Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

雲巌寺

2018.03.08 04:00

https://ameblo.jp/twilightstar5555/entry-12396709007.html 【芭蕉も訪れた名刹、雲巌寺~。(栃木県大田原市)(鮎を求めて~③)】 より

(前略)

「雲巌寺」は、「臨済宗妙心寺派」の名刹で、筑前の「聖福寺」、越前の「永平寺」、紀州の「興国寺」と並んで「日本禅宗四大道場」に数えられています。禅寺なのですね。

「那須高原」の裾野にあたり、「八溝山地」に抱かれた場所でもあります。

栃木県ですが、茨城県との境に位置しています。

ですから、この辺りは「那須家」や「水戸光圀」とも関係が深く、後で触れますが「奥の細道」ともゆかりの深い場所でもあります。

「雲巌寺」の境内図を載せますね。参道の横の大杉です。

こちらの朱塗りの橋は、「瓜鉄橋(かてっきょう)」と呼ばれています。

「瓜鉄(かてつ)」とは、子孫が長く続いて繁栄することだそうです。「東山五橋」の一つです。

因みに「東山五橋」とは、こちらの「瓜鉄橋」、山内の独木橋、瑞雲橋、涅槃橋、梅船橋のこと~神橋「瓜鉄橋(かてっきょう)」を渡ります。

下を流れるのは、「武茂川」~。秋は紅葉の名所だそうですよ~石段を上ると、「山門」です。こちらの「山門」は、「瓜鉄橋(かてっきょう)」を見下ろすように建っています。

「豊臣秀吉」の「小田原攻め」の際、「烏山城」の「那須資晴」は「秀吉」方に付きませんでした。そのため城に攻め込まれ付近の住民が「雲巌寺」に逃げ込み、「豊臣」方は「雲巌寺」を「軍事要塞」とみなし「雲巌寺」は焼き討ちに遭いました。

その際、伽藍は焼け落ちてしまったのですが、こちらの「山門」だけは耐え残ったとされています。

ただし、今の「山門」は江戸時代に建てられたものだと思います。

今度は「山門」から、「瓜鉄橋(かてっきょう)」を見てみますね。

そして、「山門」の正面が「仏殿」です。「仏殿」に立って、「山門」を見たところです。

「仏殿」でお参りしますね。

正面はご本尊の「釈迦牟尼仏」(銅造釈迦如来坐像)です。

少しだけ、「雲巌寺」に触れておきますね。

山号は東山(とうざん)です。

創建されたのは、「大治年間」(1126~1131)。開基は、「叟元和尚(そうげんおしょう)」、「北条時宗」」(大檀那)、「仏国国師」(高峰顕日)(開山)とされて

います。

「大治年間」に「叟元和尚」によって開山されましたが、いつの間にか荒廃してしまったのだそうです。

弘安6年(1283)、それを復興させたのが「仏国国師」(高峰顕日)で、時の鎌倉幕府の執権「北条時宗」を「大檀那」とし、「高梨勝願」法印の寄進のもと、「臨済宗」寺院として改めて「開山」したといわれています。

「禅宗東山雲巌寺由来」です。興味のある方はお読み頂けたらと思います。

「山門」の右手にあるのは、「鐘楼」です。

「鐘楼」の前の階段を上ると「本殿」となる「方丈」(「獅子王殿」)があります。

「扁額」、何て書いてあるのでしょう。

「人面不知何處去 桃花依舊笑春風」と書いてあるらしいです。

「人面(にんめん)は知らず何処にか去るを 桃花 舊(旧)に依って春風に笑む」と読むそうです。

「獅子王殿」とも呼ばれている「方丈」(「本堂」)です。こちらもお参りしましょう。

「本堂」を出て、「仏殿」と「山門」を見たところです。

直ぐ下は先程お参りした「仏殿」で、その奥に屋根が見えるのが「山門」です。

つまり、「山門」、「仏殿」、「方丈」(「本堂」、「獅子王殿」)が一直線に配置されているのですが、「禅宗」の特徴のようです。「方丈」の横は、「庫裏」です。

中に入れて頂くと何と「御朱印」が置かれています御朱印

最近急に参拝客が増えたための対処らしいです。

先程の「方丈」の前の階段を下りないで、ぐるっと回るような感じで「鐘楼」の辺りに下ります。

写真を余り写せなかったのですが、「仏殿」の後ろの斜面の植え込みがとても素晴らしいです。まだ、ガクアジサイが咲いていますね。

先程は「仏殿」の右手に進みましたけれど、今度は左手に行ってみますね。

「仏殿」の左が「勅使門」、少し高い所に見えるのが「方丈」で、その右横が「庫裏」です。「鐘楼」方面を見たところです。

案内板が一際大きく目立ちます。

案内板を参考にしながら、書かせて頂きますね。

「松尾芭蕉」は元禄2年4月5日(1689年5月23日)、人々を誘い山道を賑やかに歩き、景色を賞でながら雲巌寺」の「山門」をくぐりました。

なぜならば、「雲巌寺」にある「仏頂和尚」の山居の跡を見ようと思ったからです。

「奥の細道」には、「かの跡はいづくのほどにやと後の山によぢのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり、妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし」とあるそうです。

「仏頂和尚」の山居の跡を見て「芭蕉」は「妙禅師の死関、法雲法師の石室」を見るようだったと思いました。

「妙禅師の死関、法雲法師の石室」は、中国の高僧「妙禅師」が「死関」の額を掲げて修行した洞穴や、「法雲法師」が身を置いた大岩の上のようだったということです。

「竪横の 五尺にたりぬ 草の庵 むすぶもくやし 雨なかりせば」 仏頂和尚

「仏頂和尚」のこの山居の歌が、「芭蕉」が山居の跡を見よう思ったいわれの歌でもあるのです。

この歌に対し「芭蕉」は、さすがの木啄(きつつき)もこの高徳な「仏頂和尚」の庵だけは破らないという礼賛の句を柱に残してここを去りました。

「木啄も 庵はやぶらず 夏木立」 松尾芭蕉

因みに「仏頂和尚」は常陸国鹿島の「根本寺」の住職だったのですが、「鹿島神宮」との寺領争いを提訴するために江戸深川の「臨川庵」に滞在していました。

「芭蕉」はこの時に「仏頂和尚」と親交を深め禅を学びました。

その後「仏頂和尚」は勝訴したのですが、住職の地位を捨てて修行僧になりました。

「仏頂和尚」のこの山居は危険な場所にあるためか、一般には公開されていません。

こちらの奥に石碑があります。こちらが先程の「芭蕉」の句と「仏頂和尚」の歌が刻まれた石碑です。

「芭蕉」は「白河の関」を越える前、2週間も「雲巌寺」のある「黒羽」の地に滞在したのだそうです。

「山門」を横から見たところです。「山門」をくぐります。再び、「山門」から見た「瓜鉄橋(かてっきょう)」です。

元来た道を戻ります。

折角栃木まで来たのだから温泉に入っていこうと言うことで、日帰り温泉に向かいます。

帰り道に比較的近いところを探しました。

大田原市営「黒羽温泉五峰の湯」です。

「黒羽温泉五峰の湯」は、「黒羽地区」から「那須岳」、「大佐飛山」、「高原山」、「女峰山」、「男体山」の5つの峰が望めるところから命名されたのだそうです。

泉質は無色透明のアルカリ性単純温泉で、お肌に優しくすべすべする「美肌の湯」です。

神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩などにも効能があるとされています。

内風呂の他に露天風呂やサウナもあります。

(後略)