示唆するものである。ただし,この多聞天と常行堂の関係が一旦中国を経由してニヤに伝わったのか,あるいはイラン的要素として西域で形成されて中国へ伝わったのかについてはまだ検討すべき余地があるように思われる。

まとめ

摩多羅神は往生浄土に関わる重要な働きを担いながらも,その正体はダキニであるとされてきた。その価値上のねじれは,インド文化とイラン文化との間にある複雑な関係から生じたものである。たとえ神の名称は同じであってもそれぞれの長い歴史の中で独自の特性がそれぞれに付加されていたのである。見沙門天とクベーラとの関係においても全く同様な事情があったと考えられる。イラン系のクシャーン族がインドを統治した際に,それぞれの文化圏で展開したミトラとミフル(ミスラ)が出合い,新たなミトラ像が展開していった。その結果,クシャーン朝下において展開したミトラは様々な属性・別称によって表現されたのである。しかし,旧来のインド的属性も陰の部分として残されていたと考えられる。例えば,見沙門天が邪鬼を踏みつけるのは,インド的属性を否定し,イラン的展開の中で成立してきた自らの出自を明らかにするためのものではないだろうか。また,インド神話においてバラモン教からヒンドゥー教に移行する段階で神々の序列が大きく変わるのも,クシャーン朝によってもたらされた変化が影響しているように思われる。それはインド文化とイラン文化の相克のあとを示すものである。

(1) r観貨遅弥陀山と百万塔J,仏教学研究,龍谷仏教学会, 64号, pp. 1-18,平成20年,あるいは「阿弥陀と弥陀J,中央仏教学院紀要, 18号, pp.35-51.平成19年など

(2) r中央アジア(タジキスタン)における仏教と異思想の交渉に関する調査・研究J (平成17-20年度基盤研究(B) (i毎外)課題番号17401023の科学研究費助成金によって実施。

(3) w渓嵐拾葉集』大正新情大蔵経・巻七十六・統諸宗部七,第三十九常行堂摩多羅神事,大正若手号二四一o(p.632c24-p.633a9),延慶 4(1308)年 2月が最古の奥書,

(4) w大日経疏(大見慮遮那成仏経疏)J大正新{市大蔵経・巻三十九・大正番号ー七九六 (p.687b17-c17)

(5) 明川忠夫『奇祭「太秦の牛祭J~ (r京都学の企て p.113挿絵,知恵の会代表糸井通治勉誠出版2006年5月

(6) 向上, p.121, 7-14

(7) 岩田茂樹『法隆寺金堂四天王像の諸問題~ p.57, 14-15 r国宝法隆寺金堂展』朝日 j新聞社(平成二O年fl]) 所収

(8) 水谷真成訳註『大唐西域記~ 1, p.ll0,12-Po 112,3,東洋文庫657,1999年,平九社

(9) 水谷真成訳註『大唐西域記~ 3, p.423,3-13,東洋文庫6;>3,1999年,平凡社

(10) 宮崎市定「見沙門天信仰の東漸に就て J p.64, 8-15,宮崎市定全集19東西交渉, 1992年 8月 6日刊

(11) 岡田明憲『ゾロアスター教神々への讃歌~ [註114 八方位に関連付ける見解がある。]平河出版社1982年,東京, p.215

(12) 向上, pp.231-232

(13) 向上, p.242

(14) 加藤九俳「中央アジア北部の仏教遺跡の研究J 64P3-14シルクロード学研究,1997年

(I5)伊藤義教『アヴェスター』世界古典文学全集 3,p.338b, 13-17及び p.339bの註 (5)

(16) 向上, p.384b, 3-18,サオシュヤントについては rゾロアスター教においては,ゾロアストラの千年紀ののち,三つの千年紀がつづき,各千年紀にサオシュヤントがひとりずっ出現するとされ,その最後のサオシュヤントの千年紀に復活・総審判・世の建直しがおこなわれるとする。それゆえ,最後のサオシュヤントが最も重要な役割を演じるわけで,この第三サオシュヤントには本名が厳存しているのに,それは用いず,ソーシュヤンス,ソーシャーンス(共にサオシュヤントの中世形)などと呼ぶようになった。本来はサオシュヤントとは r(庶類を)利益するであろう者」との意味で,語形からみても未来分詞である。つまり,この点において,終末論的意味をはずしては考えられないことばである。」解説 p.425a22-b4

(1司 岡田明憲『ソ。ロアスター教神々への讃歌~ p.184

(18) 向上, p.52

(19) イランにおいては,全く逆転した立場でダエーワ(インドのデーヴァに相当)の地位を説明することができる。「そもそも,ダエーワ daevaというのは党語 devaと閉じ語で, もともとは一群の神々を指称する。こういう意味でのダエーワは, rdaevaとmasyaJ=党語 rdevaとmartyaJすなわち「神と人」「天と人」という表現のなかに,ガーサーではなお認められる。しかし,のちになると,この表現においでさえも,そのダエーワは悪魔の意味で理解される

ようになった。それほど,イランではダエーワは悪魔として古くから理解されている。」伊藤義教『アヴェスター』解説 p.426b,筑摩書房キーワード 常行堂摩多羅神 ゾロアスター教