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くるりの『Liberty&Gravity』はただのヘンテコ音楽じゃない!

2016.10.29 12:00

「なんだこれ? ヘンテコだなー」って曲ありますよね。

どこがサビなのかわからない、歌詞がヘン、メロディーが変調しまくり......。そういう「型破り」な曲は結構あります。そして、得てしてリスナーに強烈なインパクトを与えます。

それは逆に言えば、変なことをすればインパクトが与えられるということで、これを利用してインパクト重視のオモシロ音楽を作るミュージシャンも居ると思います。実際面白いです。癖になります。


しかし、私は見つけてしまったのです。その「ヘンテコ」をも曲のメッセージに利用している優れた曲を!

それが、くるりというバンドの『Liberty&Gravity』という曲です。


百聞は一見にしかず。まずは聴いてみて下さい。実はこの曲はMVの映像にも重要な意図があります。

変な曲でしょう?

ポンポンポンポン言ってるし、なんか踊ってるし、エイサホイサだのヨイショだの......ふざけてんのか! こいつらは!

しかしそこで彼らを見捨てずに、何度も聴いてみましょう。次第に「あれ? なんだかおかしいな」という気持ちが芽生えてきます。

確かに変な曲だし、絵面も奇妙だし、フザケてそうなんだけど......

でもなんでしょう、この一筋縄ではいかない感じなんなんでしょうこの何かが伝わってくる感じ。特に最後の「いくとこまでいく」という歌詞で、この曲の主人公の悲痛な、しかし力強い叫びと意志を感じるのです(あくまで私の感想です)。


ではなぜ、私はこの曲にそんな思いを抱いたのでしょうか。ただのヘンテコ音楽で終わらないポテンシャルが、この曲のどこに秘められているというのでしょうか。

今回の記事ではその謎について書き綴りたいと思います。そこで見えてきたのは、常々私の主張するある重要な音楽哲学、すなわち「音楽と歌詞の相乗」だったのです。



①パート1: 黙殺される個性


  博士のやること成すこと全てが失態

  任せなさい この僕のこと皆は待ってる 

  とりあえず 僕らはここで失礼します

  やること成すこと全てを水に流しても


白状します。ここの部分の歌詞ピンとこない! 

おまえ初っ端からそれかよ、と言われそうですが待ってください。この曲で唯一不満な部分がここの歌詞なんですよ!

いや言いたいことはなんとなくわかるんです。歌詞というのは、一言一句の意味が正確に分かる必要はなくて、要は歌ったときにそれがどんな観念・感情を伝えようとしているのかがふんわりと感覚的に分かればいいのです。分かればいいのですが......。ちょっと分かり辛いと思います。

一応私の見解を述べておきますと、このパートは「『僕ら』が『博士』の元から立ち去ってしまう」という情景を描いているのだと思います。

つまりこういうことです。「任せなさい この僕のこと皆は待ってる 」と意気込みながらも、いつも失態を晒してしまう「博士」がいるわけです。博士は自分が必要とされていると信じ、カッコ悪い姿を見せながらもなんとか自分の道を突き進もうとする強い人です。

そんな彼を、僕ら」は冷めた目で見ています。つまり一般大衆からすれば、博士のような人は奇人でしかないわけです。「おいおい何だよあいつ変なやつだな、カッコ悪いな」「まぁその失態は水に流してやるから、そのへんでやめとけよ。俺らは失礼するよ」という感じでしょうか。

かなり上から目線のように思えますが、しかしこういうことって結構あるのではないでしょうか。いわゆる型にはまらない人を冷めた目で見る傍観者の描写なわけです。


②パート2:働く者


  誰かのために働く 土曜日の風が吹いてる

  力を出して働く はみ出しそうでも働く


ここからは完全に「僕ら」の視点です。つまり一般大衆の視点で話が進んでいきます。

顔も知らない人のために働く。土曜日にも働く。時々自分に戻りたくなる、「博士」のようにはみ出しそうになる。それでも働く。

なんだか軽快に歌っているようですが、言っていることは結構リアルでシビアです。むしろ、この辛い歌詞をあえて軽快に歌っていることで、辛さを押し殺している感じが出ています。これが後々効いてきます。


  ヨイショッ! アソーレ! ガッテンダ!


この曲、出だしから音が異国風ですし、MVでもメンバーはエスニックな衣装を着ています。

しかしながら、要所要所で「これは紛れもなく日本の曲だ」と気付く瞬間があります。その一つがこの掛け声の部分です。

ヨイショッ!」「アソーレ!」「ガッテンダ!」なんて、まさに日本人の言葉です。このワードチョイスが非常に巧みなのです。というのは、文字を見ただけだと非常に愉快な曲に思えますし、実際かなり軽快に歌っているのですが、「曲」の文脈で見ると全く違った意味を帯びてくるという効果をもたらしているからです。

まさしく、これは働く日本人の曲なのだとここで再認識させられます。MVでも、この掛け声の部分で獅子舞という日本ならではの小道具を登場させることにより、「異国風の音で着飾ってはいるが、根幹にあるのは日本の心」であるということを示唆しています。


  どうしたんだよ なんだこれは カネのなる木だ 

  エイサッ ホイサッ 諦めかけてた この道の途中で

  Feel Like POM POM POM POM.... 

  最初のリバティ

  POM POM POM POM....

  覚えたグラビティ


辛さを押し殺し、強がりながら自分にむち打ち働く日本人。そうするしかない日本人。「POM POM...」とおどけながらでないとやっていけないのです。うーむ辛い。

そしてここでタイトルが回収されます。「最初のリバティ」「覚えたグラビティ」。自由の後にのしかかる重力。これについては次のパートで詳しく描写されます。


③パート3:私的な想いを抱える者


  最初のリバティ それは

  あなたと過ごした その暮らしで

  覚えたグラビティ

  泣かないで どうかどこかで 元気でいてね


ここで曲の雰囲気がガラリと変化します。あんなにおどけていたのに、なんだかシリアスめいた空気になるのです。

また、歌詞の抽象性もどんどん増していきます。従って、この辺は大まかな心情が捉えられれば十分でしょう。「あなた」とは誰なのかとか、二人の間に何があったのかとかはどうでもいいことです。思い思いに想像しましょう。

ここで何よりも強調されているのは、主人公の心の傷です。つまり、何か心が解放されて自由になった時期があったのですが、後にその自由が重力へと転化するわけです。今や遠くへ行ってしまった人に、「元気でいてね」と願うしかない。そういうやるせない心の傷というものを、我々は誰しも抱えています。


  Oh my soul on your soul


もうちょっとマクロな視点で見てみると、ここのパートで描かれるのは極めて私的なセンチメンタリズムです。これまでは「一般大衆の一人」「働く者の一人」としての側面が強かった主人公ですが、曲の転調とともに一気に正反対の描写がなされるわけです。

それは、パート1で冷ややかな目で見られていたはずの「個」の描写です。これまでこの主人公は「はみ出しそう」になりながらも、集団に合わせようと自分を殺して頑張っていたのですが、それでも私的な想いや感傷からは逃れられないのです。

ここまでくると、パート1で描かれた「博士」の意味が分かってきます。それは単なる冷笑の対象ではなく、誰もが心のなかに抱えていて、しかし冷ややかな目で押し殺すしかない私的な想いだったわけです。


④パート4:それでも働く


  驚いた 驚いた 夢でもみていたのだろうか

  長年の計画が実現していた夢を見た

  パーフェクトはあり得ない 下らん野望は捨てちまえ

  天国か地獄かそれは誰にもわからない

  

再び曲調が変化し、ラップのようなパートに突入します。パート3で私的な想いに向き合っていた主人公ですが、ここでハッと我に返るわけです。「夢でもみていたのだろうか」と。そして再び軽快なリズムに戻ろうと自分を鼓舞しています。

長年の計画が実現していた夢を見た」と言っているのは誰でしょうか。「長年の計画」なんて文句からして博士っぽいですが、しかし夢を見ていたのは主人公であるし......。

正解は両方でしょう。つまり博士でもあり、主人公でもある。なぜなら、博士というのは主人公の一側面、私的な部分のメタファーだったわけですから。

主人公には何か私的な事情があって、私的な想いを抱えています。そして何かを成し遂げたいという計画があるわけです。しかし、次の瞬間にはそれを「下らん野望」と一蹴してしまいます。

注意すべきは、主人公は決して計画を諦めたわけではないということです。

その端的な根拠となるのが次の一文です。「天国か地獄かそれは誰にもわからない」。つまり一寸先は闇なのです。そんな世界では自分の私的な事情なんて押し殺して、ただ集団の一部として働くしかないわけです。今は耐えよう。今はいったん捨てておこう。これからどうなるかわからないけど、それでも今はとりあえず働くしかない。生きていくしかないのです。


⑤パート5:生きようとする意志


  ヨイショッ! アソーレ! ガッテンダ!

  這い上がんだよ こんな国さ よじ登るから

  エイサッ ホイサッ 諦めかけてた生業を見つけて

  Feel Like POM POM POM POM....

  働くI MY ME MINE

  POM POM POM POM....

  楽したぁことぁない

  POM POM POM POM....

  それでもBaby

  POM POM POM POM....

  いくとこまでいく


ここまでくればもう解釈など不要でしょう。働く者、今を生きる者の悲痛ながらも強い叫びとして、一言一句がストレートに響いてきます。

生業を見つけて、なんとかこの国で這い上がってみせる。そのために今は辛くとも働く。楽したことなどない。その先が天国か地獄かは自分でも分からない。それでもいくとこまでいくんだ。この叫びこそがこの曲の要だったのです。


音楽と歌詞の相乗

まーたこの話かと思われそうですが、そうなんです。私が良いなと思った曲は、結局ここに行き着きます。それが、「音楽と歌詞の相乗」ということです。

どういうことかというと、「曲において、音楽と歌詞は相補的な役割を担っているべきである」ということです。あるいはこうも言えます。「曲は、曲であることに必然性がなければならない」と。

つまり、メロディーだけでも、歌詞だけでもダメなのです。それが一体のものとして歌われることで、はじめて曲は曲として完成します。『Liberty&Gravity』もそうです。メロディーだけをなんとなく聴くとおちゃらけたヘンテコ音楽としか思えないでしょうし、歌詞だけ見ても「悲痛な叫び」というものが聴こえてきません。この曲の優れた点は、そのヘンテコな音楽が「道化を演じて辛さを押し殺そうとする主人公」の表現にマッチしている点なのです。これは、曲を「曲」として受け取って初めて感覚される表現なのです。

曲が「曲」であると何が良いのか。それは、以下の2つの記事ですでに述べました。

要は

1.曲という表現形態の意味が失われない

2.「音楽体験」により、聴き手を豊かにしてくれる

というメリットがあるということです。そういう意味で、『Liberty&Gravity』は私の中で優れた曲として語り継がれるでしょう。


独自の思想というものを持って、曲を解釈し、評価してみるのもいいかもしれません。その過程で、自分が豊かになっていくことを体感する。これも音楽の、いや作品の一つの楽しみ方だと思うのです。