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日本における一神教と多神教:日蓮 vs. 円仁 2015年8月13日

2018.03.07 12:16

https://sites.google.com/site/ishidaseiji/notes/ri-benno-fo-jiao/27-ri-benniokeru-yi-shen-jiaoto-duo-shen-jiao-ri-lian-vs-yuan-ren 【日本における一神教と多神教:日蓮 vs. 円仁】より

日蓮(1222-1282)は、「南無妙法蓮華経」という題目(お経のタイトル)を唱えることで、世の中がうまく収まると唱えた。日蓮は自派以外の一切の仏教宗派のそれぞれに難点があると捉えて、自分の流派こそ正義であると主張した上で、鎌倉幕府が日蓮を正義と認めないのであれば、日本は仏たちの加護を受けられないので、外国の侵略を受けてやむを得ないと予言していた。実際に1274年と1281年にモンゴル帝国(元王朝)が日本を襲ってくる。ただし侵攻はされているが、国土の略取はされていない。日蓮の予言は当たっているとも言えるし、外れているとも言える。

日蓮と同じように、他宗派を正統な仏教ではないと指摘した人物が日蓮よりも400年ほど前にもいた。空海(774-835)である。空海は「秘密曼荼羅十住心論」という文章において、空海の推す密教が、奈良の大仏の根拠となる華厳経や、最澄の天台宗の根拠となる法華経よりも、1段から2段ほど優位であり、仏教界での最高位に位置することを主張した。

空海は時の権力者である嵯峨天皇に積極的に利用されたが、逆に日蓮は鎌倉幕府に迷惑がられて、他宗派から迫害を受けた(日蓮四大法難)。空海と日蓮では450年間ほどの開きしかないのだが、その間に仏教の立ち位置が変わっている。結果として、一方は重宝がられ、他方はぞんざいに扱われた。

空海の時代、僧侶の数が国家によって管理されており(年分度者制度)、よほどの学識の整った人でなければ僧侶になれなかった。すなわち僧侶の地位は現在の国家公務員のようなエリートにのみ与えられた特権であった。その立場上、国家権力の頂点である天皇におもねる必要がある。天皇が、空海の密教に拠点となる舞台として高野山を与えて、さらに東寺も与えて、真言宗の開宗を許している以上、同業者である他宗派の僧侶は空海の権威を追認せざるをえない。天皇が空海に帰依している以上、空海の発言に対して敵愾心を露骨に表すワケにはいかない。

日蓮の時代、比叡山延暦寺や奈良の興福寺は独自の財源をもっており、僧兵も従えていた。法然や親鸞らの浄土教も民間に浸透していた。独自の支持基盤をもっている僧侶にとって、天皇におもねる必然性は乏しかった。むしろ天皇が僧侶に大師号や国師号をさずけて、各仏教宗派におもねる態度をとるようになった。日蓮が、他宗派を誹謗すれば、その僧侶や信者たちは、日蓮の発言に対して敵愾心を露骨に表す。天皇や幕府は、それに歯止めを効かせられない。

日蓮は、もともと天台宗のお坊さんであり、最澄を敬慕していた。最澄のころの天台宗は、法華経を基軸にしており、つまみぐい程度に密教・浄土教・禅を揃えていた。後継者の円仁は、中国に10年間ほど滞在していたこともあり、さらに持ち前のセンスもあり、本格的な密教・浄土教・禅を習得して持ち帰ってきた。時代の要望により、天台宗は密教の扱いを得意とするようになる。ついでに「南無阿弥陀仏」の称名念仏をおこなう法然や空海も天台宗から輩出されて、浄土宗や浄土真宗として独立していく。天台宗のトップである天台座主の多くは、公家や皇室の子息から選ばれる。僧兵はときどき京都を襲う。天台宗が、掴みどころのない寄り合い世帯となっていたのを目の当たりにして、日蓮は、あらためて最澄の法華経信仰に回帰したくなったのだろう。

日蓮は最澄の法華経信仰に心酔していたこともあり、最澄の天台宗を否定しない。しかし日蓮の高弟である日興は、日蓮の信仰以外のものに価値を認めようとしなかった。日蓮や日興から時代のくだった戦国時代に活躍した日蓮宗の朝山日乗は、キリスト教を日本か追放しようと積極的な政治工作を続けていた。日本で活躍したポルトガル人の宣教師のルイス・フロイスは彼を人間の皮をつけた悪魔として揶揄している。

日蓮とその弟子たちは、仏が人や世を救うという仏教における大前提を鵜呑みにしている。しかしながら、彼らは思った。人の心は貪欲であり、世の中は波乱に満ちている。この現状を、仏の救いの世界であるとは到底に認められない。仏の救えない世の中になっているのには原因がある。一つには、仏の教えの継承者である僧侶が、腐敗していたり、奇怪な教えを広めたりしていることが挙げられる。「神出鬼没」の熟語のように、ただしい神が現れれば、よこしまな鬼は没する。自分たちがただしい仏教を再評価すれば、日本が平安になるだろう。

正義感ゆえに、日蓮はみずから迫害されることを覚悟に、他宗派を非難しつづけた。日興は、日蓮よりラジカルな法華経の原理主義を実践した。朝山日乗は真剣にキリスト教を日本から排他すべきであると信じた。いずれも純粋で真面目な人であったのだろう。日蓮や日興の流れをくむ創価学会の人々に性悪な人がほとんどいないように、日蓮・日興・朝山日乗もまた温情あふれる好人物であったのかもしれない。

しかしながら、日蓮らの過激な行動の大前提には違和感をぬぐいきれない。すなわち、仏が人や世を救うという内容を鵜呑みにはできない。むしろ逆で、人や世を平和裡におさめる仕掛けとして仏が利用されてきた。その仏が、奈良の大仏であったり、空海の密教仏であったりした。それらが、キリスト教の創造主であったり、イスラム教のアッラーであったり、中国共産党であったり、ロシアのプーチン大統領であったり、米ドル紙幣であったりしても、治安を維持できるのであれば、何だって一向に構わない。もしも、おのおのの仏に支障があるようならば、機会を見つけて、別の仏にすげ替えればよい。

仏教での仏は、本来ならば、釈尊と称される約2,500年前のインド人のゴーダ・マシッダルダーだけであった。ところが、真言密教の仏は大日如来を筆頭に3,000柱ほどおられるらしい。浄土教では阿弥陀仏に焦点を置いている。法華経では釈尊と多宝如来をとりわけ尊重する。仏教がまとまりのない宗教に見えるのは、仏のすげ替えを許容していることによる。

このあたりのところを突き詰めて考えた僧侶がいる。最澄の高弟の円仁である。円仁は、最澄の最愛の弟子の一人として法華経の理解を深めた。その理解の深さが認められて、四天王寺や法隆寺でも講義をしている。ただ一方で、密教、浄土教、禅でも造詣を深めて、いずれも法華経と同等の価値のあるものとして認識している。最澄を敬慕する日蓮にとっての仏は法華経のものしかなかったのだろうが、円仁にいたってはいくらでも取り替えが可能であった。

結論ありきで法華経を推す日蓮にとって、円仁の心変わりは理解できなかったようだ。日蓮は円仁を「鳥でもなくネズミでもないコウモリである」と揶揄している。要するに、日蓮にとって円仁は、つかみどころのない人物であったようだ。

円仁は、さらに踏み込み「草木国土悉皆成仏」という発想をあたためる。これは草木や国土のいずれも、仏となる素質があることを伝えている。まちがいなくトウモロコシは仏である。繁殖がたやすい。水は大して要らない。実は大量にできて、栄養分に富む。その実の乾燥保存も簡単である。実の大半は家畜の飼料用に使われているが、もちろん人間の食料としても利用できる。トウモロコシが仏ならば、コメやムギも仏である。これらの耕作を可能にする国土もまた仏である。これらの植物や土地が人の世を救っていることは疑いようがない。

この円仁の発想は、宗教の範疇を逸脱している。コメ、ムギ、トウモロコシとそれらの農地を仏に含めるのなら、それは、もはや農家の発想である。仏教はファンタジーの要素を含んでいるから魅力的であって、現実を突きつけられるとゲンナリしてしまう。だから円仁自身は「草木国土悉皆成仏」について明言を避けて、口伝でつたえた後継者たちが口外した。

この農家の発想からみると、法華経、密教、浄土教、禅はいずれも似たり寄ったりの瑣末な議論に思える。円仁は僧侶なので、そのような本音を口走れば、みずから自分の職業を否定することになる。そこで、強いてどれが素晴らしい教えかと聞かれれたら、円仁は、いずれも同等に素晴らしいと答えることにしていたようだ。

もしも円仁が、彼の本音でもって日蓮に説教をしても、日蓮には納得がいかなかっただろう。日蓮は法華経の仏が全知全能の存在であってほしいと願っている。これは、キリスト教徒やイスラム教徒の人々が、みずからの信じる神が全知全能であると信じたがるのと同じ発想である。全知全能の存在に帰依すれば、それを帰依する自分もまた、全知全能のグループに仲間入りできる。

これは自らの欠点を包み隠したいという衝動の現れでもある。過去とは過ちの積み重なったものである。誰一人として、全知全能のごとく生きられない。自分の価値観を絶対的に正しいと保証するものは、ほとんどない。このことに居直ればよいのだが、「良い子」を演じ続けたい人もいて、「ガイドブック」をもとめる。全知全能の宗教には綿密な「ガイドブック」(経典、聖書、クルラーン)がついており、それに従うことで、過ちを積み重ねることがない。ただしこの場合、過去を積み重なった過ちを認めづらいので、過去から学ぶことは少ない。あたかも時間が止まったかのような感覚になる。極端な場合、イスラム原理主義者のように、歴史哲学を忘れて、人類史を無視して、生物進化を否定する。

全知全能を仮定した発想は、ディズニーのファンタジーの世界のことで、現実的ではない。子供たちは、ファンタジーを好んでも、それがいつまでも通じるわけではないことも知っている。法華経、キリスト教、イスラム教などの一神教は、現実を矮小化したファンタジーである。人を扇動や洗脳するには好都合だが、信頼するには不都合である。

「草木国土悉皆成仏」の多神教では、現実を直視しているのだろうが、要素があまりに多すぎる。ローカルな実情によって様相が千変万化するので、中央集権の制度とはなじまない。信頼するには好都合だが、人を扇動や洗脳するには不都合である。

日蓮にこう伝えたい。法華経も仏教もファンタジーとして面白いし、人生訓として参考になるところもある。それで十分ではないか。しかし実際のところ、コメ、ムギ、トウモロコシ、その他の無数の生物たちや、それらを生かす国土が、人の世を救う仏である。それらに比べると、過去を学ばないファンタジーは取るに足い。ファンタジーは楽しむものであり、真に受けるものではない