築地近代医学史 ②楠本イネ
「シーボルト娘 楠本イネ 産院を開く」
九条さん如何ですか?御自身もあそか病院を開いていらして、江戸の頃の先人の働きを、御覧頂きどう思われますか?九条武子は切れ長の大きな瞳で遠くをみやり「ハイ、良沢殿始め「解体新書」を世にだし、我が国の近代医学の先がけとして、活躍された方々の御苦労は大変だったと思われます。また、築地に居留地が開かれた事によって、幕末から明治にかけて、イネさんや多くの日本人の方々が、また来日した宣教師の皆様も、日本医療の発展に御活躍なされました。誠に頭が下がる思いです。
その「築地居留地」とは、開港、開市場に設置された、外国人の居住や貿易の特別区域を指す。中国では租外地と呼ぶ。嘉永6年(1853)ペリー来航、その威嚇外交の結果、時の大老井伊直弼は、天皇の勅許を得ぬまま、安政5年(1858)米、英、仏、蘭、露の五ヶ国と「修好通商条約」を締結、神奈川(横浜)、兵庫(神戸)、長﨑、新潟、函館が自由貿易港となった。同時に江戸や大坂にも求められた幕府は、返事を延ばしている間に崩壊、政権を引き継いだ明治政府は、これまでの尊王攘夷の政策から、真逆の対応を諸外国から迫られた。結果、明治元年11月19日、即ち1869年1月1日に、現在の明石町一帯を居留地として開放した。ここ築地は、既に近くの横浜に港が開かれていた事から、貿易都市としての性格よりも、大使館公使館の設置、宣教師たちのアジアにおける最後の聖域、日本の布教活動や英語教育、医療活動の場としての性格が強い街へと発展していった。この日本の主権の及ばない居留地は、明治32年、治外法権撤廃まで続く。
築地本願寺に眠る土生玄碩は、西洋眼科の始祖として知られ、玄白と同じ世代に活躍した。宝暦12年(1762)の生れ、幕府の奥医師まで勤めたが、文政9年(1826)3/5~4/11まで長﨑屋に滞在したシーボルトから、白内障の手術などに必要な瞳孔開瞳薬の処方を教えて貰う為、国禁を犯す事になる。これが後のシーボルト事件で発覚、罷免されるが後名誉回復、巷で眼科医院を開き老後を終えている。その、フィリップ、フランツ、シーボルトの娘が楠本イネである。ドイツ人シーボルトと長﨑円山町引田屋の遊女滝(源氏名其扇)の間に、文化10年(1813)長﨑で生れた。イネは3歳で父と別れ、当時としては混血というハンデを乗り越え、父の弟子たちから医学の基礎や蘭学を学んだ。19歳産科を学び、23歳で長﨑で産科医を開業、我国産科女性第1号となった。嘉永6年(1853)27歳の時に、大村益次郎(村田蔵六)に出会い、彼から宇和島で阿蘭陀語の英才教育を受け、益次郎はその後江戸へ出て、私塾鳩居堂を開いている。安政5年(1859)になると、父シーボルトが米国宣教師ヘボンと再来日、母、滝と43年ぶりの再会を果たした。文久元年(1861)益次郎の縁から、宇和島藩主伊達宗城の推挙で、江戸幕府の外交顧問に就任、江戸でヨーロッパの学問などを講義、華々しい活躍を見せた。明治2年、母、滝が他界、その年、異母兄弟たちから支援を受け、東京府京橋區築地1丁目で日本初の産院を開き、宮中での出産にも携わった。しかし明治10年、新たに施行された医療術に関する開業試験制度が、女性に門戸を開かれていなかった為、産院継続を断念、長﨑へ帰った。イネは明治政府の閉鎖性、医療制度の後進性について、悔しい思いをし、激しい憤慨を感じた。その後は娘高子と一緒に住み、明治36年8月26日、心臓麻痺の為、77歳で波乱の人生に幕をおろした。明石町にはふた昔前まで、都立築地産院があった。
楠本イネと同じ時代に、活躍した女性に千葉佐那がいる。北辰一刀流千葉周作の弟定吉の二女として誕生、江戸京橋桶町の父の道場で、土佐から剣術の修業に来ていた、坂本龍馬と知り合う。安政5年(1685)龍馬20歳、佐那18歳の頃であった。慶応2年(1866)1月、薩長同盟締結、翌3年11月、京都河原町近江屋で龍馬、中岡慎太郎と暗殺される。33歳、4年4月の江戸無血開城まで、あとわずかの事件であった。佐那は明治になってから、学習院の舎監を勤めたり、千住宿で灸院を開き板垣退助なども治療しながら、生涯独身を通した。甲府の清運寺の墓碑には、龍馬室と刻まれている。(シーボルトについては、「江戸にきた外国人たち」佐那については「龍馬を愛した3人の女たち」と題して、後日掲載予定)
宣教師Drヘボンの報告によれば、日本人は疱瘡の後遺症や、目を洗わない習慣が多い事から、目の不自由な人間が多いという。また、明治政府は明治5年、こうした人々を障害者とみなし学制から外した。こうした状況に対し、ヘンリーフォルズやキリスト教徒の岸田吟香、津田仙などが中心となって、盲人教育の必要性について話し合われ、築地楽善会を設立、明治12年には海軍用地4800坪を借り受け、コンドル設計による、93坪の訓盲院が開校された。また、石川倉次によってイロハ48文字に合せた点字も考案され、更に校内の生徒たちにより、点字を打ちだす点字盤の制作もなされた。こうして明治28年頃には、点字を使った教育が軌道に乗り、現在の筑波大学付属支援学校になる、発展の礎となっていった。この運動を進めた英国人ヘンリー、ホールズは、明治7~19年にかけ、居留地18番号地に居住、築地病院を開設している。この病院は後で述べる、聖路加国際病院とは全く別の病院である。ある日ホールズは、弥生式土器についた古代人の指紋(指先模様)に興味を抱き、日本人が拇印をする習慣から、科学的指紋の研究を開始、明治13年、イギリスの科学雑誌ネーチャーに「手の皮膚条溝について」の論文を発表した。明治44年、これら一連の研究が、これからの科学捜査に、大きな役割を果たすと考えた、日本の警察機構は、捜査に関する指紋法を公式に採用した。現在ではDNA鑑定が大きな役割を果たしている。