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止観諸相 ―ビルマ発の新運動

2018.03.07 13:08

http://www.horakuji.com/dhyana/sikan/samatha_vipassana.htm 【止観諸相 ―ビルマ発の新運動】より

流行としてのヴィパッサナー

現在、いわば一種の流行として、「Vipassanā[ヴィパッサナー]こそが仏教の瞑想であり、ヴィパッサナーをこそのみ修められるべきである」などと、巷間言う人々があります。

ヴィパッサナーとは、すでに前項にて解説しましたが、漢訳では「観」と云われる修習(瞑想)の大きな枠組みです。ではなにを「観る」のか?ヴィパッサナーとは特に、人と物事すなわち一切の、無常・苦・無我という真理なる有り様を洞察することです。

さて、そのような「ヴィパッサナーこそ」など近年の輩が主張する言は、果たして真のものでしょうか?それは仏教の伝統的な見解から言われるものでしょうか?もしそうでないならば、いつからその様に言われだしたのでしょうか?

結論から言うと、それは真ではない、伝統的仏教の立場からするとまったく適切でない主張です。

それは大戦後、ヴィパッサナーのみを修めるべきとする主張とその実践を、ビルマ上座部のMahāsī Sayādaw[マハーシ・セヤードウ](僧名:Sobhana; 1904-1982)が布教の手段として用いたことを端緒とするものです。

あるいはまた、大戦中からビルマに入って成功を収めていた印僑の子で、商売人であったインド系ビルマ人のS.N.Goenka[ゴエンカ](1924-2013)が、ビルマでなくインドを本拠として脱宗教の手段(ビジネス)として用い、それぞれ支持を得て世界的に有名になったことを嚆矢とするものです。

なお、Sayādaw[セヤードウ]とは、徳高い僧へのビルマでの敬称です(Sayā[セヤー]は教師・先生の意)。また、Mahāsī[マハーシ]とは、彼が大東亜戦争の戦乱を避けて後進たちに学問を教授していた寺院の名で、それが後に彼の通称となったものです。それはパーリ語とビルマ語の混成語で、意味は「大太鼓(Big drum)」。

さて、今でこそビルマは、僧俗共に修禅に打ち込むことが出来る環境を備えた「瞑想センター」(ビルマ語でYekta[イェッタ])なるものが極めて数多くあって、多数の外国人も受け入れていることから、瞑想に興味をもつ者の間ではそれが国際的に有名な国となっています。が、このような施設が多く作られ、「ヴィパッサナーこそ」などと言い、特にヴィパッサナーを強調して専らこれを行うといった運動が開始されたのは、実はいずれもいまだ百年にも及ばないごく最近のことです。

いずれにせよ、いま世間に見られるそのような世界的潮流、流行は、二十世紀中頃のビルマから発されたものであることから、ここではもっぱらビルマにおけるその運動の流れを紹介していくこととします。

マハーシ流ヴィパッサナー運動 ―Dhātumanasikāra(界分別観)

写真:Mahasi Sayadaw at 1949 まだ若く気概にあふれているのか、それが表情に顕れている。いまだ硬い。© Horakuji(転載厳禁)

マハーシ・セヤードウが「ヴィパッサナーこそ」というような運動を始めるに至った経緯・背景は、どのようなものであったか。

それはまず、彼が若く、いまだ特に修禅に励むこともなく、ただビルマ政府が定める僧の国家試験に合格するための修学に励んでいた頃、特に瞑想修行に関しての経典、中でもDīgha Nikāya(長部)に収められているMahāsatipaṭṭhānasutta(『大念住経』)に興味を覚えていたことが、先ず第一の理由であったといいます。

そして、決定的であったのは、それから幾ばくの時を経て迎えた1938年の当時、南ビルマの古都Thaton[タトン]に住していた、Mingun Jetavana Sayādaw[ミングン・ジェータヴァナ・サヤードウ](僧名Nārada; 1868-1955)という僧侶のもとを訪れ、(おそらく雨安居と衣時の)四ヶ月間という短期ではあるものの、その指導のもと瞑想修行したことであったと云われます。

ビルマでは、有名になった僧侶を呼ぶのにその出身僧院や出身地の名で呼ぶ慣習があるのですが、ミングン・ジェータバナ・セヤードウもやはり、Mingun Jetavana Yekta[ミングン・ジェータヴァナ・イェッタ]という瞑想道場の開創者にしてその主であったことから、そのように呼称されます。

(大東亜戦後のビルマ仏教興隆運動の中で輩出された、三蔵の典籍全てを完全に記憶した最初の人として今も大いに称えられる僧Vicittasārābhivamsa[ヴィチッタサーラービヴァンサ]もまた、Mingun Sayādawと云われるけれども別人。)

さて、実は、このミングン・セヤードウこそ、現在のビルマ国内のそれこそどこにでも見られるような、いわゆる瞑想センターの原型と言える施設を設立した最初の人です(於:Myou Hla)。それはすなわち、僧俗・老若男女・民族の違いを問わずにその門戸を開いて受け入れ、瞑想法を教授し実践させる、初めての場の創出でした。それは1911年のことです。

そのような場所で、彼はミングン・セヤードウの直接の指導を受け、『大念住経』などに説かれるSatipaṭṭhāna(念住)を特に修めることを専らとする術を説かれたのであると云います。

(念住については、別項“四念住(四念処)”にて詳説している。)

ミングン・セヤードウが教授していたその術、修習法は、彼が道を探求して彷徨するうち、自らが『念住経』とその注釈書を読み込むことに依って始められたものであったといいます。それは、彼が全く新たに創りだしたというのではなくとも、誰か先徳の指導を仰いで長年修行し、それを継いで始めたものではありませんでした。

そして、ミングン・セヤードウは、『念住経』の中でも特に、地水火風の四大を分別して修習の対象とするDhātumanasikāra[ダートゥマナシカーラ]、いわゆる界分別観[かいふんべつかん]に特に着目しています。

中でも彼のそれは、四大(あるいは五大)でいうところの風大、すなわち事物に備わる「動きという性質」を特に取り沙汰したものです。それは先に触れた四念住のうち、最初の身念住の一つとして経の中で説かれている修習法です。

ところで、これは一概に言うことも出来ないのですが、界分別観は伝統的に観(ヴィパッサナー)ではなく、むしろ止(サマタ)の範疇に分類されている修習法です。

しかし、彼は、これをあくまで観であるとし、観の修習として修めていくことになります。

最初、彼がこれを世間に説き出した時、たとえば「動き、動き」「私は坐りつつある、坐っている」、あるいは「お腹の膨らみ、凹み」などと自分の動作に注意を向け続けるという、彼の修習法についての説法に対し、世間の人々は嘲笑してまったく歯牙にもかけなかったようです。そのようなことは、今のビルマでこそ考えられないことだと言えるでしょう。が、流行などというものはそのようなものです。

彼のその教えは、当初世間の人々から「非常識なもの」「可笑しなもの」として扱われ、彼は変な僧侶、頭のおかしな僧侶と見なされたのでした。しかし、むしろ常識にとらわれなかった(?)若者のカップルが、彼の説法に興味をもってその瞑想法を修め始め、これに効果のあることを認めたことをきっかけとして、次第に人々から認められていくようになったのだといいます。

さて、そもそもミングン・セヤードウがそのように『念住経』とその注釈書を読んで、そのように世間に説き出すようになったのは、以下のようなきっかけによるものであったといいます。

北ビルマはマンダレー近郊、エーヤワディー河畔にあるミングンの森に、聖者と近隣の人々から噂されていた「或る隠遁僧」が住んでいました。そこで彼は、その隠遁僧に会いに往き、その教えを請います。けれどもその僧は、瞑想についての指導も教えを示すことも一切せず、ただ「なぜ外に教えを求めて探すのか。『念住経』とその注釈書を読め」と言っただけでした。そこで彼は、住房に戻って言われたとおりにそれらを熟読します。そしてその結果、着想を得たのが、そのような方法・教え方でした。

ところで、瞑想センターなどというものが作られるまでのビルマでは、修行とくに修禅というものがどのように行われていたか。

それは、学問だけではなく律を厳持しつつ実践を志す極々一部の僧侶のみが、都会を離れた寺院や森林・洞窟に籠って社会との交わりを出来るだけ避け、ただひたすら自らの修行に励むのみ。そのような僧らが在家信者を指導して修禅させることなど、絶無とまでは断言出来なくとも、ほとんど全く無かったのだといいます。在家信者の仏教との関わり、修行ということについては、信者らはただ僧伽や仏塔に布施をなし、仏前に香華を供えてパリッタを唱え、あるいは仏塔や祠堂、寺院を建立することを専らとするものであったのだといいます。

もっとも、そのような僧たちの傾向は、十九世紀中頃(1871)のビルマの都マンダレー(当時)にて行われた第五結集以前、戒律復興の機運が高まってより、やはり僧は律を厳しく持たなければならないという流れの中で立てられた集団(Shwejin[シュウェージン]派等)の流れに強く見られたことです。

対して既存の集団で、現在に至るまで多数派であるSudhamma[トゥダンマ]派は、そのような動きが起きるまでかなり綱紀が乱れていたということですから、修道以前の問題であったといいます。

(なお、トゥダンマ派の綱紀が乱れているのは現在も同様で、おそらくさらに悪くなっていると思えるほどです。)

しかし、瞑想センターと云われるものの出現以降、その運営に関わっていくのは、第五結集以降の引き締めがあったものの、やはり律についてそれほど厳しい態度を取らぬままにあった、旧来のトゥダンマ派の僧が多かったということです。

さて、瞑想センターなどというものが初めて作られたのは、今からちょうど百年前の1911年のことで、無論、その当時はイギリス統治時代です。とは言え、そのような時代下であったこともあるでしょう、ミングン・セヤードウに倣って小規模なセンターを設立するものがポツポツと現れ出したものの、それはいまだ小規模な動きに留まるものであったようです。

どのような時代背景からヴィパッサナー運動が起こったのか

ここで、本題には全く関せぬことのように思われるかも知れませんが、しかしそれを知ることが必要なことであるため、近世から現代にかけてのビルマ史をごくごく簡略に示していきます。

十六世紀、ポルトガルのビルマ進出によって国情不安となり、続いて十七世紀後半には北からは支那、東からはシャム(タイ)が続々と侵入。そして西の海からはイギリスとフランスの進出とがあって、さらに南部ではモン族による内乱が勃発。それまでのビルマ王朝Toungu[タウングー]朝は、1752年ついに倒れます。

そこでモン族を制圧して起こったのがKonbaung[コンバウン]朝です。この王朝では、東は逆にシャムに侵入し、これに打ち勝ってアユタヤ朝の滅亡を誘い、西はアラカン王国を攻略。北に対しては支那の侵入を防ぐなど、タウングー朝で弱体化していた国勢を盛んにし、多くの戦が行われています。

しかし十九世紀、イギリスによるインド領有から、東南アジアへの本格的勢力拡大が開始された結果、1824から1886年までの間に三次に渡る戦争が行われます。イギリス=ビルマ戦争です。

十九世紀中頃、コンバウン朝は、そのような戦乱の渦中にありながらも、規律の弛緩していた僧伽の引き締め、いわば興律運動を後援し、また国家として第五結集を開催するなどビルマ仏教興隆に努めています。これは、強大な脅威に晒されて国情不安となる中、仏教によって今一度国を一つにまとめ、外患に対抗せんとする手段の一つであったとも見ることが出来ます。

けれども結局、三次イギリス=ビルマ戦争の結果、ビルマは完全に敗れて王は印度に追放され、ついにコンバウン王朝は滅亡。1886年、ついに全国土が併合されてイギリス領インドの一州とされます。ビルマという国は、ここに一旦消滅したのでした。

しかし、1906年に大学生など教育を受けた若者らにより、ビルマの地位向上のためにビルマ仏教青年会が立ち上げられ、1914年には、当時アジアで唯一、西洋に対向する力をつけていた日本に留学した経験ある、U Ottama[ウ・オッタマ]という僧がこれに参加。彼を中心とするビルマ民族主義運動が展開されます。

その結果、1937年には、なんとかインドの一部という立場を脱して、その実際は植民地支配継続ではあったものの、イギリス準自治領の地位にまで格上げされるまでには至ります。

そして、その後まもなく、日本が南方に進出したことにより、その力を全面的に頼ってようやくイギリスを駆逐。日本の協力の下、念願であった独立政権が誕生します。しかしながら、実質的には、日本軍による戦略的統治が背景にあるという、形式的なものに過ぎませんでした。

日本の力によって念願の英国を駆逐を果たし得たものの、これは当時の東南アジアで全般的に言えたことでしょうが、日本政府と軍部による事後の当地の政治への介入方法は全く賢明なものでありませんでした。その故に、それは一種の騙し・裏切りであると、むしろ日本によって教育され力と自信をつけたビルマの若き戦士たちには思われたようです。

けれども実際のところ、当時のビルマ人ら自身だけの力で、そのまま全く独立した新政府を立ち上げ、運営することなど全然出来なかったでしょう。そこに西欧列強に対抗し得るほどの知見を備えた政治家、優秀な知識層や技術者など存在しませんでした。

結局、日本の諜報機関により海南島(当時は日本領)にて軍事教育を受けたAung San[アウン・サン]ら率いるビルマ国民軍は、主力の日本軍、そして合流したChandra Bose[チャンドラ・ボース]率いるインド国民軍らと共に、英印軍・豪軍・米軍・支那軍との戦闘を継続していきます。

ところが1945年3月、戦局すでに日本の敗戦決定的となっていたとき、アウン・サン(ビルマ国民軍)は英軍にたちまち寝返り、混乱のさなか敗走する日本軍の背後から容赦無い攻撃を加えるに至ります。これによって、およそ二万の日本軍将兵が殺傷されたといいます。

(ビルマ戦線における日本軍の戦死者はおよそ十九万人。とてつもない数の将兵が彼の地にて、あるいは彼の地への途上にて無残にも散っています。)

かくて1945年8月、日本の敗戦によって大東亜戦争が終結。これでようやくビルマは真に独立し得るかに見えたものの、たちまち英国が舞い戻って来て再び領有されます。けれども戦後、それまで大英帝国によって当たり前に行われていた、アジアでの植民地支配に対する状況は、戦前とは異なったものへと変化していました。

前世紀中頃より非常なる犠牲を出しつつも、粘り強く続けられていたインド独立運動が、第二次大戦中ますます盛んとなり、ついに最初の独立を果たしたのは隣国インドでした。それは1947年7月のことです。

ビルマもその機に乗じて大英帝国との独立交渉を続け、数世紀に及んだ西洋列強からの脅威、英国による植民地支配、そして日本による被征服と、常に他国から脅かされ主権を侵され続けた状態から晴れて脱し得たのは、1948年1月4日のことです。

しかし、国内には問題が山積していました。

大英帝国領時代、その分断支配政策の一環として行われていた少数民族のキリスト教徒化、また植民地での生産活動の為にインドやネパール(グルカ)から呼び入れられていた、イスラム教徒やヒンドゥー教徒らの人足や商人・技術者たちの定住化などに伴う、人種・民族・宗教間抗争。

そして、英国の愚民化政策による社会構造に由来する様々な、たとえば印僑・華僑による経済支配、いわば搾取に対するビルマ人らの嫌悪そして反発などによる、人種間の深刻な対立。

戦後はそれらがいっぺんに噴出するような混乱、例えば英国の手によってキリスト教徒化していた少数民族の一つであるカレン族による内乱勃発と、それらに対する社会不安の著しい増大があったようです。

そのような多難な状況にあって、その人口の七割と大多数を占めるビルマ族のアイデンティティ鼓舞と結束の為という側面が大いにあったのでしょう、ビルマが国家として正式に独立宣言する直前の1947年11月、The Buddha Sāsana Nuggaha Organization なる組織が設立されます。

それは、当時ビルマ随一の大富豪でSirの称号さえ大英帝国から送られていたU Thwin[ウ・トゥウィン]と、独立後の初代首相となるU Nu[ウ・ヌー]を始めとする、いずれも一角の社会的地位を持った裕福な九人の在家居士によるものでした。

戦争が終わり、また念願の独立を果たし、大きく時代が動く渦中にあった彼らは、ビルマの歴史・文化の中心的存在、いや、核であるビルマ仏教興隆のため、たとえば経律論の三蔵典籍すべて記憶する僧(Tipiṭakadhara)の輩出を目指したり、独立国家として再び聖典の大編纂会議すなわち第六結集(Caṭṭhasaṅghāyāna)を行うことを目指したりするなど、多岐にわたる興教活動を展開。それら計画は、後に次々とすべて実現されていきます。

その一環として、いわばミングン・セヤードウの試みにならい、僧俗共に瞑想修行が出来る大規模な施設を作り出すことを計画。

ウ・トゥウィンは私費を投じて首都ラングーン(現ヤンゴン)のBahan[バハン]市に、およそ70 acre(約283,000㎡)という広大な土地を購入し、施設を整えていきます。しかし、その適切な指導者を見つけられずにこれを探していたところ、戦争の混乱を避けて北ビルマはマンダレー近郊のサガインにて、後進の学問教育にあたっていたU Sobhana[ウ・ソーバナ]、すなわち後のマハーシ・セヤードウを見出します。

そして1950年、彼を正式に指導者として迎え、ここにMahāsī Sāsana Yeiktha Meditation Centre(マハーシ仏教瞑想センター)を設立。彼により、特にヴィパッサナーを強調した、マハーシ流の着想と方法でもって、といってもそれは前述したミングン・セヤードーから教授されたDhātumanasikāra(界分別観)を本とするものですが、僧俗に教授し実践させるのを布教の手段としていきます。

ビルマ在家信者らの仏教への関わり方の一大変革

これが次第に、それまでいくら熱心に信仰していたところで仏教との関わりといえば布施をし経を唱える程度に留まっていた、世間の人々から大きな支持を得ていきます。

ミングン・セヤードー以来、人々が修行する門戸は細々と開かれていましたが、ウ・トゥウィンの潤沢な資金的援助と、初代首相の座についたウ・ヌーすなわちビルマ政府の全面的後援もあって、その門がここへきて非常に拡大したのです。これが、ビルマの在家の人々と仏教との関わり方に大々的変化をもたらした大きな力となった、とすら言いえるものでした。

その後、ウ・トゥウィンやウ・ヌーら後援によって、国内だけではなく海外にもマハーシ流ヴィパッサナーによる布教活動を精力的に展開。マハーシ・セヤードウは、インド、セイロン、日本、アメリカ、ヨーロッパ諸国などを直接訪れ、その当初の規模自体はともかくとしても、彼の「ヴィパッサナーこそ」という運動は成功し、世界的なものとなっていきます。また以降、そのようなマハーシの成功にならい、他の僧や在家の者でもそれぞれ独自の技法をもって瞑想を指導するセンターが、飛躍的に全国に設立されていきます。

1982年、三十二年間「ヴィパッサナー運動」に身を捧げ、多くの弟子たちを育てたマハーシ・セヤードウが逝去します。彼の葬儀は国葬あつかいとなり、ビルマでもおよそ前代未聞といえるほどの規模をもって行われています。

さて、マハーシ・セヤードウは、その在世中から声聞の聖者の階梯の一つである預流[よる](あるいは阿羅漢)であるに違いない、と周囲の弟子や信奉者達から信じこまれており、今もそのように信仰する人が多数あります。その信奉者達には、長老が伝統的修道法を斟酌し再構成したと言える彼流の修道論を、「伝統的修道法」あるいは「ブッダの瞑想法」などと謳い、宣伝する者があります。

また、マハーシ・セヤードウ亡き後、その直接指導を受けた弟子やその孫弟子にあたる比丘には、長老の思想・方法論をベースに、さらに自分たち独自の着想でもって瞑想法・指導法を編み、各地に瞑想センターを構えている者が多くあります。

彼の直接の薫陶を受けた直系の弟子の中で、マハーシ・セヤードウの方法にさらに独自色を加味し、自ら瞑想センターを構えてその指導者となり、ビルマ国内だけにとどまらず国際的に知られるようになった者と言えば、Shwe Oo Min Sayādaw[シュエ・オ・ミン・セヤードウ](僧名:Kosala; 1913–2002)やPandita Sayādaw[パンディタ・セヤードウ](僧名:Pandita; 1921-)、Chanmyay Sayādaw[チャンミ・セヤードウ](僧名:Janakabhivamsa; 1928-)です。

また、マハーシ・セヤードウらの成功に影響され、というと語弊がありますが、その瞑想センターのありかたをモデルとしつつ、しかしそれとは異なった着想・手法をもって開設され、現在に至るまで有名となっている僧があります。

写真:モーゴウ・セヤードウ

Mogok Sayādaw[モーゴウ・セヤードウ](僧名:Vimala; 1899-1962)です。彼はもともと阿毘達磨に通じた学僧で、その故もあるのでしょう、はじめから十二縁起を瞑想の対象とすることを特に強調した瞑想法を考案し、後進を教導していました。

この点からすると直接マハーシ・セヤードウの影響下にはない人ですが、「ヴィパッサナーこそ」という主張をした点では同様です。また、これは十二縁起にも関連することであり、またマハーシが身念住を特に強調していたのにある意味対抗してのことかもしれませんが、心念住をこそ強調する手法をとっています。

モーゴウ・セヤードウが逝去され荼毘に付されたあと、その遺骨に奇瑞の相があったことから、「彼はやはり阿羅漢であった」と人々から噂され、信じられて、その舎利は非常な尊敬をもって今も祀られています。

そしてまた、晩年出家でしかも文盲でありながら、世間から阿羅漢であると信奉されるまでに至った、Sunlun Gu Kyaung Sayādaw[スンルン・グー・チャウン・セヤードウ](僧名 ; 1878–1952)です。

今も彼らの系統の瞑想センターが、弟子達によってその思想・手法が継がれ、それぞれビルマ各地に展開しています。とは言え、数の上で言えば、ビルマにおける瞑想センターの半数以上がマハーシ系統のもので他を圧倒しています。

そのような、戦後の独立と共に起こったビルマの新運動は、現在に至ってはさらに様々な主張・手法が見られるようになっています。その中には、もはやただ単に、多くの指導者が乱立する状況にあって、その独自性を打ち出すためだけに他とは変わったことを説いているのではないか、とすら思える中身のアヤシイ者もみられます。しかし、いずれにせよ、それが「ヴィパッサナーこそ」という、止の修習をほとんど全く説かず、観の修習をもっぱらに主張する流れであるという点では変わりはありません。

このマハーシ・セヤードウらによる瞑想運動が成功した影響は、まず隣国タイに伝播し、タイにおいても同じような形態で瞑想を行わせていく僧の出現を見ることになっていきます。

スリランカに関しては、英国などの植民地であった一時期、サンガが完全に滅びて無くなり、またサンガが復興されて以降であっても、第二次大戦が終わるまでの英国による植民地支配政策によって瞑想どころではありませんでした。故に、その昔はスリランカが分別説部の本拠地であったにも関わらず、独自の瞑想の伝統というものがありません。

スリランカもタイに同じく、大戦後のマハーシ・セヤードウ一派などの指導や影響によって、ようやくまた瞑想が一般にも行われだした所です。近年は、律について非常に弛緩している僧がその大勢を占めている状況に対し、律を厳しく持って森林において生活する集団が誕生しています。

彼らは決してスリランカの主流派になりえず、また表に出てくることもありませんが、律を厳持しつつ、瞑想に励む日々を送っています。

マハーシ流を否定する流れの勃興 ―パ・アウ・セヤードウ

写真:Pa Auk Sayadaw © Horakuji(転載厳禁)

ただし、そのようなビルマでのヴィパッサナー新運動の流行にいわば対抗する人として、モン族のPa Auk Sayadaw[パ・アウ・セヤードウ](僧名:Acinna;1934-)があります。

1981年、彼は南ビルマはMawlamyine[モーラミャイン]の外れにあるPa Auk Tawya[パ・アウ・トーヤ]を、先代住職の死去によって継ぐこととなり、ここに彼は自身を指導者とする瞑想センターを設立。ここから、彼流の運動が開始されていくこととなります。

それはマハーシ流に対して全く異なる、いわばそれに対向する一大潮流となっていきます。

なお、Taw[トー]とはビルマ語で「森」を意味し、Tawya(-kyaung) [トーヤ(チャウン)]とすると「森の中の寺」が意味されます。幾多の仏典がそのような場所で修禅に励むべきことを説いている、パーリ語で言うところのarañña[アランニャ]、漢訳では音写語で阿蘭若[あらんにゃ]という、すなわち森林・空閑処を意味する語です。

さて、そこで彼は、五世紀中頃のセイロンで著されたと思われる分別説部で最も権威ある(というよりも唯一無比の)修道書、Visuddhimagga(『清浄道論』)に厳密に則った方法で、戒律の厳守なしにはサマタの成就は無く、またサマタの成就なしにヴィパッサナーなどあり得ないとする指導をなしています。

これは、マハーシなどによる、典拠無しとまでは言えずとも経論の説に沿ったものとは必ずしも言えない「新しい独自の手法」に対し、経論に説かれる修道法に「文字通り」従おうとすることを旨としたものです。それはいわゆる「如説修行」であるにはあります。ですが、しかし、私見ながら、それが度を過ぎて極端とも思えるほど厳密なために、むしろ彼の一門は教条主義の権化とさえ評し得るものとなっています。

とはいえ、ビルマの僧伽の規律、僧らの戒律の実修状況が、その全体としてかなり弛緩してきている現代。パ・アウのそれは、一昔前にシュウェージンらが行ったような、ビルマの僧伽を再び引き締めんとする運動であると見ることも出来るでしょう。

さて、その双方の修道法や思想の根本的異なりから、しばしばパ・アウの門徒とマハーシ一門などその他の系統の僧徒らは、今はそれが目立って表面化することこそありませんが、影では互いに批判しあって決して認め合わないなど、甚だ反目しています。彼らの中で指導者となっているような立場の僧らは、互いに同じ場で会うことすら嫌い、避ける程に至っています。

例えば、公の場所・私的な場所を問わず、なるべくその双方が出会わないよう、側仕える在家信者らが気を使わなければならないし、現実使っているほどです。むやみに互いが同席させられようものなら、まず在家信者がかなり叱責されてしまう。たとえば、シュエ・オ・ミン・セヤードウの後継者として活動している、ある瞑想指導者などは、彼と席を同じくしているときの写真を公開されることさえ嫌ったほどです。

しかし実は、これは彼本人から直接聞いたことですが、パ・アウ自身、若かりし頃はマハーシやパンディターラーマの元にて懸命に修行していた。けれども、それらの方法では決して悟れないと、畢竟その思想と手法とを全く否定。そこで『清浄道論』の所説に厳密にしたがった術を取ることを決心し、(特に師なくして)そのように始めたのである、ということです。

それまでのビルマにおいて、『清浄道論』がまったく学ばれず顧みられていなかったなどということはありません。必ず学ばれはしていた。が、そのような『清淨道論』に全面的に従うという手法は、実は彼から大々的に初められたことです。故に彼の流儀は、それをビルマの人々は決して認めようとはしませんが、「古来ビルマで脈々と行われてきた」などといったものではありません。

しかしながら、ミャンマーにてこれを指摘されることは非常に嫌われます。そして、そのような意見を瞑想指導者などに対して開陳することは、ビルマにおいて甚だ非常識と言って良い行為で、たとい言ったとしてもまず否定されるでしょう。

さて、そもそも彼が今のように有名となるその出発点が、いわばマハーシ系統の「ヴィパッサナーこそ」という思想と手法の全くの否定であったのです。故に、その双方が反目し対立するのも無理からぬことと言うべきでしょう。

現在はパ・アウの系統もビルマで非常に著名となり、ビルマ人らの間では「パ・アウと言えば、禅定そして神通力を得られる」「我が過去世を見ることが出来る」、あるいは「パ・アウ・セヤードウこそ、律を厳しく守らんとする、本来のシュウェージン派の僧」などと一般に認識されるようになっています。マハーシもシュウェージン派の僧だったのですが。

今やモーラミャインのパ・アウ瞑想センターは、ビルマ国内最大にして最多の修行者(比丘だけでも多い時には千人以上)を抱えるまでになり、またその支院が彼の弟子を指導者としてビルマ国内に数カ所ながら展開し、さらには海外にもその支院が設立されています。

また、彼の特に「金銭に決して触れない」ことを初めとする、律を厳しく護らんとするその態度や、『清浄道論』の所説に文字通り従おうとするその修習法は、特に大陸の支那人や東南アジア諸国の華僑らからの強い支持を獲得しています。

忌憚なく言ってしまえば拝金主義的思考を多分にもつ彼ら支那人らには、パ・アウ一門による特に金銭に触れないという生き方は実に驚くべき、しかしながら、であるが故にむしろ尊く敬すべきと感ぜられる、ということがあるのかもしれません。さらにまた、仏教に対する信仰を再び持ちだした大陸の支那人などは、特に禅に達したならば得られるという神通力(中でも宿命通)に対し、非常なる興味を抱いている者が多くあります。

そのようなこともあって、今やパ・アウのそれは、ビルマで最も裕福な瞑想センターの一つとなっています。

が、その結果、モーラミャインのパ・アウ瞑想センターは、近隣の村辺よりずっと人が多くあって、その者らの為の鉄筋コンクリートの建築物が寄進によって無闇に乱立するようになって騒がしく、もはや「トーヤ」などと言いがたい様相を呈し始めています。

そもそも彼らの信奉する『清浄道論』では、修行するに避けるべき場所として列挙する中、そのような大僧院を第一に挙げています。このような事態はまさしく「人の世の習い」というべきでしょう。皮肉なものです。

(『清浄道論』の推奨する、瑜伽に適した場所については“前方便”を参照のこと。)

なにか建築物を建てるにあたって、たといそれが(一応パゴダは別であるとして)宗教関係のものであっても、なんらか理をもった建築思想などかけれも用いられず、環境との調和や統一性など一顧だにされずに、ただ開いている土地と資金とがあればとにかく適当にドシドシ作ってしまうのです。

何をするにつけても後々のことをまるで考えようとしない、近年の(?)ビルマの国柄、ビルマ人らの性癖です。

ゴエンカ流ヴィパッサナー運動

写真:S.N.Goenka

在家の瞑想指導者としては、世界で近年最も著名であった、とすら言えるようになったゴエンカについて、彼はどのように瞑想指導者となっていったのか。

彼は、一世紀程前のビルマにおいて稀代の大学僧として世界に名を馳せ、当時から日本の仏教学者らにもその名を広く知られていた、Ledī Sayādaw[レディー・セヤードウ](僧名:Ñāṇadhaja; 1846-1923)を信奉していた在家信者U Po Thet[ウ・ポー・テッ](1873-1945)の生徒、U Ba Khin[ウ・バ・キン](1899-1971)からヴィパッサナーを仕込まれ、習得したのだと自ら明かしています。

ところで、ビルマ人男性らの名前の頭に冠せられるU[ウ]とは、ビルマにて僧俗問わず用いられる男性の敬称です。それは、英語で言うならば一般男性の場合はMr.、僧侶の場合にはVen.(=Venerable)、あるいはRev.(=Reverent) に該当します。

また、特に僧侶の場合、時にUを用いず、比丘であればAshin、沙弥であればShinと、その立場を明確とするための敬称を名前の頭に付すことも一般に行われます。

さらに話しついでとなりますが、女性の場合はDaw[ドウ]。また、その年が比較的若い男性の場合はMaung[マウン]、女性の場合はMa[マ]がその名の頭に付せられます。故に、例えば日本語でウ・バ・キン氏といい、あるいは英語でMr. U Ba Kinなどというのは、甚だおかしな呼称となります。

さて、ゴエンカの師とされるウ・バ・キンは、ビルマ政府の会計検査局長など数々の要職を務めた高官であった人です。そのような彼が、まず瞑想に触れるきっかけとなったのが、まだ役人としてそれほどの地位になかった鉄道局の会計官を勤めているとき、ふとした縁でウ・テイ・ラインのもとを訪れ、ヴィパッサナーを教授されたことであったといいます。

この時、それまで瞑想などしたことがなかった彼であったけれども随分と得るものがあり、以降、彼は仕事の傍らながら、その修習に励むようになっていった、といいます。

1941年のある日、彼はまったく偶然にも、北ビルマでは阿羅漢であるともっぱら噂されていたという、Webu Sayādaw[ウェーブ・セヤードウ](僧名:Kumārakassapa; 1896-1977)に接する機会を得ています。そのおり、これぞ千載一遇の好機と、セヤードウから瞑想についていくつか質問されるなどやりとりをしたところ、セヤードウから驚きをもってその知見を認められ、すぐにでも人々に瞑想指導をすべきであると申し付けられた、といいます。

その後、彼は役人としてますます出世していきながらも、その合間にセヤードウから申し付けられた通り、少数ながら部下や周囲の者らに瞑想を指導するようになったといいます。

ただ、それも一家を支える大黒柱として、役所の高官として働いている間のこと、指導などといってもそれほど打ち込んだわけでもなく、またその時間も無かったようです。しかし、彼が地位も高くなり子供も大きくなって時間に余裕ができたこともあるのでしょう、1950年に部下など身近な者達にヴィパッサナーを教授する目的で個人的な会を、役所の事務所内に創設。

続いて1952年、ただ身近の者だけではなくより多くの人々に瞑想を教授しようと、これはすでに成功を収めていたマハーシ瞑想センターにも影響されてのことであったに違いありませんが、The International Meditation Centre (Rangoon) を設立。役人仕事の傍らながら、自らその指導者となり、瞑想指導に打ち込むようになっています。そこにはビルマ人だけではなく、若干ながら海外からの参加者もあって、名前通り一応国際的なものでした。

また、1954年から'56年には、ビルマ政府の大々的な後援のもと開かれ、前述したマハーシらも参加した、第六結集にも有力な在家居士として参加。その会計の責任者ともなっています。

さて、ウ・バ・キンがそのように活動している中、何の縁によってかは定かではありませんが、彼の瞑想センターが開かれて最初期に参加するようになったのが、ゴエンカでした。

ウ・バ・キンに同じく、もともと非常に短気で怒りっぽく、何か気に入らないことがあれば平気でまわりに怒鳴り散らすような、甚だわがままな性格であったというゴエンカもまた、瞑想によって得られる平静さに感じるものがあって、次第に熱心に修行するようになったといいます。そして、ゴエンカが印僑であったこともあり、多くの印僑たちに彼の瞑想センターを紹介し、彼のヴィパッサナーの教えに導いていったといいます。

そのようにウ・バ・キンのもとで彼流のヴィパッサナーを修めているうち、師であるウ・バ・キンが、ヴィパッサナー誕生の地でありながら滅びてしまったインドに、再びこれをもたらしたいとの志があることを聞きます。そして、それを彼の代わりに行うのはゴエンカであると。1969年のことです。それは彼からゴエンカへの遺志となったのでした。

ところで、ウ・バ・キン亡き後、彼のThe International Meditation Centreは、一応海外に支部が作られるなどしはしているものの、ゴエンカ教団の隆盛もあって全く目立たないものとなっています。

現在、そのヤンゴンの本部というべきセンターは、まったく弛緩した、忌憚なく言うとだらしない空気の漂うただの宿舎の如きものとなって、およそ瞑想に適した場所とはかけ離れたものとなっています。そもそも、今やその周囲がロヒンジャ〈Rohingya. ベンガルからの不法移民。日本では「ロヒンギャ」などと発音されるが誤り 〉などが多く居住する、スラムに等しい雑多で喧しい環境となっているのです。

さて、ゴエンカは、彼をそれほどまでに深く尊敬していたのでしょう。また、ゴエンカが印僑でヒンディーを解して流暢に英語を話せ、またインドと商売をしていたため比較的行き易いということもあったのでしょう。ゴエンカは彼の言うとおりインドに移ってしばらく後、ビルマ以来一定の成功を収めていたという商売を辞め、夫婦揃ってヴィパッサナーを世に紹介し、コース参加者への指導のみに打ち込むようになります。

そして、ゴエンカの地道な活動に依って、そのヴィパッサナーへの支持者・信奉者を、次第に獲得していきます。

VIA ―瞑想ビジネスの完成形

やがてゴエンカとその支持者らは1974年、西インドはMumbai[ムンバイ]郊外の小さな町Igatpuri[イガトプリー]に、20 acre(約81,000㎡)の土地を購入。ここをDhamma Giri[ダンマギリ](真理の山)と名づけています。

そしてついに1976年、指導者ならびに参加者にとって必要な最低限の施設を整え、この山では最初となるコースを開始しています。ここがやがて彼らの活動の一大拠点、本部となります。

今やそれは、Vipassana International Academy (VIA) なる組織として、世界各地に展開して活動するまでに至っています。1985年にはまた、ゴエンカは、その活動の一環としてThe Vipassana Research Institute (VRI) という組織も立ち上げています。

これは、いわばゴエンカのヴィパッサナー教団(VIA)による広報・出版などを担当する組織です。寄付を集め、その資金に依ってビルマで行われた第六結集によって校訂・編纂されたパーリ三蔵ならびに蔵外仏典の出版やその電子化・ソフトウェアー開発など、仏教を学ぶ者にとって大変に有益な仕事がなされています。

また1997年には、ビルマのシュウェーダゴン・パゴダを模した、その中で大勢が瞑想できるようにした巨大な建造物を、世界中から集めた莫大な寄進によって建設しています。

それにしても、彼らの信条・主張からして、わざわざ仏教の象徴であると言えるパゴダすなわちStupa[ストゥーパ](卒塔婆・佛塔)を、それもビルマのシュウェーダゴン・パゴダを模した一等巨大なのを建設したのは、少々不可解です。ただ単に、彼がインド人とはいえビルマで育ったため、という理由なのかもしれませんが。

ところで、自身の法脈、いわゆる嗣法相承がどのようなものであるかを明確にすることは、律や密教、禅など仏教通じて行われることです。それは、自身の保持する伝統あるいは見解の正当性の、一大根拠となるものであるためです。

ゴエンカもまた、要はこのような伝をもって、いわば自身の「法脈の正当性」を主張しています。けれどもそれは、それほど過去に辿れるものではなく、前述したようにレディ・セヤードウを起点として主張されているものであって、それ以前に言及されることはありません。

けれどもまた彼は、「(ゴエンカが伝え教える)ヴィパッサナーこそが、釈尊を含めた往古からの諸仏の瞑想である。けれども、それは、仏滅後まもなくインドでは滅びてしまった。しかし、幸運にもそれ以前に唯一ビルマに伝わっていたため、現在の私ゴエンカに至るまで、ビルマでのみ連綿として途切れることの無かった」などといった主張をしています。

また彼は、「ブッダは、なにか宗教といわれるような派閥主義的・教派主義的なものや特定の教義(ドグマ)など説かれはしなかった。仏陀が説かれたのは、ただ万人に普遍の真理であった」とした上で、「ブッダの説かれたヴィパッサナーとは、脱宗教あるいは脱教派主義の、科学的ですらある、心を育て苦しみから逃れる瞑想」などとして世に紹介。

これはビルマのマハーシが、あくまで上座部(テーラヴァーダ)の範疇で布教していたのとは大いに異なっている態度です。その実際はほとんど全面的に上座部の教義に基づいていながらも、「特定の宗教など関係ない。真理は万人に開かれ普遍であるから、これを見て体験するには、自らの宗教的・思想的信条をわざわざ持ち出す必要はなく、むしろそれは障碍となる」という態度です。

彼のそのような態度は、むしろ国際的により支持され、瞑想ブームとキリスト教離れ、いや、宗教そのものを嫌悪する傾向の加速する西洋での時勢も手伝って、インドはもとより欧米にて多数の信奉者・支持者を獲得するに至ります。繰り返しとなりますが、いまや世界各地に大変多くの支部が建てられ、まさに隆盛しています。

そのようなことから、彼の信奉者たちは、彼ゴエンカこそ、そのヴィパッサナーを釈尊(ヴィパッサナー)誕生の地インドに再びもたらした、いわば偉大な英雄であるといいます。

何故か日本でこそあまり知られていない人でありその組織ですが、今や南アジアはもとよりヨーロッパそして南北アメリカ大陸で、瞑想に興味を持つ者で彼の名を知らない者など無い、と言っていい程までのものとなっています。

人の性 世の習い

ところが、脱宗教・脱教派を旗印としていたはずが、それは今も変わりないのですが、彼の信奉者らの実際の態度やあり方は、あたかも「ゴエンカ教」「ゴエンカ教徒」のごとき様相を呈するようになっています。

彼に傾倒する信奉者には、あるいはその根拠としている仏典についてや伝統的理解や修道法への知識の欠如や不足していたり偏向していたりすることがあるためなのか、排他的傾向すら見られるようになっています。

ゴエンカの、Sectarian(派閥主義者・教派主義者)をいわば悪と見なして排除する主張と、ヴィパッサナーだけ行えば良い、という彼の「教義」とが相まって、むしろ逆に強い排他性を生みだし、結果的に強力な教派の如きものを形成するに至ってしまったのかもしれません。まさしく「人の営み」というものでしょう、否定的な意味で。

実際その言葉とは裏腹に、彼は、その深く入り込んだ信奉者達には、いかなる宗教的行為はもとより、自分が教えている方法(ゴエンカ流ヴィパッサナー)以外の瞑想法など、自分が許可していない行為を行うことを、これは組織を一枚岩に保つための措置・規則でもあるのでしょうけれども、一切禁止するなど縛りをきつくしています。

しかし何故か、それがたとえパーリ経典の読誦であっても、いかなる儀礼・祭儀行為も排除しているはずのゴエンカ教団において、開祖ゴエンカだけは信者らの前で揚々とパーリ経文を唱えるのでした。信者たちは、忌憚なく言ってしまえば、彼による気味の悪い低音と酷い調子で唱えられるパーリ仏典の読経を直接、あるいは録音したテープなどによって、問答無用でわけも分からずじっと拝聴しなければなりません。

実に面白いことに、ゴエンカ教団におけるほとんどの者は、彼が一体何を唱えて、自分たちが何を聴かされているかをすらまるで知りません。

これは余談となりますが、彼は一時期、阿羅漢を飛び越し、自分のことをなんとしたことか釈尊についで現れる未来仏たる弥勒仏であるに違いない、自分は仏陀だ、と思い込むようになり、側近に吹聴していました。が、後に「どうやら違うようだ」と撤回したといいます。

もう少しで、過去に実在したという支那僧の布袋[ほてい]と未来仏としての弥勒仏とが習合し、支那から東南アジアの華僑の間で崇拝されているような、華僑・印僑好みのデップリとしてブクブクに太った弥勒仏が、彼ら教団内において誕生するところであったようです。

現在、もはや彼は逝去してありませんが、一部の信者からは、彼は仏陀ではなく阿羅漢であった、ということで落ち着いていると言います。

増上慢 ― Abhimāna

しかしながら、そのようなことを、彼だけに起こるようなことなどと嘲笑い、他人事であるなどと決して思ってはいけない。

往々にして永く修禅を続けてきた修行者は、そのような錯覚に容易く陥ってしまうためです。いわゆる「増上慢」です。

実際、指導者として有名になると、ほとんどの人が何かしらこれと同じような錯覚に陥ります。指導者でなくただの修行者もまた、少々修行によって得たものがあったならば、たちまち師匠面や指導者面をしたくなるという思いがムクムクと生じるようです。

また、その弟子は弟子らで、自らが師事する我が師こそ尊く、その教えは他に勝れて尊いなどという考えを持ちがちであり、実際多くの修行者がそのような考えを持つようです。そのような弟子たちの師への思いもまた、その師の増上慢をさらに増長させてしまう要因となってしまいます。師は敬すべきであり、信頼すべきではあって、その所行や所説を常に一々疑ってかかっているようでは、その本人が成長することはないでしょう。

が、なにごとも行きすぎてしまう。

何故か。何故に、多くの修行者というものが、そのようになってしまうのか。

人というものは、人の心というものは、そのようなものだからです。だからこそ、人は修行するのですが、得てしてこのような本末転倒の事態が生じます。人とは面白いものです。

故に、瑜伽を修習する人は誰であれ、これを他人事であると思わないほうが良いのです。

たとえば、ある人が、諸々の経典をよく記憶しており、さらに阿毘達磨などに精通し、仏教の見地からの心の構成やその働きなどを、他によく説くことが出来ていたとしましょう。では、それでその人が、そのような自らに生じた慢心などをたちまちに知り、それを容易く超克することが出来るのか。現実を見渡す限り、それは否であると言わざるを得ません。それらはまったく、というと語弊がありますが、別の事であるためです。

「八風に動ぜず」はもちろん理想です。が、世間の毀誉褒貶という風は、それぞれ大変な暴風であって、多くの場合、人は簡単に吹き飛ばされてしまうでしょう。

けれどもいくら飛ばされたとしても、自らが飛ばされたことを知ったならば、また立ち直ってその風に対してゆけば良いでしょう。人は間違えるものであり、そしてその間違いを正すことも出来るものでしょう。しかしながら、

自らを正すには、まず自らの間違いを認めることからはじめなければなりません。が、その間違い、譬えば自身の見解への執着であるとか、人々に尊敬されたことなどによって生じた慢心であるとか、そのようなものを、自らがその内に認め、これを正すのは、生半可なことではありません。

そして、そのような自身の心の状態を、「観察」しようという方向に、彼ら「ヴィパッサナーこそ」などという人々は、なにも特に彼らだけのことでもありませんが、なかなか赴くことはないようです。

一向という狂気 ―「ヴィパッサナーだけ」という誤解、そして盲信

今、巷間に流行する「ヴィパッサナーこそ」という思想は、いずれも大戦後のビルマを起源としているものです。そしてそれは今示したように、ここ半世紀ほどの間に国際的に広まった新しい運動の中で生み出されてきたものです。

今やビルマ発祥のこの思想が流行し、時代に支配的となったことにより、「ヴィパッサナー(観)の瞑想だけ修しさえすれば悟りに至り得るのだ。サマタの瞑想は仏教外の瞑想であり、多くの場合、有害な、仏教の修行者には不必要の瞑想である」などと、世間で盛んに宣伝する者が数多く現れています。

実際、俗世間では、その様に認識してしまっている人が大変多いようです。観の瞑想、ヴィパッサナーこそが「純粋な仏教の瞑想」・「仏陀の瞑想法」であり、それこそが、それだけ行うのが正しい道だと。

近年の日本での場合は、性急に独自性を打ち出さんとしたためか、そのような主張を(残念なことに)過激に、攻撃的ともいえるほどに盛んにし、それをむしろ布教の手段としたような拙い輩らの影響にも依るものでしょう。

確かに、止の瞑想は、仏教以外の宗教でも行われてきたものと同類のものである、と言うことができましょう。が、最近の流行として言われているように「ヴィパッサナー(観)の瞑想だけで良い」のかといえば、これは仏陀の教えの大乗・小乗の別を問わず、その様なこととは決してされていません。

往々にして、「これだけが本当」・「これでないと駄目、他は無用なゴミ」などといった種類の言は、そしてそのような言を振るう者は、人に魅力的に感ぜられることがあるようです。

実際、日本でも中世、特に鎌倉期にはそのような言をふるって世の支持を次第に集め、むしろ社会に混乱をこそもたらしたような者もありました。それは、社会の変革期にあった人々に、新しいものに対する期待や希望、それによる精神的救いを与えるものであったのかもしれません。が、それと同時に、むしろその信条に由来する、他との果てなき確執と闘争とをももたらしたものでもありました。

「ヴィパッサナーさえ行えば、悟りに到る。ヴィパッサナーこそ純粋な仏教の、まことの悟りへの瞑想である」、「ヴィパッサナーさえ行えば、サマタなど不要」などといった主張は、熱病に犯された者のうわごとのようなものです。

これはもはや、日本でいうならば、たとえば『法華経』や浄土教を「純粋に信仰」するのと同種の、狂信であると見てよいもの。

「仏教には諸経あるとはいえ、しかし『法華経』こそ絶対至高の教えを説くものである。故にこれをのみ信仰して、その教えに従えば云々」、あるいは「このような理不尽な時代、社会にあっては自分がどれほどに努力しても畢竟無駄なこと。ここはひとえに阿弥陀の救済をこそ信じて云々」、はてまたは只管打坐などと「ただひたすら座れ」などという同様の放言と、同一視し得るものです。

近世の慈雲尊者が言われた「一文を採りて万経を捨てる」とは、そのような態度を持つ者らに対する批判の言葉です。

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2.止観双運

伝統的見解

世間ではあれこれと言われているものの、実際はどうであるのか。

それはむしろ、現在「ヴィパッサナーこそ修められるべきである」と主張する者らが多く出た、分別説部それ自身の聖典を見ることに依って、まったく明らかとなるでしょう。

Dve me, bhikkhave, dhammā vijjābhāgiyā. Katame dve? Samatho ca vipassanā ca. Samatho, bhikkhave, bhāvito kamattha manubhoti? Cittaṃ bhāvīyati. Cittaṃ bhāvitaṃ kamatthamanubhoti? Yo rāgo so pahīyati. Vipassanā, bhikkhave, bhāvitā kamatthamanubhoti? Paññā bhāvīyati. Paññā bhāvitā kamatthamanubhoti? Yā avijjā sā pahīyati. Rāgupakkiliṭṭhaṃ vā, bhikkhave, cittaṃ na vimuccati, avijjupakkiliṭṭhā vā paññā bhāvīyati. Iti kho, bhikkhave, rāgavirāgā cetovimutti, avijjāvirāgā paññāvimuttī'ti.

比丘たちよ、これら二つの法は智〈vijjā〉に連なるものである。何が二であろうか?止〈samatha〉と観〈vipassanā〉とである。比丘たちよ、何が止を修することの果報であろうか?その心が陶冶される。心が陶冶されることの果報はなんであろうか?いかなるものであれ貪欲〈rāga〉が捨て去られる。比丘たちよ、何が観を修することの果報であろうか?智慧〈paññā〉が増上する。智慧が増上することの果報はなんであろうか?いかなるものであれ無明〈avijjā〉が除滅される。比丘たちよ、貪欲に汚れた心では解脱することはない。無明に眩まされては智慧が増上することもないのである。まさにこの故に、比丘たちよ、貪欲のないことが心解脱〈cetovimutti〉であり、無明のないことが慧解脱〈paññāvimutti〉である。

AN, Dukanipātapāḷi, Bālavaggo 32

[日本語訳:沙門覺應]

ただ観の瞑想だけを修めよ、観こそが優れた瞑想である、などと主張する伝統説など、大乗・小乗のいずれにも、またパーリ仏教圏、チベット仏教圏、漢語仏教圏のいずれにも存在しません。大乗・小乗のそれぞれの伝統において、止と観とを共に修すべきことが説かれ、各々その術を論書の中などで詳細に伝えています。

いや、そもそも止と観とは、今言われるように、経典の中でそれぞれ全く別々に説かれるようなものでもなかった。

止と観との瞑想の関係は、小乗において鳥の翼などに例えられ、大乗の伝統においては、しばしば車の両輪または同じく鳥の両翼に譬えられます。あるいは、これは伝統説ではなく、私が個人的によく用いる喩えですが、止と観との瞑想の関係は、以下のように喩えることが出来るものです。

止の瞑想は、人が高い場所にあって背伸びしただけでは届かないモノを跳んでつかもうとするときの脚であり、観の瞑想は、そのモノをつかむ腕である、と。ただ跳ねるだけでは高くは届かぬ脚を、鍛錬によって高く跳躍出来るようにするのが「止」であり、掴みがたい目的のモノを逃がさぬよう正確に我が掌中にせんとするのが「観」です。

さらに言うならば、瞑想を修める前提として「戒」を保つことは、跳び上がる以前に、それまでの普段の生活でタップリと付きすぎた贅肉(悪業・悪習)を削ぎ落とす為の減量であり、あるいは贅肉がまた再び付かないようにするための、または基礎体力をつけるための訓練です。

止の瞑想だけ行っても、高く飛び跳ねるようになって心地良くなるかもしれませんが、それも一時のこと。その高みに久しく留まることは出来ません。程なくして、もといた地面に引き戻されます。観の瞑想だけ行っても、その辺の何かを手にすることは出来て、何事か掴んだ気にはなるでしょう。しかし、高い場所にあるモノを掴み取ることなど出来ません。

止の瞑想によってより高く跳躍し、観の瞑想によってその高みにあるモノを掴み、それを手にしつつ、またこの地に着地するのです。

止観双運

これらの喩えによって示されるように、あるいは示したように、止観のいずれか一つを行えば良い、いずれか一つさえ修せば悟りに至るのだ、と言う様なものでは決してありません。

たとえば、南方の分別説部(上座部)がパーリ語によって伝えてきた、Dhammapada(法句経)ではこのように説かれます。

Yadā dvayesu dhammesu, pāragū hoti brāhmaṇo;

Athassa sabbe saṃyogā, atthaṃ gacchanti jānato.

バラモンが、二つの法〈止観〉について完成したならば、彼は「知る者」であり、そのすべての束縛は消え失せる。

KN, Dhammapada, Brāhmaṇavaggo 384

[日本語訳:沙門覺應]

また、漢語仏教圏にて大乗のいわば入門書として盛んに依用されてきた、『大乗起信論』ではこのように言われます。

是止觀二門。共相助成不相捨離。若止觀不具。則無能入菩提之道

これら止観の二門は、相互に働きあうものであっていずれか一方が否定されるものではない。もし(行者が)止と観とを具えていないのであれば、悟りの道に入ることは出来はしないのである。

馬鳴 『大乗起信論』 (T32, P583a)

[日本語訳:沙門覺應]

さらには、支那の隋代以来、天台だけにとどまらず多くの宗派の門徒らに読まれてきた、簡にして要を得た優れた修禅の入門書、『修習止観坐禅法要』いわゆる『天台小止観』では、このような喩えをもって止観を説きあらわしています。

當知此之二法如車之雙輪鳥之兩翼。若偏修習即墮邪倒。故經云。若偏修禪定福德。不學智慧。名之曰愚。偏學知慧不修禪定福德名之曰狂。狂愚之過雖小不同。邪見輪轉蓋無差別。若不均等此則行乖圓備。何能疾登極果。

まさに知るべきである、この(止と観の)二法は車の両輪、鳥の両翼のようなものであることを。ただ止観の一方だけを修習したならば、誤った道に堕ちるであろう。故に経にこう説かれている、「もし偏に禅定・福徳(檀那・持戒・忍辱・精進の四波羅蜜)を修して、智慧を学ばなければ、これを名づけて愚という。偏に智慧を学んで禅定・福徳を修めないのは、これを名づけて狂という」と。狂と愚との過失は、(互いに)少々異なったものであるが、それが邪見であり、輪廻を継続させるという点で、まったく違いはない。もし、均等にこれら(止観/六波羅蜜)を修めることがなければ、そのような修行は満足なものではない。どうして最高の解脱に達することなど出来ようか。(そのような修行では解脱することが出来ないのである。)

智顗 『修習止観坐禅法要』 (T46, P462b)

[日本語訳:沙門覺應]

小乗の門人であれ大乗の門徒であれ、悟りを求める者は誰であれ、止と観との二つの法を修めなければなりません。これを伝統的に、これは唯識の代表的論書『瑜伽師地論』での玄奘三蔵法師による漢訳語ですが、止観双運[しかんそううん]と云います。サンスクリットのśamathavipaśyanā yuganaddhaの訳語です。

止の瞑想によって得た三昧、定の力をもって、観の瞑想が良く成され、人は智慧を磨いて真理を悟っていくのです。また、すべてのものがそうであるように、人の心身はまったく不安定で揺れ動くものです。その周囲の環境などにも大きく左右されるものです。修行者は、ある場合には止の瞑想により、ある時には観の瞑想によって、その不安定な心身に対処する必要があります。

そのいずれか一方の瞑想だけを行うことに、全く意味など無い、とまでは言えません。が、それら双方を行うことが、止の瞑想を修め観の瞑想を行うことが、仏教の瞑想の特色であり、大乗・小乗に通じた伝統的修道法です。

止と観の瞑想は、それぞれ優劣を付けられるものではありません。

一体どうして、車を走らせる左と右の車輪のうち、どちらが優れており、劣っているなどということが言えるでしょうか。大地から空に飛翔せんとする鳥が、翼なしに、あるいは片方の翼だけで羽ばたき飛ぶことが出来るでしょうか。その双方がなければ、仏教という道を走ることは出来ず、涅槃という大空に遊ぶことは出来ないのです。

以上のことを理解し踏まえた上で、これは特に止観についてのみ述べられていることではありませんけれども、またこのような言葉も我が胸に刻みつけておいたが良いでしょう。

輸波迦羅三藏曰。衆生根機不同。大聖設教亦復非一。不可偏執一法互相是非。尚不得人天報。況無上道。或有單行布施得成佛。或有唯脩戒亦得作佛。忍進禪慧。乃至八萬四千塵沙法門。一一門入悉得成佛。

善無畏〈Śubhakarasiṃha〉三蔵は語られたものである、

「人々の能力やその時々の条件は、それぞれ異なっている。大聖(釈迦如来)が、その教えを説かれるのにもまた、(相手の能力・時機に従ってその教え方・その内容が)一様でなかった。一つの教えに偏執し、互いに(各々が奉ずる仏陀の教えについて)争ってはならない。そのようでは、(たとえ教えに従って修行したところで、その死後に)人・天として転生することも出来ず、ましてや無上道(たる悟り・解脱)を得ることなど出来ようはずもない。ある者は、単に布施を行って仏と成ることを得るのもある。ある者は、唯だ戒を修すことによって仏となることを得るのもある。忍辱・精進・禅定・智慧、および八万四千の塵沙の法門は、それら一一の門(のいずれ)より入っても(やがては六波羅蜜を円満して)悉く仏陀と成り得るものである《後略》」

と。

『無畏三蔵禅要』 (T18, P944a)

[日本語訳:沙門覺應]

己の信ずる道、我が歩む道の適不適を測るのには、まず自らのその心を省みることです。もし、むしろ自分がそうしていることによって、無闇に己の信じた道に固執するあまり他の欠点をあげつらうなどし、己の心に怒りや恨み、不安などが生じ、慈しみの心を持てず、他者との無益な軋轢や衝突を生んでいたとしたならば、その道に意味はありません。

それはまったく愚かなことです。

常に、決して他者のではなく、あくまで自分の心そして身と口の行いが如何様なものであるかを見なければ、どれほどその教えに価値がある尊いものであったとしても、自らその価値を損ない、汚してしまいかねません。語弊を生む言い方となりますが、この場合、自分勝手・独善というのではありませんけれども、自己本位で良いのです。

もし何か自身がこれぞという道を進み、その心に自他に対する慈しみが生じ、不安や怖れなくあって、諸々の事象を淡々と見、受け入れられるようになって、拘りなく自由に闊歩できるようになるのであれば、ひとまずそれはその人にとって有益で正しいものです。

畢竟それが苦しみを減じ、さらに滅するに達するものであれば、それはきっと仏陀の説かれた教えに相違するものではないでしょう。

下愚沙門覺應(比丘慧照) 稽首和南

(Araññaka bhikkhu Ñāṇajoti)