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Site Hiroyuki Tateyama

つかの間の間の孤独を味わっていたのかい

2016.10.30 12:10

 蜷川幸雄さん演出、平幹二朗さん主演の舞台、『元禄港歌』に出演した1984年の夏は、長い長い夏でした。

 『元禄港歌』の公演は、約一ヶ月の稽古の後、6月に名古屋御園座で開幕。7月を挟んで、8月から9月末までの2ヶ月は帝国劇場でと、長期に渡りました。月曜は休館日でしたが、土日以外にも、昼夜2回公演の日があり、俳優は、劇場暮らしを強いられました。特に名古屋は、御園座内の宿舎で、同僚俳優と相部屋でしたから、楽屋でも宿舎でも、24時間顔を合わせる羽目になりました。そのため、早く東京へ戻りたいと、一日千秋の思いで過ごしたものです。帰京の日、東京駅で、新幹線のドアが開いた瞬間に、流れ込んできたガソリン臭い東京の匂いに、欣喜雀躍したことを思い出します。

 ちょっとやそっとのことでは動じず、むしろ鈍感でデリカシーに欠ける、鹿児島のおじさんになってしまった今では信じられないことですが、俳優を志したばかりの20歳の私には、宿舎での共同生活は、大きな苦痛だったのです。 

 私が鹿児島の高校生だった16歳の時、母は胃がんの手術を受けます。術後、鹿児島市立病院の暗い廊下を、白い手術用ドレープを1枚かけられただけの母が、ストレッチャーで運ばれてきました。天を仰ぎ、目を閉じたまま、歯を食いしばっています。膝を立て、手はめくれそうになるドレープの端をしっかりとおさえていました。その力加減が、細い腕に浮かんだ筋でわかりました。翌年の桜が散った頃に亡くなりました。39歳でした。母の苦痛に比べれば、御園座での共同生活など、天国と地獄。そう考えて、あの夏を乗り切りました。今でも苦しい時は、ストレッチャーの母を思い出します。

 1984年は、平幹二朗さんが、離婚された年でもありました。その記者会見を、蜷川さんと一緒に、帝国劇場の楽屋食堂のテレビで拝見したことを覚えています。『元禄港歌』の御園座公演は、その離婚騒動直後でしたから、平さんは、マスコミを避けるため、私たちと同じ、御園座の宿舎へお泊りになりました。

 平さんといえば、蜷川さん演出の『王女メディア』の、特に新宿の花園神社での公演が印象的です。クライマックスで、本殿の屋根の上から登場するメディアを演ずる平さんの、新宿の喧騒に負けない、朗々たる声で紡ぎ出される、堂々たるセリフは空前絶後。ワーグナーを1曲聴いたような疲労感と満足感に浸り、花園神社を後にしたものです。一方で、どう転んでも、こういう俳優にはなれないと、挫折も味あわされました。

 平さんといえば、もう一つ覚えていることがあります。『元禄港歌』のしばらく後でしたから、1985年か1986年のことでしょう。奮発して、代々木上原のイタリア料理屋で食事をしていると、店の奥から、聞き覚えのある朗々とした声が響いてきました。

「おかあさん、最近、子どもたちと会えないんだよ」

と、始まり、その後も声の主は、プライベートな話を続けます。レストラン中に響くので、自ずと耳に入るのです。

 平幹二朗さんが、広島から上京されたお母様と、お食事をしていらしたのでした。直接、平さんから伺ったのか、蜷川さんから伺ったのか、プロデューサーから伺ったのかは、失念しましたが、平さんのお母様は、英語の先生で、大変な才女でいらしたとのこと。蜷川さんがその著作で「平さんほど、戯曲を深く理解する俳優はいない」と、書いていらっしゃいましたが、そうした文学的素養は、お母様譲りでしょうか。あの時、なかなか会えないと嘆かれていたお子さんのお一人は、今では立派な俳優としてご活躍なのですから、時の流れを感じずにはいられません。

 今年5月の、蜷川幸雄さんの告別式の折、平さんは、次のような弔辞を述べられました。

『あなたは、一度も僕の演技を褒めてはくれませんでした。シャイだと言うことは分かっていましたが、僕は何とかあなたから褒めことばを引き出したく、熱演に熱演をつづけました。』

 でも、私たちは、蜷川さんが、「平さんは天才だからな」とおっしゃるのをよく聞いたものです。

 また、1982年に蜷川さんが上梓された『BGMはあなたまかせ』では、「孤立こそが似つかわしい」というタイトルで、平さんの演技のことを、以下のように書いていらっしゃいます。

「稽古場はみんな感動し興奮していた。ぼくらはみんな、これはきっといい舞台になると確信した。(中略)このような演技は歌舞伎俳優でも新劇俳優でもそうざらに出来るものではない。論理と高度の技術を持つもののみが可能なのだ。」

 平さんを絶賛されているのです。他にも、こういう記述があります。

「はじめて、口をきいたのは、たしか平さんがぼくの演出した『リア王』を日生劇場にみにきて(中略)しゃべってみると冷たい感じで他人を拒絶しているようにみえるのは、じつは照れ性のあらわれなのだということがよくわかった。」

 確かに、お二方とも、シャイなところがおありでしたが、芸術家の在り方としては、きわめて真っ当だと思います。

 さて、御園座でのこと。昼夜の二回公演の時は、昼の部が終わると、夜の部まで、2時間ほどしかありません。衣装を着替えたり、メイクを直す手間を考えると、俳優は宿舎に戻らず、そのまま楽屋で過ごしたほうが楽なのです。ところが、人の出入りの多い楽屋を嫌った私は、一人、宿舎へ戻りました。文庫本をパラパラめくっていると、あっという間に準備の時間です。エレベーターで楽屋へ降りると、途中、平さんが乗っていらっしゃいました。平さんは、文庫本を手にする私を見るなり、こうおっしゃいました。

「つかの間の孤独を味わっていたのかい」

 それは、朗々たる声の、堂々たるセリフでした。

 『マクベス』『タンゴ冬の終わりに』といった蜷川作品、さらに、テレビや映画を含めた、平さんのどんな作品のセリフより、この時の言葉が最も心に残っています。そして、1984年の夏は、つかの間の孤独を味わった長い長い夏として、私には印象深いのです。

 平幹二朗さんの、ご冥福をお祈りいたします。

写真は1983年、帝国劇場内の稽古場にて。