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四宗を統一した総合仏教

2018.03.07 08:13

http://www.butuji.co.jp/syu/bukyo/index2.htm 【天 台 宗】 より

◆歴 史

 インド仏教は2~3世紀に中国に伝わり、独自の展開を見せてゆきます。中国の風土に合った仏教を模索していた智凱という傑出した僧は、世俗を嫌って天台山に入り、悟りを開きました。天台宗の名はこの天台山に由来しています。

 日本においては平安初期、最澄(伝教大師)が中国で学んで日本に持ち帰り、比叡山で広めました。この有徳の僧最澄に感銘を抱いたのが桓武天皇です。最澄は天台宗の法門を学ぶため、天皇に遣唐使としての派遣を願い出ます。最澄が目指していたものは高遠な総合仏教であったことから、法華円教(天台宗)、真言密教、達磨禅法、大乗菩薩戒とが、唐で合わせて学ぶ対象とされ、これが四宗融合として日本天台宗の特色となります。

 最澄は帰国して後、開宗の許しは受けたものの、最大の理解者であった桓武天皇の崩御や、交流のあった空海との絶縁などの中、巡礼の旅に出ます。そして、完全に独立した一宗としての勅許を求めながら、822年に入寂したのです。

 臨済宗の栄西、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、日蓮宗の日蓮といった、後に各宗派を開くことになる傑出した高僧らも、若き日には天台宗を学びました。天台宗は後に円仁や円珍らによって発展するのみならず、日本の仏教の発展に大きく寄与することになったのです。

◆教 え

 天台大師とも呼ばれる中国の智凱は、法華経こそが種々の経典のすべての要素を取り入れた究極的な教え(円教)であることを明らかにしました。法華経を中心とした天台大師の教えは、法華三大部と呼ばれる『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の三つの書にまとめられており、そこでは「教」と「観」の二門が教えの基本となっています。「教」は、釈尊の教えを五時八教として分類した理論的な門。「観」は、その教えで明らかにされた真理を悟るための修行方法という実践的な門になっています。

 この天台大師智凱によって創始された天台宗は、最澄によって日本にもたらされるのですが、既に述べたように中国天台宗をそのまま日本に持ち帰ったのではなく、四宗融合という独自の思想が反映されたものになっています。最澄が目指したのは、円教・密教・禅・戒という種別にとらわれることなく、四宗はみな一元のものであるとし、法華経の精神によってそれら四宗を統一した総合仏教でした。後にこの天台宗を母体として、そこから様々な宗派が生まれ出ることになるのも、こうした天台宗の総合性が背景となっています。

 こうした総合的に仏教をとらえる考え方から、天台宗では特定の経典を選択し、他の経典を捨てることはしません。どの経典も釈尊の教えであり、どれもが何らかの真理を説いているとするからです。法華経を中心にしているのは、そこに釈尊の教えが要約されているためです。 

真 言 宗

◆歴 史

 密教を正式に日本に定着させたのは空海(弘法大師)です。空海もまた中国に渡りこれを学んだのですが、その源を遡ればインドに辿り着きます。インドでの仏教は、定着する過程で民間信仰であるヒンドゥー教との融和を重ね、やがて神秘主義的で呪術的な密教が成立します。特に呪術的な言葉の神秘性を重視したのが真言密教で、真言(マントラ)とは真実の言葉、すなわち仏の言葉であり、心の内の秘密の言葉といえます。真言宗の名もここに由来しています。

 やがて7世紀中頃から、大日如来の信仰を中心に成仏を目的とした真言が説かれるようになり、それらの教えをヨーガという修行法や曼荼羅(マンダラ)などと結びつけた、『大日経』や『金剛頂経』といった経典が著されます。こうした真言密教は、善無畏、金剛智、一行、不空らによって中国にもたらされ、恵果和尚によって空海に伝授されたのです。

 空海は日本に帰朝した後、嵯峨天皇の帰依を受けて高野山に金剛峯寺を建立します。また京都の東寺を天皇より賜りますが、後に教王護国寺と改められ、真言密教の拠点となります。

土木、建築、医学、教育、美術、学芸など、幅広い才能を持った空海は、真言密教の布教に止まらず、治水事業や学校創設などの社会的活動にも多岐に渡る活躍をし、835年惜しまれて入定しました。

◆教 え

 密教を天台の教えのひとつとした最澄と、密教こそ唯一絶対の教えとした空海とでは、密教そのもののとらえ方が異なっており、天台宗の密教を台密、京都の東寺を中心に展開した真言宗を東密と呼んで区別しています。真言宗の教えの大きな特色は、「この身、このまま、この世において成仏する。成仏している」すなわち「即身成仏」を説くところにあり、成仏とは仏(大日如来)と一体になることとされています。

 仏教で仏の教えと言えば、普通は釈尊(ブッダ)の教えのことをさしますが、真言宗においては大日如来になります。大日如来とは、宇宙の真理を意味する仏、つまり法身仏であり、すべての仏(如来)や菩薩の本体です。釈尊は大日如来が現世へ現れた姿であるとされています。

 空海は宇宙の実体を観察して、「体大(本質)」「相大(現象)」「用大(作用)」の3つの視点から分析し、その体は六大であり、相は四曼であり、用は三密であると考えました。六大とは、如来の象徴であり宇宙を構成するところの地・水・火・風・空・識の6つの要素のことです。また、現象の世界は四曼すなわち4種の曼荼羅で表されるものであって、この理論を図像で描いたものが、金剛界と胎蔵界の曼荼羅です。そして、宇宙の働きとしての三密とは、大日如来の身体・言語・心意の3つの働きのことで、手に印を結び、口に真言を唱え、心に悟りの境地を開くなら、即身成仏、つまり大日如来と一体となれると説かれています。

禅  宗 

◆歴 史

 広義の禅宗とは、座禅を行うことによって仏の悟りの境地を自己に表現しようとする教派のことです。臨済宗と曹洞宗がその代表ですが、正確に言えば「禅宗」という宗派が存在する訳ではありません。6世紀前半に達磨が中国に伝え、中国および日本の禅宗の始祖となりました。

臨済宗

 日本に禅宗が伝来したのは鎌倉時代のことです。天台宗を学んでいた栄西は、宋に渡った際に禅と出会い、日本に帰朝後、九州に報恩寺や聖福寺を開きました。現在では14の本山を持ち、臨済宗14派と呼ばれますが、これらは法系の上では一筋に帰するものであり、対立的な意味はありません。

曹洞宗

 栄西に師事した道元は臨済宗の禅法を学びましたが、23歳の時に入宋して如浄禅師に会い、印可を得て帰国した後、興聖寺や永平寺などをはじめとする禅の道場としての寺院を建立しました。また、仏法における座禅の位置付けを説き明かした『正法眼蔵』などの膨大な著作をまとめるなど、布教伝道に務めたのです。

 道元亡き後の曹洞宗は一時混乱の様相を呈しますが、瑩山がその収拾にあたり、曹洞宗の教えのさらなる大成と幅広い布教に務めました。そのため、道元を高祖、瑩山を太祖と呼び、合わせて両祖大師と呼んでいます。

◆教 え

臨済宗

 臨済宗では、寺院建立の際の様々な縁に応じて、釈尊をはじめ、阿弥陀如来、薬師如来、観世音菩薩などが本尊としてまつられていますが、座禅を行うことが仏の悟りに通じるという考え方から、本尊は一定していません。また、習慣上は般若心経や観音経などが読まれていますが、特定の経典もたてていません。仏心をもって宗とし、無門をもって法門としているため、本尊にも経典にも制約がないということが、逆に臨済宗の大きな特色になっています。

曹洞宗

 同じ禅宗であり、座り方は同じであっても、臨済宗と曹洞宗とでは座禅の心構えが少し違います。臨済宗の禅は、全身全霊で公案と自分とが一体となるように努力することが求められますが(公案工夫)、曹洞宗では「只管打座」、すなわちただひたすら座禅することのみが修行であり、焼香・礼拝・読経などは必要とされていません。

 このように、座禅のみの座禅が只管打座ですが、種々の思慮を絶って昼も夜もただひたすら座ることで、心身の統一、安定、調和が図れるとし、こうした身心脱落によってかえって宇宙の真実の姿、すなわち「即心是仏」が得られるとしています。煩悩に汚れていない心、その心はすべての存在であり、すべての存在はその心であり、自己と宇宙とが一体となった状態、それが即心是仏なのです。 

浄 土 宗

◆歴 史

 浄土宗を開いた法然の存在意義は確かに大きなものですが、そこに至るまでは他宗派にも増して、様々な僧が関わっています。

 まず、インドの経典を中国語に訳す上で功績のあった鳩摩羅什、同じ頃に無量寿経や観無量寿経などを通して浄土教の基礎を築いた曇鸞、これに続いて浄土信仰を深めた道綽、そして、その弟子で浄土教を大成させた善導らがいました。これらの高僧がいなければ、今日の日本に浄土教(阿弥陀仏の浄土の教え)は伝わらなかったでしょう。

 浄土教は、聖徳太子や聖武天皇、あるいは最澄らによって、古くから日本にもたらされてはいました。また10世紀に活躍した空也や源信により、浄土の教えは注目を浴びもしました。しかしながら、それらは貴族趣味的なものに止まり、庶民の苦しみを救うものとなるためには、法然の出現を待たなくてはなりませんでした。

 法然は13歳にして比叡山延暦寺に入り、天台の教えを受けます。やがて源信の『往生要集』や善導の『観無量寿経疏』を読み、誰もが容易に救われると説く念仏の教えの正しさを確信し、さらに善導大師の夢告もあり、山を下りて念仏の教えを広めることになります。その後、既成仏教より弾圧を受けるなどもしましたが、浄土宗は急速な広まりをみせ、法然は『一枚起請文』を最後の教えとして、80歳で入寂しました。

◆教 え

 浄土宗の本尊は阿弥陀如来で、経典としては無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経があり、通常これらを浄土三部経と呼んで重んじています。

阿弥陀仏は数々の仏の中で、平凡な人々をどのように救えるかを真剣に考えた仏です。仏(如来)となるにあたって48の誓願をたてたとされていますが、その18番目で、私の浄土への往生を願い、心から念仏を唱える者を、必ず救済すると誓っています。

 こうした阿弥陀仏に象徴されるように、浄土宗の根本の教義は、我欲にとらわれた凡夫であることを反省し、口に「南無阿弥陀仏」と唱えれば、誰でも仏の救いにあずかり、現世で平和で心豊かな生活を送れるばかりでなく、未来も極楽浄土へ往生できるという教えです。念仏を唱えれば、善人は善人として往生し、悪人も悪人ながら往生するという平等救済の考えから、我々はみな凡人であって、凡人もみな浄土へ往生できると説かれているのです。

 法然は80歳で往生する2日前、一枚の紙に最後の教えをしたためました。念仏の肝要な教えを記したその『一枚起請文』では、ただ極楽浄土への往生を願い、ひたすら念仏を唱えることの大切さが説かれています。これを「専修念仏」といいますが、そこで求められているのは、信仰上の様々な心得や唱える念仏の回数ではなく、阿弥陀仏の救いを求める切実な思いなのです。こうした法然の教えは弟子たちに受け継がれるのですが、親鸞の浄土真宗もそのひとつです。

浄土真宗

◆歴 史

 浄土真宗は親鸞によって開かれました。9歳の時、比叡山に天台宗の一僧侶として出家した親鸞は、29歳の時に山を下り、聖徳太子の啓示を受け、法然を訪れてその弟子となります。法然と出会うことで念仏に触れた親鸞は、彼を生涯の師と定め、一路念仏の道に突き進みます。

 しかし、既成仏教の弾圧により、法然は土佐に流されてしまい、親鸞も越後に藤井善信の名で流されて還俗させられます。流罪後まもなく恵信尼と結婚をして子供ももうけますが、自らを愚禿と呼び、非僧非俗の自由な立場で仏道を歩みます。やがて法然は許されて京都に戻りますが、親鸞は越後に残り、二人が再び会うことはありませんでした。

 親鸞は、師がいなくなった京都に戻ることなく、新天地の関東に向かい、常陸を中心に念仏の教えを広めます。こうして弟子たちも育成されてゆき、浄土真宗の本典である『教行信証』が著されます。60歳の頃に京都へ再び戻り、精力的に数多くの著作を完成させ、親鸞聖人は90歳でその生涯を閉じました。

 親鸞没後、京都に廟堂が建立され、これが後に本願寺となり、教団名ともなります。8代蓮如の時に本願寺は大きく発展しますが、秀吉の時代に現在の西本願寺の地に移り、また、家康の時代に大谷派本願寺(東本願寺)ができ、ここに東西本願寺が両立することになったのです。

◆教 え

 初期の仏教は、成仏するために様々な修行が求められていました。様々な戒律を守り、経典を研鑽するという修行は、日常生活を送るものにとっては難しく、釈尊の場合は一生涯の修行で仏になることができましたが、我々のような普通の人間が容易になし得ることではありません。やがて、庶民の間に仏教が浸透するにつれて、実践行を通して自力で仏になることへの反省が芽生え、自分の成し得ることをした上で、その後は仏の加護と救済にゆだねれば良いのではないか、という他力思想が生まれてきます。

 この他力思想のひとつの現れが、法然の打ち出した念仏の教えです。それは、ひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えて阿弥陀仏の他力にすがるというものでした。しかしこの浄土宗とて、念仏を唱えるという自力の行は認めていたのです。これに対して、念仏を唱えることそれ自体が既に阿弥陀仏の他力によるのだという、「絶体他力」の教えを説いたのが親鸞です。

 法然の念仏では、わたしたちが阿弥陀仏の救済を願うことが求められていましたが、親鸞によれば、念仏は自分の意志によるものというより、自然に口からほとばしるものであり、成仏を願っているのはむしろ阿弥陀如来だとされています(絶対他力の本願)。自力を捨て、こうした本願を信じ、いかなる者も見捨てずに救済する阿弥陀仏の慈悲を前にして、思わず口について出る報恩感謝のしるし、それが親鸞聖人の説く念仏なのです。

日 蓮 宗

◆歴 史

 16歳で出家した日蓮は、多くの典籍と高僧を求めて19歳の時に比叡山に上ります。当時の天台宗では密教が盛んであり、まだ法然による浄土宗が影響を色濃くさせる中、日蓮は10年以上にわたる研鑽を積み、法華経こそ経典の中の経典であるとの確信を得て、比叡山を下ります。

 日蓮はやがて、鎌倉の松葉谷に草庵を結び、法華経の行者としての自覚を高めます。当時の鎌倉は災害が頻発するなど騒然としており、そうした惨状を前にした日蓮は、日本のあるべき姿を提言した『立正安国論』を著しました。そこでは浄土宗が厳しく批判されていたため、浄土宗の僧侶や信徒に草庵を襲われ(松葉谷の法難)、伊豆に流されます(伊豆流罪)。三年を経て赦免された後も、帰省した際に襲われ(小松原の法難)、蒙古襲来の時にも領内鎮圧のため、不穏分子としてあやうく斬首されかけ(龍口の法難)、さらに再び僻地に流されます(佐渡流罪)。

 こうした様々な困難に遭遇しながらも、日蓮はますます法華経を拠り所として布教に努め、流罪が赦された後は身延山に身を寄せます。やがて老境に入ると体調を崩し、湯治のために温泉に向かう途中、61年の波乱に富んだ生涯を閉じます。日蓮聖人が病の床で本弟子として指定したのが、日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持で、彼らは六老僧と呼ばれています。

◆教 え

 法華経では、この世に現れた釈尊は仮の姿であり、真実の姿は大昔から成仏している不滅の仏である(久遠実成)とされ、仏に寄せて人間の生命の不滅が説かれています。日蓮宗はこの法華経(妙法蓮華経の略)を拠り所としており、法華宗とも称されていたのはそのためです。  法華経は、既に最澄によって伝えられていましたが、密教や禅をも取り入れた総合仏教としての天台宗が、深遠な哲理を追及する学問仏教に偏る傾向があるのに対し、日蓮宗は、「南無妙法蓮華経」という題目を唱え、それを受持すれば功徳があるという教えです。

 日蓮は「教」「機」「時」「国」「序」という5つの面から、法華経こそが我々を救うことを示し、8万4千といわれる経典の中で、これこそ末法の世の人々を救済する予言書であるとしました。

また、本門と呼ばれる法華経の後半を、「本門の本尊」「本門の題目」「本門の戒壇」という三大秘法として説き、題目を唱える重要性を打ち出しています。

 日蓮によれば、名は体を表すというように、妙法蓮華経という題目には法華経の奥深い教えが集約されており、逆に言えばその題目を解釈して6万9364字の法華経があるわけです。題目は法華経を内包しているのであって、この題目を唱えれば、わたしたちと仏とは心が交流するのであり(感応道交)、この身がこの世にありながら、そのまま仏になる、そう日蓮聖人は説いているのです。