オオクニヌシ神話の背景
このブログを書くようになって色々なことにきづきました。
特にここのところずっとオオクニヌシさま関連のことを綴っていますが、まさか、この神さまにわたくしが思い入れるとは自分でも思いませんでした。
ですが、国づくり、そしてこれから出てくる国譲り、天孫降臨に関しても、オオクニヌシという存在の意味をしっかり理解しておかないと、これからの展開においてはとても解釈が難しくなってきてしまいます。だから、この部分が時間をかけています。
前回の「少名毘古那神 」の最後の部分から、この記事は継続していると思っても構いません。とっても重要な部分です。
スクナビコナさまが常世の国へ旅立って、オオクニヌシさまがひとり失意のどん底に落ち込んでおられると、そのときに海のむこうからひかり輝く神さまが現れ
「大和の国の三輪山に自分を祀るように」
という声がどこからよもかく聞こえてました。
そこでオオクニヌシさまは
「そなたはだれですか??」
「我は汝の幸みたま奇みたまなり」
これはオオクニヌシ自身の魂の声だったようです。
そして以下のように言われます。
恐れや不安を抱いても疑うことなく己が決めたことを貫きなさい
それがあなたの真の願い
なにを疑おうぞ 疑うことなかれ
疑うのなら己が決めた自分の意志が揺らぐことを疑うべし
これは道に迷ったときに誰もが抱くことでありすべてのひとに通じるものである
「自分の意志が揺らぐことを疑うべし」
その通りですね。座右の銘にしたいです。
ところで、出雲大社の祝詞の最後に
「奇しみたま 幸みたま 守りたまえ 幸わえたまえ」
(奇魂 幸魂 守給 幸給)
と唱えることはご存知ですよね。
これはどういう意味なのでしょうか?
この国は争うことによって作られた国ではない
女性を愛し、その愛を貫き さまざまな試練に打ち勝ち
その思いが認められたことで 国づくりがはじまっている。
ふたりの愛によって国がつくられた
わたくしたちが住むこの日本は争いことではなく
愛によって いつのまにか作られた愛の国なのである。
という意味なのです。
さて、ここからが大事な謎解きなのですが、
オオクニヌシさまが信仰された「大物主」というのはどなたなのでしょう。
なぜ、大和の神さまなのでしょうか?
ここは「大物主神」という名称に惑わされるとわからなくなります。
というか古事記では、
「御諸山の上に坐する神」
としか表記がなく、まだ名は明かされておりません。
実はこのずーっと後に、第10代の祟神天皇が大物主神を三輪山にお祀りされているので混同しているのです。
そして決定的なことは、神武天皇より先に、大国主神が大和に入っていることなどありえません。
それは、天津神の系統ではないからです。
中央政権ではないからなんです。
そしてここのもっとも大事はポイントは、スクナビコナさま同様、天津神が主導したということの裏付けなのですね。
オオクニヌシの決意、心の魂の声の発信は、天津神。
そう、中央政権が地方政権をここでもきちんとコントロールしていることを示しています。
もう、このあたりはクドイように、これでもかぁ!と、高天原の傀儡を示唆しています。
ここまで来ると凄いなぁ…と、感心、絶句、仰天、呆然...
というような具合で、オオクニヌシさまのお立場。ある意味、古事記では一番重要な位置にいるおかたに敬意をもってご紹介いたしました。
で、益々、古事記は面白くなっていきます。