Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

佛頂和尚

2018.03.08 05:07

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/bucho.htm 【佛頂和尚】より

(ぶっちょう)(1641年~1715年12月28日)

 茨城県鹿島の根本寺第21世住職。芭蕉参禅の師と伝えられている。芭蕉より3歳ほど年長。

 佛頂は、鹿島神宮との間で領地争いがあって、その訴訟のため江戸に滞在することが多かった。そのときは、根本寺の末寺であった江戸深川の臨川寺(その頃は臨川庵と呼んでいた。臨済宗妙心寺派瑞甕山臨川寺となったのは正徳3年のことという。)を使った。臨川寺は、芭蕉庵に近く、芭蕉は佛頂をしばしば訪ねて禅を教えてもらったという。芭蕉は、乞食僧へ独特の憧憬を持っていたが、そのことが佛頂の人生態度と一致していたため、強い尊敬の念を感じていた ようである。

  芭蕉は、素堂などとちがって生家が貧しく、青春時代に正統的教育の機会に恵まれなかったため、「一般教養」に欠けるところがあった。深川に転居して、幸運にも佛頂とめぐり合い、禅はともかく漢学一般、中でも特に老荘思想について佛頂から体系的に教授されたことで、芭蕉の人生が急展開したのではないか。特に『荘子(そうじ)』については、芭蕉の自然観全体に影響を与えた。それが、俳諧改革を促し、大詩人芭蕉の誕生につながったのではないだろうか。芭蕉にとって、佛頂の存在は「偉大」だったのである。

 『奥の細道』では、那須の黒羽の雲厳寺にあった佛頂の修業跡を訪ねて「啄木鳥も庵は破らず夏木立」と詠み、また、『鹿島詣』ではわざわざ佛頂に会いに行っている。なお、佛頂は、 当時としては長命で、芭蕉没後21年経た正徳5年(1715)12月28日、那須黒羽の雲厳寺で死去した。

佛頂和尚の代表作 梅桜みしも悔しや雪の花


https://rokko-navi.media/culture/rokkogreatman1/ 【鹿行偉人伝その1~芭蕉の師 仏頂和尚~】 より

 旧白鳥村(現鉾田市)出身の仏頂河南は松尾芭蕉の師匠でした。仏頂河南は「奇人」仏頂とも言われました。芭蕉はご存じ、元禄三大文化人(井原西鶴・近松門左衛門)の一人。その芭蕉の精神的・思想的師匠が「奇人」仏頂和尚だったのです。本当なんです。

仏頂和尚像

臨済宗妙心寺派瑞甕山根本寺 (鹿嶋市下生)

 芭蕉は江戸日本橋滞在中の延宝8年、妻寿貞と甥桃印の密通によって、失意のどん底にいました。その年の冬、身一つで深川に移住。同じ深川の臨川庵にいた鹿島根本寺住職仏頂和尚と運命的な出会いをしたのです。芭蕉は「朝暮に来住」(現臨川寺「芭蕉由緒の碑」)し仏頂に教えを乞いました。蕉門十哲の一人支考も「(芭蕉翁は)仏頂和尚の禅室にまじはり」(『俳諧十論』)とあります。精神的にゆきづまっていた芭蕉は、仏頂の説く禅の思想―生死も愛憎も虚であり実である―が心に染みました。仏頂の「物心一如」論・「仮想実相」論は、以後芭蕉の「不易流行」論となり、蕉風確立に大きく寄与していったのです。

 芭蕉は貞享4年8月下生根本寺に仏頂和尚を訪ねました。そこで「月早し 梢は雨を 持ちながら」などの句を作ります。こうして二人の親交は芭蕉が亡くなる元禄七年まで続きました。

仏頂生家 平山家(鉾田市札)

 仏頂河南は、寛永19年(1642)鹿島郡白鳥村字札(現鉾田市札)の農家平山家(現存)に生まれました。額に円珠あり眉目秀麗であったと伝えられています。腕白少年だったようです。河南仏頂の原点は、旧白鳥村での二つの体験にありました。明蔵寺(後の普門寺)の柿を盗んでも、和尚さんに怒られるどころか、頭をなでてもらったのです。父親とは大違い、なんと心が広いことかと感銘を受け、仏門に入る決心をしたのです。 「出塵之志(しゅつじんのこころざし)」(『続禅林僧宝伝』)。もう一つは母親との確執にありました。全国修行中の河南17歳は急きょ帰国し、重態の老母になんと、「俺は以前からあんたを握りつぶしたいと思っていた。仏門に入るのをなぜ邪魔し続けたのか!」と口角泡を飛ばして面罵したのです。母親は少年河南を根本寺から何度も何度も家に呼び戻したからでした。生来利発だったがゆえに、仏門に入らず仕官して出世してもらいたかったのでしょう。この二つの体験がトラウマ的エネルギーとなって、仏頂河南を禅の修行にまい進させたのです。冷山和尚の根本寺で修業を積んだ後、十四歳で全国修行の旅に出ました。青年河南の「鹿島立ち」。その後生まれ故郷に近い大儀寺(現鉾田市阿玉)を再興したり、那須雲巌寺(74歳臨終の地)や各地に赴いて布教活動や弟子の指導にあたりました。

仏頂が再興した臨済宗宝光山大儀寺(鉾田市阿玉)

 仏頂和尚は念仏仏教や葬式仏教を嫌い、路上に出て民衆に呼びかけ、社会悪があればそれと戦えという実践の人でした。鹿島神宮との裁判闘争でも先頭に立って、勝利しました。仏の道に入らずとも、「工夫」して仕事や学業や家事等日常的な行為=修行を続ければ、誰でもどのような世になっても前向きに生きていけるのだ、とのメッセージを残してくれました。


http://tokiwahaiku.blog.fc2.com/blog-entry-157.html 【仏頂発心の地】より

 芭蕉の禅における師匠は仏頂和尚でした。仏頂和尚は常陸国鹿島郡札邑(茨城県鉾田市白鳥村札)の出身です。今回は地元の先哲である仏頂が中興した鉾田市阿玉の大儀寺と、仏頂が仏門に入ることを決意した明蔵寺跡について報告いたします。

 芭蕉が仏頂をとても尊敬していたことは、仏頂のことを「人をして深省を発せしむ」(深い悟りの心を抱かさせる人 『鹿島詣』)と評していたり、『奥の細道』の雲岩寺で、「啄木も庵はやぶらず夏木立 芭蕉」(何でも壊すキツツキも、さすがに仏頂の山居跡は壊さなかったよ。)と詠んだことなどで明らかです。

 大儀寺には芭蕉句碑「寺に寝て誠がほなる月見哉」があります。これは、「寺に宿し師とともにする月見は、日ごろ興じる会席とは異なって、悟りを得たような敬虔な顔つきになってしまうよ。」という俳味を含んだ句です。

 芭蕉句碑の碑陰には、「仏頂筆の自伝『山庵記』によれば貞享元年(1684)から同四年末まで阿玉の大儀寺の住職となる。のち再び江戸深川の臨川寺に入るとあり、芭蕉一行と佛頂和尚との月見は大儀寺であることが立証されている。」とありますが、『鹿島詣』(芭蕉箸)の内容から判断すると、芭蕉ら一行が大儀寺まで行ったわけではなく、元住職の仏頂が根本寺において芭蕉らを迎えたのです。

 大儀寺の芭蕉句碑の隣には仏頂像があります。

 少年だった仏頂が仏の道に入ることを決めたのはなぜか、高木蒼梧箸『俳諧人名辞典』(P115)には以下のように記されています。

近所の明蔵寺の柿の木に登って果実を採っていると、その寺の老僧が来て見つけた。これが父に知れると叱られるがなどと当惑していると、老僧は「今年は数が少なくなった、来年また早く来て採れよ」と慈愛に満ちた言葉をかけて頭を撫でてくれた。幼い彼はこれに深く感動して、仏道に入る決心をしたという。

 ジョージワシントンの桜の木の話を思い出すようなエピソードに心惹かれます。少年時代、どんな大人に出会うかによって、その後の人生に大きな影響を与えることもあるのですね。

 芭蕉が深く尊敬した仏頂和尚。彼が自分の進むべき道を決心したという聖地をどうしても訪ねたいと思い、廃寺となった明蔵寺跡を目指して探検をしました。 手がかりにしたのは1959年に高木蒼梧氏が著した「仏頂禅師(1)」(『連歌俳諧研究』第18号)の記述です。「普門寺の裏山の麓に明蔵寺址がある。二本の長松の下に馬頭観世音堂があり、石垣で一段高くなっているのは本堂の跡らしく麦畑になっていた。」という内容です。

 普門寺周辺の山や墓地を訪ね回り、畑仕事をしている地元の方に尋ねたりしましたが、59年前の記録にある場所にはなかなかたどりつけません。

 あきらめて帰ろうとした時、同行した学生から「これではないですか?」という写真つきのラインが送られてきて現地まで走りました。大洋郵便局から道路を南東に80メートルほど進んだ左側に空き地があり、その左奥に馬頭観世音の石碑と小さな観音堂が見えました。右隣には竹藪があり、その合間に手入れのされていない朽ちかけた松が見えました。現在空き地となっているところが昭和時代には麦畑で、かつて仏頂が7歳の少年だった頃には、明蔵寺境内の柿の木に思わず持ち帰ってしまいたくなるような甘い実が生っていたのでしょう。

 仏頂の故郷である鉾田市白鳥村札の明蔵寺跡は、仏頂和尚の生き様の原点を培った史跡として注目されてよいと思います。

 仏頂は寛永19年(1642)常陸国鹿島郡札邑(茨城県鉾田市白鳥村札)に生まれ、8歳で冷山和尚の根本寺に入ります。明暦元年(1655)、14歳の春、諸国の名僧との出合いを求めて旅に出て、延宝2年(1674)、33歳の時、根本寺を受け継ぎ21世住職となりました。その後、天和2年(1692)までの9年間は、根本寺の寺領返還訴訟のため江戸深川の臨川庵に滞在することが多かったようで、この頃から芭蕉は仏頂に親炙し始めたようです。

 貞享元年(1684)~貞享4年(1687)末まで大儀寺の住職として勤め、その後黒羽の雲巌寺の山居に籠ります。貞享4年(1687)、芭蕉は曽良、宗波を伴って鹿島に訪れていますが、仏頂は根本寺の隠居所長興庵にいて芭蕉らを迎えたようです。

 元禄2年(1689)、芭蕉が奥の細道の旅で雲巌寺を訪れた際には仏頂はいませんが、芭蕉よりも21年長く生き、正徳5年(1715)12月28日、73歳で没しました。(二村)