常行堂の話
http://naranouchi.blog.jp/archives/78381959.html 【常行堂の話】より
今回は、(いつものように唐突ですが)常行堂についてまとめてみたいと思います。常行堂は多くの場合、ひっそりとした場所に法華堂と仲良くペアになって建てられています
(比叡山西塔では、廊下で結ばれた2つのお堂を「担い堂」という愛称で呼んでいます)
一般的な寺院の伽藍といえば、本尊を祀る金堂やお坊さんの勉強のための講堂、仏舎利を祀る五重塔などの建物を想像しますが、常行堂はそんなに有名でもなく、世間にあまりなじみがないのではないかと思います
この常行堂というお堂は天台寺院に建てられるもので、現存が確認されているもの、もしくは遺構となっているものの具体例は、比叡山西塔担い堂を筆頭に、日光輪王寺、毛越寺(現行の常行堂と遺構の常行堂法華堂)、鶴林寺、円教寺、立石寺等国内のいろいろなところにあります
また、建物や遺構が現存しなくても、文献上で常行堂の存在が確かめられているものには、比叡山東塔・横川、園城寺、多武峰妙楽寺、法住寺、法性寺、法成寺、広隆寺、勝尾寺などがあります
このように沢山の常行堂が存在したわけですが、その歴史は比叡山東塔・西塔・横川の三か所に建てられた常行堂から始まります
1 鑑真により 請来された『摩訶止観』
浄土信仰・法華信仰は、最澄が建てた比叡山延暦寺を中心に平安時代後期以降にさかんになりました
最澄より遥か前、6世紀の中国では天台の祖智顗(ちぎ)が、いわゆる法華三大部(『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』)を説きました
この法華三大部は早い時期に日本に請来されていました
まず『法華玄義』は、初写年代から天平勝宝2年(750)以前に伝わっていたことがわかるそうです
これは、天平勝宝4年(752)東大寺大仏開眼供養より前ということになるので、個人的には少しビックリです
次いで『法華文句』『摩訶止観』は、天平勝宝6年(754)に鑑真が持ってきたんだそうです(『唐大和上東征伝』)
これもビックリ!
つまり…法華三大部は
・750より前に『法華玄義』→(752 東大寺大仏開眼供養をはさんで)→・754に『法華文句』『摩訶止観』(by鑑真)という感じに日本に来たわけですね・・・(並べてどうする?)
2 最澄と法華三昧堂
最澄(一乗院)
最澄(766/767-822)は、15歳の時に国分寺の僧侶となり、19歳で仏道修行のため比叡山に草庵を結び、日夜『法華経』などの経典 を読誦しました
最澄が籠ったこの草庵は一乗止観院、のちの比叡山根本中堂です
最澄は『法華三大部』をここで学び、和気広世らの帰依と尽力により入唐還学生となりました
延暦23年(804)には中国にわたり、台州龍興寺の道邃から『摩訶止観』の必要を授けられ、また仏隴寺の行満からは『法華疏』『涅槃疏』を受けました
さらに、翌年延暦24年(805)には越府龍興寺の順暁から灌頂を受け、図像等を授けられて帰国しました
最澄の在唐期間はわずか8か月余りと言うことになります
たった8か月の「短期留学」で日本の仏教に多大な影響を残す功績をあげたのだから、やはり最澄はすごいです!
(ふつう初めて海外に行ったら、マゴマゴしているうちに8か月くらいすぐに過ぎてしまうものね…)
最澄が帰朝した翌年の延暦25年(806)には、天台宗開建の勅許が下り、年分度者二人が割り当てられました
年分度者のうち一人は『摩訶止観 』を中心にした止観業(天台法門)、もう一人は遮那業(大日経を中心に密教)を修することが定められました
止観業の一人は毎年毎日法華、金光明、仁王等の大乗護国経を講読し、遮那業の一人は大日経、孔雀、不空羂索等の護国真言を念じることが日課として課されました
またこの2人は、12年の間籠山して就学しますが(ひぇ〜😱ざん)、12年の内訳は前期6年が聞慧を主とし思修を従に行う期間、後期6年が思修を主とし聞慧を従とし、止観業では四種三昧を修習する期間に分けられていました
帰朝後4年経った大同5年(810)正月には年分者8人が度され、四種三昧(ししゅざんまい)を修する人数が整ったので、弘仁3年(812)に最澄は法華三昧のための法華(三昧)堂を造立しました
この時の法華堂について詳しいことはよくわからないようですが、場所はおそらく講堂の北の根本法華院地であろうと考えられているようです(私はその場所自体どこなのかよくわかりませんが)
3 四種三昧について
ところで、上に出てきた四種三昧とはいったい何でしょうか
四種三昧とは、はじめのほうに書いた智顗撰述の法華三大部の一つ『摩訶止観』に説かれる天台僧侶の修行の実践行法です
それは次の四つの行法、➊常坐三昧、❷常行三昧、❸半行半坐三昧、❹非行非坐三昧から成り立ち、それぞれの内容は以下のようになります
➊常坐三昧:「文殊背説般若経」「文殊問般若経」を典拠とし、90日間静室独坐、一仏名号を称え加護を求める行法
❷常行三昧(仏立三昧):「般舟三昧経」の所説によるもので、浄土信仰に直接関係します
その内容は、つねに道場の周辺を饒旋し(ぐるぐる回る)、休むことなくひたすら行を実践、座らない
口ではつねに阿弥陀仏を称え、心に阿弥陀仏を念ずる
休息なし
❸半行半坐三昧:方等三昧または法華三昧ともいい、方等三昧は「方等三昧行法」により、法華三昧は「法華経」によるものをいう
37日間方等経または法華経によって行と坐を交互に行う
口に呪をとなえたり大乗経典を唱える
❹非行非坐三昧:請観音経により、行坐を定めず随自意に行う行法
最澄ははじめ❶から
❹の各三昧院の建立を意図しましたが、結果的には❸法華三昧のための法華堂だけを造立、他の3つのお堂を造ることはできませんでした
その理由は最澄が大乗戒壇の設立の方に重きを置いていたからです(有名な最澄の『顕戒論』三巻はこの大乗戒壇の設立のために著わされたものだそうです)
最澄は菩薩大戒をひろめるための大乗戒壇の設立を請いましたが、東大寺景深らの阻止にあって勅許を得ることができませんでした
そのため天台宗にて度を受けた者もある程度の人数がいましたが離散してしまいました
このような状態では法華堂以外の四種三昧を行うお堂を建てることももちろん出来ず、大乗戒壇設立の勅許ももらえず、弘仁13年6月4日に五十六歳で亡くなってしまいました
(皮肉なことに最澄が亡くなってからわずか七日後には大乗戒壇の設立の勅許がおりたそうです)
4 円仁、法照流の五会念仏と出会う
最澄没後は、弟子円仁(慈覚大師)の登場です
慈覚大師円仁は大同三年(808)に15歳で叡山に入り最澄に止観を学びました
円仁は弘仁5年に21歳で官試に合格し沙弥戒や具足戒を受け、10年の間籠山しました
ところが40歳の時に病気になってしまったので、叡山北洞(のちの首楞厳院、横川)に草庵を結び死を待ちました🤒
…すると、三年後に病が治りました🙄
その後承和五年(838)には遣唐使とともに入唐し、開元寺にて宗叡に梵書、全雅に灌頂を受け、たくさんの経論や曼荼羅、仏舎利などを携えて、唐の開成4年(839)に帰朝しようとしました
しかしこの時は帰朝に失敗してしまい🌊、中国の五台山に登りました
この時、五台山にて円仁は志遠から『摩訶止観』を受けました
また開成5年には五台山竹林寺の般舟道場をを訪れ、法照和尚が修する法照流の念仏三昧と出会いました(円仁は、中国で密教も学んでおり、真言に負けないほど密教も重視していました…がそれはさておき)
円仁は法照流の念仏を日本に持ち帰っています
法照は白蓮社の慧遠を慕い廬山を訪ね、五会念仏の法を会得しました
その後法照は五台山に入り、インド王舎城の竹林精舎に擬して竹林寺を創建し念仏のため般舟道場を構えました
円仁はこの五台山竹林寺の般舟道場を訪れ、わずか二週間で法照流の五会念仏を会得したのです
円仁は承和14年に帰朝し、仁寿元年(851)には弟子たちに法照流の念仏を伝えています
この法照流の五会念仏は、慧遠(えおん、324-416)の流れを汲み、 善導の思想などを盛り込んだ浄土教的な念仏行法でした
その特徴は念仏の中心に『阿弥陀経』をすえ、音楽的な曲調による引声念仏が基本でした
これは最澄が持ち帰った本来の『摩訶止観』所説の般舟三昧経による常行三昧(上記3❷)とは異なるものです(最澄の本来の常行三昧は阿弥陀を正念することに終始する天台の行法)
この経緯を見ると、天台宗から浄土信仰が生まれた ことのいきさつの一端がわかるようです
(歴史の教科書では、密教は天台宗と真言宗と 簡単に分けているけど←「てんさい、しんくう」って覚えるんだよね…しかし、そんなに綺麗さっぱり単純な話でもないってことだね…だって、天台宗って浄土教の始まりなんだから!)
ここまでをまとめると
智顗によって説かれた摩訶止観は奈良時代に鑑真により日本に請来されていた
→最澄は比叡山で摩訶止観を研学したのち、入唐した
→最澄は、唐で摩訶止観の必要を授けられ、帰朝してからは天台宗を開き摩訶止観の四種三昧のうち法華三昧を行うための法華堂を開いた
→しかし、引き続き他の堂の建築をするよりも大乗戒壇の設立を優先したため、法華堂以外建てることができなかった
→最澄の弟子円仁は、最澄に学んだが病気になり横川で死にそうになった
→しかし病気が治ったので入唐 し、五台山竹林寺で法照流五会念仏を会得した
→法照流の念仏は善導の思想が入る浄土教的なもので、引声念仏である♩
→円仁は法照流の五会念仏を日本に持ち帰った
もし最澄が常行堂の建設までなしえていたとしたら、摩訶止観に基づく(3❷の)常行堂が完成したと思われますが、実際は円仁が音律を特徴とする五会念仏を持ってきたために、歌声(?)の響く常行堂となったともいえるのでしょうね(むしろ円仁グッジョブだよね✨)
この五会念仏が浄土教の流れを引くことは述べましたが、だからと言ってすぐさま浄土信仰と直接結びつくかというと、そうでもないようです(ややこしくなってきた…)
5 常行堂の成立
仁寿元年(851)に円仁は法照流の念仏を伝えましたが、ただちに常行堂が建てられたかどうかについては史料に乏しく詳細がわからないようです
初めて常行三昧堂が建てられた場所は虚空蔵尾(一乗止観院のあったところ)ですが(年不詳)、
この建物は、円仁の没後元慶七年(883)に円仁の遺命により弟子の相応が講堂の北に移建しました
この移建については、いろいろ疑問があります
・そもそも円仁が常行堂を仁寿元年ごろに建てたのかどうか
・なぜ虚空蔵尾の中心地ではダメで講堂北に移されたのか 、また、
・先に最澄が建てた法華堂との位置関係はどうなっているのかなど謎だと思いませんか?
このように様々な謎があるように思えますが、いずれにしても、(一番はじめに書いたように)比叡山以降の多くの天台寺院が「常行堂と法華堂」をセットにして建てたのは、比叡山から引き継がれた伽藍配置の伝統であるといえるようです
さてこの常行堂ですが、比叡山の中で東塔、西塔、横川の三塔全てにおいて建設されました
いずれの建物も「方五間の宝形造り」ですが、中に祀られた阿弥陀と脇侍の4尊の解釈をめぐりこいろいろめんどくさくかち面白い話が展開しますので、どうぞお付き合いください
まず、三塔に置かれた仏像構成について、2つの史料の記述をもとにまとめてみます
❶東塔常行三昧堂
これは上に記述した、元慶元年(883)相応により講堂北に移建された常行堂です
建物は現存しませんが、 『覚禅鈔』によれば内部には金剛界宝冠阿弥陀如来をまつり、阿弥陀の周りには四親近菩薩(金剛法菩薩、金剛利菩薩、金剛因菩薩、金剛語菩薩)を祀るお堂であったそうです(円仁請来金剛界八十一尊曼荼羅の西方諸尊を典拠とする密教尊)
他方、 『山門堂舎記』によれば、阿弥陀を囲んでいたのは、四摂菩薩(観音菩薩・勢至菩薩・地蔵菩薩・龍樹菩薩)であると記されていますが、一般的にはこの『山門堂舎記』の記述は誤り であると考えられています
金剛界八十一尊曼荼羅について → http://naranouchi.blog.jp/archives/49138489.html
❷西塔常行堂
寛平5年(893)、増命により建てられたもので、内部の阿弥陀如来はやはり金剛界宝冠阿弥陀如来、周囲を取り囲んでいたのは四親近で、❶と同じ構成です(『覚禅鈔』)
なお、現在西塔には「担い堂」として、常行堂と法華堂が仲良く並んで立っていますが、担い堂は当時この場所にあったかどうかも不明だそうで、現行の担い堂は信長の焼き討ちの後、文禄四年(1595)再建のものだそうです
❸横川常行堂
横川は円仁が天長10年(833)ごろ病気になって蟄居し草庵を結んだ場所であることは前の方に書きましたが、嘉祥元年(848)に首楞厳院、天暦8年(954)には楞厳三昧院(講堂・法華堂・常行堂)が九条師輔により建てられ、常行三昧・法華三昧は康保5年(968)に慈覚大師良源により始められています
『覚禅鈔』には、やはり❶❷と同様に、宝冠阿弥陀と四親近菩薩があったと記されていますが、他方『山門堂舎記』には、阿弥陀と四摂菩薩(観音菩薩・勢至菩薩・地蔵菩薩・龍樹菩薩)が安置されたとあり(なぜか❸に限っては)『山門堂舎記』の記述を信用して、阿弥陀と四摂菩薩の組み合わせが横川で登場したと考えるようです
◉脇侍の変化と解釈
東塔・西塔 四親近菩薩(金剛界の法利因語)
(『覚禅鈔』による) → 横川 四摂菩薩(観音勢至地蔵龍樹)
(『山門堂舎記』による)
この組み合わせの変化の意味するところは、横川常行堂において密教的五尊像から浄土教的五尊像への移行があったということです
たしかに時代的には、985年に恵心僧都源信が『往生要集』を著すなど世の中が浄土教信仰へ大きく傾く転換期にあり、比叡山三塔において同じ常行堂でも仏像構成や思想的背景が時代の流れとともに尊像構成が変化したと考えられるかもしれません
6 阿弥陀五尊をめぐる解釈
比叡山東塔・西塔と横川に常行堂が建てられた時代は、東塔・西塔の二つが9世紀末であるのに対し、横川は10世紀後半と時間に開きがあります
それぞれの時代背景を考慮すれば、東塔・西塔が密教的五尊構成であるのに対して、横川の時代には(とくに横川には首楞厳院があったり源信や慶滋保胤がいたりした…)浄土教的五尊構成になったという解釈はしっくりくるのです
しかし、そうすると何故東塔と西塔の二つについては『覚禅鈔』に書かれたことを信用して『山門堂舎記』の内容だけを間違いとしているのに対し、横川に関する記述では正反対に『覚禅鈔』はダメで『山門堂舎記』が信用できてとなるのでしょうか?
史料の信用状況(◯は信用、×は信用しない)
東塔 『覚禅鈔』 ◯、『山門堂舎記』×
西塔 『覚禅鈔』◯、『山門堂舎記』×
横川 『覚禅鈔』×、『山門堂舎記』◯
(書かれている内容はすべて同じで、阿弥陀五尊の脇侍4体は「四親近」とある)
これではまるで解釈が先にありきの御都合主義なのでは?と思うのは私だけでしょうか?
だって、上二つでは信用したという史料について(そう言った舌もまだ乾かないうちに)最後の一つについては「信用できん」っていう、手のひら返しの解釈ってどういうことよ?って思いませんか?
で、実は、この解釈については違う意見もあるのです
それは、この件につき『覚禅鈔』の記述を全部信用し、三塔とも「中尊は宝冠阿弥陀如来、脇侍四菩薩は法利因語の四親近菩薩である」と統一して解釈する意見です…こっちの方がよっぽど合理的で素直な読み方に思われます
でも、そのように解釈すると、今度は横川の時代には浄土教があんなにさかんなのに横川の仏像まで「密教尊の四親近菩薩」と画一的に解釈するのはどういうこと?天台浄土教はどうなるの?という反論が出そうです
🙄どうしましょう?
これについても解決策が準備されています
それは「あまり厳格に文献を解釈しなくてもいい」という方法です
どういうことかというと、一般的に横川の時代すなわち平安時代後期には、すでに「四菩薩の名称」が混乱して使われていることが、他の資料からわかるため、本件についてもコンランして書いちゃった…というように解釈するのだという方法です
(このようなコンランは鎌倉時代になってもあったそう)
だから『覚禅鈔』のワンパターンな記述(阿弥陀+法利因語)も、コンランして書いてあるだけだからオッケー👌ということになるようです
そしてこのような考え方をとる本を読み進めていくと、
従来説が横川常行堂をもって密教的から浄土教的な五尊像に変容したという説の具体例として取り上げられる保安寺阿弥陀五尊像については、このように言っています(保安寺と奈良博で保管ですが、最近奈良博で五体揃ったのを見ましたね)
↓保安寺阿弥陀五尊像
FullSizeRender
↑中尊は定印、螺髪、偏袒右肩
従来説では、周りに観音勢至、地蔵龍樹が取り囲んでいるのは、横川の常行堂形式によるというかこの保安寺の五尊像について、上にあげた説をとる論者は、この五尊の作風が阿弥陀・勢至菩薩とその他三体には違いが認められるとから、当初からの組み合わせとは言いがたく従来説のいう阿弥陀+観音勢至地蔵龍樹とは考えられないということになるようです
また、『覚禅鈔』の記述については、信頼性が高いので、(横川とか保安寺とか言うまでもなく)そもそも横川流の「阿弥陀+観音勢至地蔵龍樹」なんて形式は存在しなかったということになります
ん?🧐ちょ待てよ…🤔🤔
平安時代後期には、脇侍の呼び方にコンランがあるのはわかりました
だから、たとえ覚禅鈔で「四親近」と書いてあっても、それはコンランした書き方だったからホントは四親近ではなく「四摂菩薩」すなわち観音勢至地蔵龍樹である!という解釈が成り立つ…ということではなかったの?
覚禅鈔が信用できるということだけ取り上げて、呼び方にコンランがあったことを途中で却下してしまったら、「横川も密教尊」ってことになっちゃうんじゃないのかしら?
😳💦 皆さん、ついてきてますか?
この問題は、さらに
「阿弥陀如来の五尊形式から三尊へ、そして独尊へ…という流れになるという問題」
と、それに絡めて
「阿弥陀の印相の変遷の問題(転法輪印から定印へという問題)」にも発展します
(あ、阿弥陀の印相について、まだ、「江戸より前の阿弥陀如来の印相も九品に分かれる」とか言ってる人がいるけど、それ間違いですからね!)
阿弥陀如来についてはごちゃごちゃした問題がいろいろあり、どうもスッキリしないので、また「いつか」考えてみたいと思います(「いつか」は、やって来るのだろうか?)
参考文献、図書
濱島正次『図説日本の仏教3 浄土教』新潮社
濱田隆 『極楽への憧憬 浄土教絵画の展開』 美術選書