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海からの贈物 / たこぶね

2016.10.29 23:00

『海からの贈物』は、女流飛行家アン・モロウ・リンドバーグ(1906-2001)の手によるエッセイで、1955年の出版以来の世界的なベストセラーでもあります。私にとっては、人生の節目と言わず何度となく読み返している大切な一冊です。私が京都大学の建築学科4回生の頃(関西では大学◯年生のことを◯回生と言うのです、懐かしい。)、他学部に一年先に進学した高校の同級生に薦められる形で手にしたと記憶しています。


手元にあるのは吉田健一の手で訳された新潮文庫で(落合恵子訳のものは未読)、1967年出版、2002年・65刷のものの著者名は ‘リンドバーグ夫人’ となっています。現在購入できる新装丁のものが ‘アン・モロウ・リンドバーグ’ と個人名に改められているのは、本書の裏表紙の解説にある通り「自らも世界の女流飛行家の草分けの一人である著者が、その経歴を一切捨て、一人の女として、主婦として、自分自身を相手に続けられた人生に関する対話である」からなのでしょう。


また今回、原書『Gift from the Sea』も手に入れました(装丁も日本的な色づかいとある種の抽象性を感じさせる図柄で素敵です)。本書でたびたびリルケやイェイツの詩が引用されているのと、凛としつつも優しく浜辺に寄せる波のようにリズミカルな吉田健一の訳文がとても好きだったので、却って原文はどのような言葉で書かれているのかを知りたくなったのでした。印象的だった英文はここにも引いてみたいと思います。



著者がニューヨークの喧騒と煩雑な日常から逃れ、島の浜辺での簡素な生活と、海が奏でる原始的な律動の中で本書を記したのと同様に、私も東京から遠く隔てた広島の実家にて、贅沢にも一番日当たりが良い仏間に陣取って、本書を読み、この文章を書いています。やっとのこと手に入れた2週間弱の静寂と抽象の時も、やがて終わりに近づきつつあることに多少の恐れも感じつつ。



著者は浜辺で過ごす何週間かの休暇で出会った貝殻たちに託す形で、現代に生きる人間、とりわけ女性が直面する重要な問題を語っています。


やどかり同様にいつでも住処を換えることができる簡易な生活の理想を託した「ほら貝」の章。与えるということがその本質である女性にとって社会での遠心的な活動の中でどうしたらその魂の静寂を失わずにすむのかを示唆する「つめた貝(月の貝)」の章。

結ばれたばかりの純粋で簡単な二人の人間の関係(初恋とか、友情の始まりとか)が美しく形作る完璧な一つの世界を内包する「日の出貝」。やがて年月の経過とともに、そうした最初の憧憬に満ちた愛に加えて、互いへの献身や友愛、そして依存・対立・失望をも含んだ共同の経験が編んでいったゴツゴツと不格好だけれど強く硬い関係(結婚して何年かになる夫婦生活を表す)の「牡蠣」。


そのいずれからも感ずるものはあるのだけれど、とりわけ今回私が惹かれたのは最後の「たこぶね」の章が提供するイメージでした。

メスのたこぶねが脚の分泌液から生成する貝は、実際は子どもを産み育てるための揺籠であって、子どもたちが巣立った後に母たこぶねはその貝を捨てて、新しい生活を始めます。当時50歳を迎えつつあった著者は「中年になって牡蠣の状態を脱した時、貝を離れて大海に向ったたこぶねの自由を期待していいのだろうか」と書いたけれど、牡蠣が背負っている殻の重さや歪みに違和感を覚えている今の私にとっても、その自由は憧れのように思えて。



背負っていたものを下ろして漕ぎ出したその先には、「一番いい種類の結び付きが生じる機会があるように思われる」と、多くの引用が示されます。


「人間が自分の全部で入っていく種類の関係」
「…それ以外に何の目的もなくて、特定の利害関係に基づいてもいなければ、一部的な、限られた理由から結ばれるのでもなくて、その価値は全くそれ自体だけにあり、それ故に他の凡ての価値を超越する。そしてそれは、それが人間と人間の、人間としての関係だからなのである」

△ジョン・マクマレー(John Macmurray / 1891-1976 / スコットランドの哲学者)


「結び付けるのにも、放すのにも、無限に思いやりがあって優しくて、明確であることで実現されるもの」
「二つの孤独が互いに相手を保護し合い、相手に触れ、相手に敬意を表する愛に似ることになる…」

△ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke / 1875-1926 / オーストリアの詩人・作家)


喜びを自分のために曲げるものは

翼がある生命を滅ぼすが、

通り過ぎる喜びに接吻するものは

永遠の日差しに生きる。


He who bends to himself a joy

Doth the winged life destroy;

But he who kisses the joy as it flies

Lives in Eternity's sunrise.


△ウィリアム・ブレイク(William Blake / 1757-1827 / イギリスの詩人・画家)



男女の関係、と言うよりも寧ろ、全ての人間と人間の間に結ばれるべき成熟した理想的な関係に於いては、「各自が成長する余地も自由もあり、そしてお互いに相手の解放の手段になる」と著者は説きます。また、こうした関係を結ぶためにとりわけ女性に求められることとして自覚的でありたいと思わされたのは以下の部分。著者(と訳者)が提供するイメージがとても美しく確固たるものなのでつい引用ばかりになってしまうけれど、どれも心に留めておきたい言葉たち。


「女は自分で大人にならなければならない。これが、この一人立ちできるようになるということが、大人になるということの本質なのである。女は他のものに頼ったり、自分の力を試すのに他のものと競争しなければならないと思ったりするのを止めなければならない。昔は女は依存と競争、因循と女性尊重の両極端の間を往復していて、これはいずれも女に平衡を失わせるものであり、いずれも女に一人の女であることを許さない。それができる中心の位置を女は自分で見つけなければならず、そうすることで完全に自分になることが必要である。…〈誰か他のもののために自足した一つの世界〉にならなければならない…」


「我々が前の瞬間に縋り付いたり、次の瞬間に待ちきれずに手を出したりするのは、恐怖からである。…恐怖はその反対である愛によってでなければ追い払えなくて、心が愛でいっぱいになっている時には、恐怖や疑惑が入り込む余地はない。二人の人間のどちらも愛する余りに、相手も自分を愛してくれているかどうか考えることを忘れ、ただ自分が愛していて、その音楽に合せて動いていることしか念頭にない時、二人は初めて同じ律動に完全に調子を合せて踊ることができるのである。…固く手を握ったりすれば動きが鈍り、絶えず発展して限りなく変化していく美しさが壊されることになる。」


「私たちはこの二人の踊り手が踊るように過して、本能的に同じ律動に従っていたから、ただ触れ合えば、それで足りた。」


そして、イェイツの言葉 −−− 「人生の最高の経験は、深遠なことを二人で考えて、それから触れ合うこと(the supreme experience of life is ‘to share profound thought and then to touch.’)」とともに、著者はその具体的な術も訓示してくれています。


「第一に触れ合うこと、例えば、二人で台所仕事をしたり、炉の傍で話し合ったりして個人的に、個別的に親密なものを感じることで、次にはその親密な感情をひっそりした浜辺とか、空一杯の星とかが与える或る抽象的で偉大な印象のうちに忘れること。」

 

自分に引きつけて考えると、後半に差し掛かったとはいえまだ30代。これから子どもを産み、家庭を育み、牡蠣の強さと丈夫さを築いていかなければならない…そうした「自由」に憧れるのは時期尚早、贅沢な願いなのでしょうか。否、著者が示すのは、実質的な生活のことというよりは、精神のあり方についての示唆なのだから。結婚に限らず、人間と人間の全ての間柄における(日の出貝と牡蠣を経ても経なくてもいつか迎えるべき)理想として、たこぶねのイメージはきっと有効なはず。

やがて終わるこの抽象の時を離れても、このことを忘れずに時を過ごすことができるように。ここに記すことで心に刻みます。


おまけ。

▽ウィリアム・バトラー・イェイツ(1865-1939 / アイルランド / 詩人・劇作家)

作風は幅広く、ロマン主義、神秘主義、モダニズムを吸収し、アイルランドの文芸復興を促した。日本の能の影響を受けたことでも知られる。日本では大正期に柳宗悦による本格的ブレイク研究が手がけられ、大江健三郎の一方ならぬ傾倒が知られる。

イェイツと能の出会いについて、ことの始まりはアメリカの東洋美術史家・哲学者のアーネスト・フェノロサが梅若実に能を教わったことだという。フェノロサの能楽論に手を加える形で『日本の古典演劇の研究』をまとめたエズラ・パウンドは、当時イェイツの秘書をしていた。アイルランドの神話や伝説を調べていたイェイツはその研究を読み、アイルランドの幻想と能の幻想に通底したものを感じたのだという。能とケルトの調査を通じて書かれた詩劇『鷹の井戸』はその出版に先んじて、1916年ロンドンの私家で初演された。その後、日本で改作が重ねられ、翻案新能『鷹の泉』『鷹姫』として上演されている。

詳しくは「松岡正剛の千夜千冊」518夜にて。