天台宗
http://www.tendai.or.jp/rekishi/ 【天台宗の歴史】 より
日本の天台宗は、今から1200年前の延暦25年(806)、伝教大師最澄によって開かれた宗派です。
最澄は神護景雲元年(767、異説あり)、近江国滋賀郡、琵琶湖西岸の三津(今日の滋賀県坂本)で、三津首百枝(みつのおびとももえ)の長男として誕生。幼名を広野(ひろの)と呼ばれました。
早くからその才能を開花させ、12歳で近江の国分寺行表(ぎょうひょう)の弟子となり、宝亀11年(780)に得度、延暦4年(785)に奈良の東大寺戒壇院で具足戒(250戒)を受け、国に認められた正式な僧侶となられたのです。
受戒後3ヵ月ほどで奈良を離れ、比叡山に分け入り修行の生活に入られました。そして若き僧最澄は【願文】を作り、一乗の教えを体解(たいげ)するまで山を下りないと、み仏に誓いました。その後、延暦7年(788)に一乗止観院(後の根本中堂)を創建、本尊として薬師如来を刻まれました。
伝教大師
【願文】の中で、
「私たちの住むこの迷いの世界は、ただ苦しみばかりで少しも心安らかなことなどない。(中略)人間として生れることは難しく、また生れたとしてもその身体ははかなく移ろいやすい。」
と、世の中の無常と人間のはかなさを自覚されました。
そして、「因なくして果を得、この処(ことわ)りあることなく、善なくして苦を免がる、この処(ことわ)りあることなし。」と因果の厳しさを述べ、だからこそ生きているときに善いことをする努力を惜しんではならないと考え、『願文』の中で五つの【心願】をたてられたのです。
天台大師智顗の教えを極めたいと願い、桓武天皇の援助を受けて還学生(げんがくしょう)として唐に渡りました。中国天台山に赴き、修禅寺の道邃(どうずい)・仏隴寺の行満に天台教学を学び、典籍の書写をします。その後禅林寺の翛然(しゅくねん)より禅の教えを受けられ、帰国前には越州龍興寺で順暁阿闍梨から密教の伝法を受けられます。こうして、円密一致といわれる日本天台宗の基礎をつくられたのです。
天台法華宗年分縁起 伝教大師筆
延暦24年(805)に帰朝してすぐに、高雄山寺で奈良の学僧達に日本で初めて密教の潅頂を授けるなどして、入唐求法の成果を明らかにされました。
当時、「仏に成れるもの、仏に成れないものを区別する」という説もありましたが、最澄は、「すべての人が仏に成れる」と説く『法華経』に基づいて、日本全土を大乗仏教の国にしていかねばならないとの願いが募り、『法華経』の一乗の精神による人材の養成を目指しました。
こうした最澄の努力と熱意が通じ、延暦25年(806)1月26日、年分度者(国家公認の僧侶)2名認可の官符が発せられました。このことから、1月26日を天台宗開宗の日としています。
戒壇院
2名の年分度者とは、天台教学を学ぶ者(止観業)1名と、密教を学ぶ者(遮那業)1名でした。
その後最澄は、真俗一貫の大乗菩薩戒こそが真に国を護り人々を幸せにすると考え、弘仁9年(818)から翌年にかけて【山家学生式】(さんげがくしょうしき)と呼ばれる一連の上表を行います。さらに弘仁11年(820)、『顕戒論』を著わして比叡山に大乗戒独立の允許を求めたのでした。
そして弘仁13年(822)6月4日に最澄は遷化され、その7日後、比叡山独自に大乗菩薩戒を授けることの勅許が下されたのです。
最澄亡き後、一乗止観院は「延暦寺」の寺額を勅賜され、比叡山延暦寺と呼ばれるようになりました。翌年、弟子の義真が伝法師(後世の天台座主のこと)として後を継ぎます。
第3世座主円仁によって、延暦寺では横川(よかわ)が開かれ、東塔地区も整備されていきます。また、9年間に亘る入唐求法の成果をもとに、天台教学の中に浄土教を取り入れ、密教を拡充していくなど、その功績は多大なものでした。
円仁の没後ほどなく、貞観8年(866)、最澄には「伝教大師」、円仁には「慈覚大師」という諡号(しごう)を清和天皇より賜りました。これは日本における初めての大師号であり、最澄・円仁による天台宗の確立が、いかに日本仏教の発展に寄与したかを示すものであります。
また、第5世座主の円珍(智証大師)や五大院安然らによって密教も体系的に整備され、後に東密(真言宗の密教)に対して台密(天台宗の密教)と称されるようになりました。
その後も多くの人材が比叡山で研鑽に励み、学問も修行も充実していきます。平安時代中期には、第18世座主の良源(慈恵大師)によって諸堂の再建と整備がなされ、論義が盛んに行われて教学の振興がはかられました。さらに弟子の源信(恵心僧都)によって『往生要集』が著わされ、これが後の日本の浄土教発展の基礎となりました。
また、『法華経』や浄土教信仰などは知識人の間に浸透し、『源氏物語』や『平家物語』に代表される古典文学の底流をなしています。円仁が中国からもたらし大成した声明は、日本伝統音楽の源流となり、また能・茶道にも天台の仏教思想が深く入り込んでいるといわれています。
平安末期から鎌倉時代はじめにかけては、法然・栄西・親鸞・道元・日蓮といった各宗派の開祖たちが比叡山で学びました。こうして後に比叡山は日本仏教の母山と呼ばれるようになったのです。
時代は下り、盛栄を誇った比叡山延暦寺も織田信長の焼き討ちにあい、一時その宗勢に陰りが見えましたが、江戸時代になり徳川家康の懐刀と云われた天海(慈眼大師)によってその勢力を盛り返し、特に寛永寺は西の比叡山に対して東叡山と呼ばれ、その影響力を日本全土に及ぼしたのです。
https://en-park.net/words/3091 【天台宗の意味(天台宗とは)】
天台宗とは、法華経を経典とする仏教です。平安時代に最澄が開いた宗派で、比叡山延暦寺が本山になります。
法華経を中心とする四宗(法華円教・戒・禅・密教)からなる大乗仏教全般を学ぶ宗派とも言われます。これは四宗相承とよばれています。
天台宗の教えの一部をとりあげて、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、時宗、日蓮宗が生まれたともいわれます。
天台宗は法華経を中心にして大乗仏教全般を布教し、鎌倉仏教の多くの宗派を生みました。
後に山門派、寺門派、真盛派などと枝分かれして裾野を広げていきました。
天台宗の実際
天台宗は、中国の浙江省天台県にある天台山がそのルーツになります。最澄は、天台山で修行し、日本に天台宗を伝えました。
天台宗の仏壇の本尊は、釈迦如来ですが、阿弥陀如来、薬師如来、観世音菩薩、不動明王、毘沙門天など、菩提寺の本尊と同じものをまつります。
葬儀では、通夜や入棺の時に授戒式を行ったり、葬儀のあとに引導を行ったりする特徴があります。
http://www.tendai.or.jp/rekishi/kaiso.php 【各宗の開祖達~比叡山で学んだ開祖達~】 より
法然上人
(1133~1212) 浄土宗の開祖
美作の人。13歳で比叡山に上り、経典・論書を広く学ぶ。承安5年(1175)、善導『観無量寿経疏』の「念仏を称えると阿弥陀仏の本願力に乗じて必ず極楽往生できる」という説により回心し、比叡山を下りて東山吉水に行き、本願念仏の教えを広めた。
栄西禅師
(1141~1215) 臨済宗の開祖
備中の人。14歳で比叡山に入り、その後2度にわたって中国に留学。臨済宗黄龍派の禅と戒を学ぶ。帰国後博多の聖福寺を拠点に活動を始め、鎌倉の北条政子など、幕府の援助で京都と鎌倉に活動の拠点を設け、禅の教えが認知されるようになった。
親鸞聖人
(1173~1262) 見真大師 浄土真宗の開祖
鎌倉初期、京都の人。9歳で比叡山の慈円の門下に入り、29歳で法然の弟子となり、他力易行門を会得した。35歳で配流の身となってからは越後、関東と教化の旅を続け、在家往生の実を示すため自ら肉食妻帯をした。『教行信証』を著わし、浄土真宗を開いた。90歳、京都に寂す。
道元禅師
(1200~1253) 承陽大師 日本曹洞宗の開祖
京都の人。13歳で比叡山に登り、翌年、公円のもとで剃髪し天台の秘奥を学ぶ。後、建仁寺で栄西の高足の明全に師事し、禅宗に帰した。貞応2年(1223)、中国に渡って曹洞宗を学び、帰朝後は京都に興聖寺を開いて、只管打坐を唱導した。寛元2年(1244)、越前に大仏寺(永平寺)を創建し根本道場とした。
日蓮上人
(1222~1282) 立正大師 日蓮宗の開祖
安房の人。12歳で安房清澄山に登り、道善に師事。21歳で比叡山に登り修学すると共に、諸所を遊歴し、31歳帰郷。初めて南無妙法蓮華経の題目を唱え、以後『法華経』の法門を弘通した。文永11年(1274)身延山に住し、弘安5年(1282)、池上に寂した。
真盛上人
(1443~1495) 慈摂大師 天台宗真盛派開祖
伊勢の人。19歳のとき、比叡山西塔の慶秀に師事。恵心僧都に傾倒して浄業を修し、在山20有余年、後に坂本西教寺を再興して根本道場とし、戒律と称名念仏を唱導した。円戒国師の称号がある。