ルイス・ジェームズ・モリアーティという人間 ー"M"ー
"M"とは一体何なのだろうか。
僕が兄さんのために生きようと決めた後、どう生きていくかを考える中でアルバート兄様から一つの選択肢を与えられた。
兄さんのいない世界で生きるビジョンが見えなかった僕にとって、彼はたった一つ残った僕の指標だ。
兄様とともに生きていけるのであればこれほど心強いこともないと考えていたけれど、僕の考えはそれはもうとてつもなく甘かったらしい。
「私は国に尽くすことなど出来ない。お前達を巻き込んだこと、たくさんの市民を犠牲にした貴族という括りの人間であることは、私自身がのうのうと生きることを許してはくれないよ」
諭すように言ったかと思えばすぐに険しい表情を浮かべる彼を、僕は呆然と見ていたのだろう。
下される判決には従うと決めていた。
それがどんなものになるか気付いていたからこそ、結局は長く生きられないのだと思っていたのだから。
けれど実際に言い渡された判決は、個々の能力を国家のために行使しろという贖罪の在り方だった。
身分ではなく個人の能力に応じて判断が変わるというのもおかしな話だが、埋もれていた才覚をみすみす捨てるのが惜しい気持ちは何となく理解出来る。
この身に与えられた償いが「生きて国家のために尽くせ」というのであれば、兄さんのためにも生きてこの国を美しいまま維持したいと思ったのだ。
きっと兄様も同じ気持ちだと考えていたけれど、兄様はその有能な才覚を発揮するのではなく、一人罪を悔い改める道を選んでいた。
「…では、兄様は…」
「定められた牢獄で、この生涯を終えるだろうね」
「……そ、う…ですか…」
震えた唇から出た言葉は、やっぱり同じく震えていたのだろう。
兄様は真っ直ぐ僕を見てくれていたけれど、僕はその瞳を見ることが出来なかった。
きっと、彼は家族が身内を心配するように不安を帯びた苦笑いを浮かべていたのだろう。
兄様は優しい人だから。
兄様は僕の兄だから。
シャーロック・ホームズとともに水底へと沈む兄さんを見届けた僕のそばにいてくれたのはモランさんと、そしてこのアルバート兄様だ。
政府の元へと足を運んでいた兄様と合流し、何も言えずにただ彼のそばにいようとする僕を静かに受け入れてくれた。
だから僕の気持ちは伝わっているのだと思っていたのだけれど、兄様は数日の間で僕の気持ちが落ち着いた頃を見計らい、マイクロフト長官へと己の投獄及び幽閉を希望された。
罪を犯した兄さんが心を痛めて自責の念に苛まれていたように、アルバート兄様も僕達を巻き込み罪を犯したことを悔いていたのだろう。
けれど僕は犯してしまった罪をさほど重要視していない。
今までに葬ってきた人間は死んで当然の悪魔だったし、元より僕は兄さんと兄様以外に価値を見出していないのだから当然だ。
何も思わない命を前に、お二人ほど心をボロボロにすることは出来なかった。
「では、僕も」
「ルイス」
「は…」
「お前には私の跡を継いで、MI6の指揮官として生きてほしい」
「は…?」
兄さんを思い国家のために尽くし、美しい英国を維持するという道を選ぼうとしたけれど、兄様が罪を悔い改める道を選ぶというのならそういった生き方も選ぶのも良いだろう。
一人で生きていくよりも見知った仲間と生きる方が良い。
見知った仲間の中でも、心を交わしたアルバート兄様と生きる方が良い。
そう思い声を出そうとした僕を遮り、兄様は恐ろしく美しい顔に慈愛を乗せて僕を見つめていた。
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
「ルイスならきっと、ウィリアムや私以上にこの英国をより良い方向へ導くことが出来る。私はそう信じている」
「に、兄様、ですが」
「返事はすぐでなくて良いだろう。長官には私が後任にルイスを推薦していたことを伝えておくが、最終的な決定はルイスが判断しなさい」
「アルバート兄様…」
「私は明日、いや今日すぐにでも収容されるだろう。人伝になってしまうが、お前の道は必ず把握しておく」
そう言った兄様は僕を一人置いて、部屋の外へと出て行ってしまった。
"M"とは軍における秘密情報部であるMI6の総指揮官だ。
新設されるにあたり、アルバート兄様がその役目を担っていた。
大英帝国を守るために下される使命と兄さんの計画で必要になる暗躍、そのどちらもの任務統括を苦もなくこなされていた。
それは仮初であろうと国家への忠誠心が必要であり、確実な先見の明や緻密な作戦立案、的確な状況判断力が必要になってくる。
有能な実行部隊がいるとはいえ、彼らを駒とせず操るには相応の才覚が必要だろう。
MI6がこなす任務は間違いなく国家保持のための活動となり、公に賞賛されることはないけれど、この国をより良い方向へと導くために必要な部隊だ。
だからこそ兄さんが欲しがり、頭脳と技量ともに信頼のおけるアルバート兄様にその重要な役目を任せていた。
兄さんが欲しがるほどの力を持つMI6指揮官の後任に、兄様が僕を推薦する。
それは兄様から僕への信頼の証なのだろう。
近くで彼を見てきた僕だからこそ、その任務がどれほど気力を削る過酷なものかを知っている。
だが僕ならこなせると、アルバート兄様は信じてくれているのだ。
嬉しく思うと同時に、生きやすい道へと流されそうになっていた自分を恥ずかしく思う。
「…アルバート兄様…」
兄様はきっと、僕が生きる道を決めきれないことに気付いていたのだろう。
兄さんのために生きると決めたとはいえ、兄さんが望んだ美しい英国を維持するために尽力すると決めたとはいえ、僕のままではどうしてもその決意が揺らいでしまう。
兄さんのいない世界で生きることがとても苦しい。
だから兄様のそばで悔いてもいない罪を悔い改めようと思ってしまった。
けれど、そんな僕の弱さに兄様は気付いていたのだろう。
兄さんのために生きると決めたのならその通りにしなさいと、大きく温かい手のひらで背中を押してくれたようだった。
決して揺らぐことのないよう進むべき道を示してくれた兄様の優しさは、大きな穴が空いた僕の心の隙間を少しだけ埋めてくれている。
兄さんはMI6を使い、国を正しい方向へと導こうとしていた。
兄様はMI6を指揮し、国を良い方向へと導いていた。
ならば僕は二人が望んだものを駆使し、二人が望んだ未来を作り上げて維持しなければならないのだろう。
マイクロフト長官に"M"として生きることを宣言したその日から、僕は軍情報部における指揮官の役目を担っている。
兄さんと兄様のように完璧に任務をこなし、この英国を美しいまま維持することが僕の使命だ。
かつてはすぐ手の届く位置にいた大事な二人は今、この手が届かない場所にいる。
けれど不思議なことに、少しの不安も抱かないのだ。
僕は兄さんに望まれて生きている。
兄様に"M"としての活躍を期待されている。
僕が最も敬愛する人達のおかげで、僕は今ここに存在している。
「もう眼鏡はしないのですか?」
「フレッド」
報告書に目を通しているとかつての同志が訪ねてきてくれた。
フレッドはMI6に所属する人間ではないし、立場を除いたとしても彼は友人のような位置にいる。
張り詰めていた空気を少しだけ和らげてソファへ座るよう促せば、首を振って拒否されてしまった。
どうやら世間話をしにきたわけではないらしい。
「お久しぶりです、ルイスさん」
「お久しぶりです。変わりなさそうですね、フレッド」
「はい」
依頼していた情報を揃えてくれたらしく、しかとこの手に受け取ってから先程の言葉を振り返る。
今の僕には以前かけていた眼鏡も、右頬を隠すように下ろしていた前髪もない。
「…眼鏡、もうしないんですね」
「はい」
肯定を返せば少しだけ安堵したように微笑うフレッドがいた。
その微笑の意味はよく分からないけれど、否定的な意味はないのだろう。
「もう必要ありませんから。美しい大英帝国をこの目で見るためにも、視界を遮るものはない方が良い」
「そうですね…その通りです」
眼鏡をかけていたのは兄さんとよく似た顔を隠すため。
前髪を下ろしていたのは醜い傷を美しい二人の前に晒さないため。
今はそのどちらも必要がなくなってしまったのだから、揺らいでばかりいた過去の自分をそれごと捨ててしまいたかった。
何にも遮られることのない視界はクリアな世界を映してくれている。
兄さんと兄様のため、僕はこの美しい英国を少しでも長く維持しなければならないのだから。
「それに、僕は自由に動ける最後のモリアーティです。兄さんと兄様の分まで、僕が働かなければならない」
「ルイスさん」
「僕の顔、兄さんとよく似ているでしょう?」
「え?は、はい」
「髪は兄様の真似をしたんです。フレッドと出会う前の僕は前髪を上げていましたが、あの頃の僕は弱くて守られてばかりの小さな子どもでした。もう思い出したくない過去ではありますが、兄様と揃いであると思えば心強い」
「…それは、つまり」
珍しく口が動く僕を訝しむでもなく、急いでいるだろうフレッドは言葉を遮ることなく聞いている。
兄さんを喪い、兄様と離れ、新たな役職にも慣れてきた頃が今だ。
少しだけ余裕も出来て口も軽くなっているのだろう。
「"三人でジェームズ・モリアーティ"だと、兄様は言ってくださいました。ならばお二人が帰ってくるまで、僕が目印になって二人を待たなければならない」
「ルイスさん、でもウィリアムさんは…」
「フレッド」
悲痛な表情を浮かべるフレッドの口元に指を置き、物理的に動かせないよう先回りをする。
三人でジェームズ・モリアーティ、三人で犯罪卿。
あの言葉を誰一人信じていなかった過去は、今でも僕の胸を軋ませる。
それでも、僕が今まで兄さんと兄様と過ごした時間は確かなものだ。
いくら二人を支えに僕一人でモリアーティを背負おうと、三人のうち誰が欠けても意味がない。
モリアーティが永劫背負う罪と罰は個々に背負うのではなく、やはり三人一緒に背負いたい。
きっと兄さんは生きている。
いつか兄さんと兄様が迎えに来てくれる日を、僕はいつまでだって待っている。
罪を罪とも思わず、罰を罰として受け取っていない僕をきっと、大勢の人間は非難するのだろう。
けれどもうどうしようもないのだ。
僕にとっての世界はやっぱり兄さんで、兄様で、それ以外には何の価値もない。
二人の分まで精一杯に国へ尽くしているのだから、夢を見ることくらいは許されてほしい。
「この傷は僕達兄弟が始まった日に出来たものです。僕が持つ一番の誇りで、過去から今までずっとお二人と僕を繋いでくれる大切なもの…僕が兄さんと兄様の意思を継いでここにいる以上、モリアーティは三人なんですよ」
「ルイス、さん」
今も兄さんはどこかで生きていると信じ、兄様がいつかあの場所から出てきてくれると信じている僕を、フレッドは諦めが悪いと嘆くだろうか。
最愛の兄に置いていかれて捨てられてしまった可哀想な末弟だと、そう思われてしまうだろうか。
ふと顔を上げて彼を見れば、珍しくとても柔らかく微笑んでいるようだった。
それも当然か。
彼は、フレッドは出会ったときから優しい人だったから。
「知っていますか、フレッド」
「…何をでしょう」
「僕がアルバート兄様から引き継いだ"M"という文字の意味」
「チームのトップとして、その頭文字を取ったのではないですか?」
「違いますよ」
ただの言葉遊びに過ぎないけれど、それでも一人になってしまった僕にとって唯一の支えになってくれた。
"M"とはMilitaryから取ったのではない。
「"M"とはMoriartyから取ったんです。モリアーティ家のアルバート兄様が初代指揮官であったからこそ、以降のMI6のトップは"M"を名乗る。世界で最も気高い名を背負っている以上、僕はそれに恥じない働きをしなければならない」
「…そう、だったんですか」
「兄さんと兄様が見てくれている。僕は一人じゃない。もちろんフレッド、あなたもいるから僕は頑張れているんです」
「力になれているのなら嬉しいです。…良かった」
「僕へのサポートはそのまま兄さんと兄様へのサポートになります。お得ですね」
くすくすと笑うフレッドが珍しい。
僕も随分と久しぶりに冗談を言った。
けれどこれは冗談ではなく心からの事実だ。
兄さんと瓜二つの僕が兄様の髪型を模していて、頬には三人で歩み始めたあの日に得た絆がある。
僕こそがモリアーティで、兄さんと兄様が望む証だ。
いつかまた、三人ともに揃う日がきっと来る。
その日が来るまで僕は"M"として生き、二人が見つけやすいように精一杯にこの身を輝かせなければならない。
それがいつになるかは分からないけれど、その日のために僕はこの英国が二人に相応しい国であるよう尽力するのみだ。
早く会いたいと、胸が苦しくなる感情を懸命に抑えてフレッドと向き合い笑みを浮かべた。
(ルイスさんらしいですね、その弟気質なところ)
(そうでしょうか?…ところでフレッド)
(何ですか?)
(急いでいたのではないですか?もう随分と時間が経っていますが)
(あ)
(ふふ。急ぐのなら早く行ってください。もう諦めてしまうのならば、僕特製の紅茶を淹れましょうか)
(では…お茶をお願いします)
(分かりました。掛けてゆっくりしてください)