築地近代医学史 ③九条武子
「九条武子 あそか病院を開く」
本願寺さんと並んで築地のランドマーク、聖路加国際病院は米国宣教師ルドルフ・ボリング・トイスラーが、明治34年、南小田原町で開いていたヘンリーホールズの築地病院を、彼が帰国後、荒廃していた建物を買い取って再建したものである。一方此の記載とは別に、他の資料では、明治17年、米国聖公会の初代主教ウイリアムズが、居留地37番の立教大学の敷地内に、薬局兼診療所を開設したのが始まりとされている。当初は人材が定着せずに経営は困難を極めたと云われる。そこで要請されたのが同じ米国人であり、宣教師でもあったトイスラーである。明治33年、後任の医師として妻と共に来日、当初は佃島(旧、新佃西町2-15)に、聖アンデレ診療所を開設した。翌34年、最初の病院「築地病院」を完成した。翌35年、名称を聖路加病院と改称、大正6年、国際を冠して、現在の聖路加国際病院(St Luke’s internatinal Hospital)となる。ルカはギリシャ発音でルカス、福音でルカ、英語発音でルークとなる。聖ルカは西方世界では、医者や画家の守護神とされ、日本語表記では「路加」とも書かれているが、正式な読み方は「ロカ」ではなく「ルカ」である。キリストの弟子、聖ルカはギリシャの医者と考えられている。
大正9年、病院での看護の重要性を重くみたトイスラーは、後の看護大学となる看護婦学校を設立した。当時の学制は3年制であったが、トイスラーは看護の技術に加え、人間としての資質の養成も大事であると考え、文部省に4年制を申請、昭和2年、やっと承認され、我が国の医療水準の向上に結び付いている。因みにこの年の4月、大日本連合女子青年団が創立されている。大正12年、関東大震災発生、続く14年、失火により病院は全焼した。この為昭和3年から6年にかけてトイスラーは、再建にあたって建設資金約270万弗の募金活動に奔走した。皇室を始め我が国の組織に声をかけ、同時に自国の聖公会や赤十字、ロックフェラー財団などにも要請をした。昭和11年、中央に礼拝堂をもつ、ネオゴシック式の病棟(旧館)が完成した。それは、各病室から礼拝堂の十字架が、見えるように設計されたものであった。しかし、この建物の完成を待たず、残念ながらトイスラーは昭和9年、8月10日、心臓病で亡くなってしまう。59歳。彼の枢は礼拝堂の祭壇に祀られているという。旧館の壁の上にはブルー、オレンジ、グリーンの3色の波模様が描かれている。これは米国先住民族の模様からデザインしたもので、彼の母方の先祖は、ヴァージニア州ボウハタン続首長の娘であったという。
最後になったが、明治20年、西本願寺21代法主の二女として生れた武子は、多才で進歩的な、心優しい女性であった。明治42年、男爵と結婚、九条武子を名乗る。この結婚、夫の海外への単身赴任等もあって、当時としても2人が一緒に生活した期間は短いとされている。大正12年、関東大震災発生、築地本願寺は延宝7年、阿弥陀如来を祀った本願寺が建立されて以来、五十八の塔頭が置かれていた南西に向いていた中国風の木造建築であった。揺れと火災で、崩壊、焼失、仏教本来の寺院、伊東忠太設計のインド様式の石造寺院が出来上がるのは、昭和9年である。武子は西本願寺の再建に力を注ぐ一方、日比谷公園に負傷者や孤児の救援施設を開設、救援活動にも活動、あそか病院の設立の基礎をなした。これらの活動の一方で、歌人として佐々木信綱に師事、第一歌集「金鈴」が評判となった。武子の作品は、まだ女性の地位が確立していなかった(現代でもそれに似た発言をする人間はいるが)当時の女性読者から圧倒的な支持を得た。大正歌壇には、武子と同じような考え方をもった与謝野晶子がいた。他に晶子の夫鉄幹、北原白秋、斉藤茂吉、若山牧水などが顔を揃えていた。昭和2年、短歌作品や随筆を収録した「無憂華」は一大ベストセラーとなった。
無憂華は、仏教三大聖樹のひとつ、サンスクリット語で「アソカ」と読み、釈迦は「無憂樹 asoka tree」の下で生れ、唯我独尊を唱えた。病院名あそかは、師の佐々木信綱がこの樹に因んで命名したといわれる。釈迦が35歳で悟りを開いたのが「菩提樹 bedhitree」である。インドの国花ともなっている。もうひとつが、日本でも平家物語の冒頭の文章で知られる「沙羅双樹 sal tree sal」である。初夏に白い花を咲かせ、ジャスミンに似た香りを放つ。釈迦はこの樹の下,80歳で入滅した。昭和3年2月7日、震災復興事業での活動で無理がたたり、敗血病を発症してして帰らぬ人となった。まだ、42歳の若さであった。また、一人日本の医療に貢献した女性(ひと)が亡くなった。